「神」ができるまで 世代を超えた伝言ゲーム
(読了目安9分)
昔の文献には、「超能力者」としか思えないような人がたくさん出てきます。
神通力で人を生き返らせたり、山を動かしたり、この世を作った神の話などもあります。
しかし現代では、そんな派手なことができる人の話はほとんど聞きません。
ここでは、そんな派手なことができた人たちを仮に「神」とし、「神」ができるまでについて書いてみます。
この投稿でマスターが伝えたいのは、主に、
「噂話を信じちゃいけないよ」
「自分で考えて結論を出しましょう」
ということです。
さて、昔はなぜ「神」がたくさんいたんでしょうか。
結論から言えば、「人類に今ほどの教育がなかったから」なんですが、ピンときますか?
教育がないと、その出来事を表現するための「単語」や「表現力」が乏しく、不可解な出来事に理由をつけるために、多くが「神」か「悪魔」の仕業になってしまうんです。
みなさんは、「伝言ゲーム」を経験したことがあると思います。
はじめの言葉は、10人を介して伝わると、「違う内容」になります。
昔はほとんどの人が文字が書けなかったので、見たり聞いたりしたことを言葉で伝えるしかありませんでした。
また、「語彙・単語の種類」が少ないため的確な表現ができず、人の耳を通過するごとに、思い込みや願望で話が変わり、話が本質とは全く違った内容になっていきました。
これが
「世代を超えた伝言ゲーム」
です。
ですから、その場で起こった現象が、何世代にも渡って正しく伝わることはまずありえません。
また、口伝情報というのは、同じことがらについてでも、人によって言うことが変わります。
たとえばAさんに好感を持つ人からは、Aさんは「神」とされ、イヤな思いをした人からは、「Aさんは悪魔だ」と言われたりもします。
ですから、その後「文字情報」としてまとめようと思っても、まとめる人間がどの情報を信じていいのかわからず、編集する人の意図や思惑、先入観も加味され、文書が作られてしまいます。
また、たとえば昔のインドの本だと、昔の話を今の言葉に翻訳するだけで誤差が出ますし、インドの言葉を日本語に翻訳するときにも誤差が出ます。
当時起こった「常識的な出来事」が、数千年後には、「超常現象」になってしまうことも充分にあるわけです。
そしてこれが、昔「神」が多かった一番の理由と言えますが、「カメラ」などの記録装置がなかったため、客観的な記録が残せませんでした。
客観的な記録ができるようになってきてから、この世から「神」がいなくなったと言ってもいいかもしれません。
客観的な記録が残せない時代だったからこそ、人間の思いこみでいくらでも「神」が作れたわけです。
これがマスターが考える「神ができる仕組み」ですが、この考え方を決定的にした出来事がありました。
それは・・・
「彼ら、語彙が少ないからねえ」
という言葉でした。
◎彼ら、語彙が少ないからねえ
この言葉は、ネパールの山奥に住む父からサラっと出た言葉なんですが、マスターにとってはまさに革命的な言葉でした。
父は1995年ごろから、ネパールの山奥でNGO活動をしています。
活動の場は主に、電気もガスも水道もなく、車では入れない山奥で、教育水準は低く、読み書きできる人がとても少ない地域です。
活動を始めて数年後、なんとかネパール語を覚え、「村人と同じ釜の飯」を食べるようになるころには、父の信用は徐々に上がりはじめ、支援活動が芽を出しました。
信用を得るようになっていくと、村人の多くが、父のことを「デオタ」と呼ぶようになりました。
「デオタ」とは、日本語に訳すと「神」という意味です。
以下、父の一時帰国のときのマスターと父の会話です。
太文字が父です。
父 「なんだかね、ぼく、たいしたことしてないのに、村人がぼくのこと、デオタって呼ぶんだよ・・・」
マスター 「デオタ?」
父 「神さまっていう意味なんだ」
マスター 「へえ、すごいじゃん、神なんだ」
父 「彼ら、語彙が少ないからねえ」
マスター 「そうか、表現したくても言葉が見つからないんだ、なるほどね」
語彙の少ない彼らにとって、自分たちを助けてくれる人は、「親切な日本人」ではなく、「神」という言葉になってしまうようなんです。
たとえば、子どもは自分が知っている単語の範囲で表現しようとしますから、とても少ない語彙の中でなんとかやりくりしますよね。
ネパールの山奥の人も、教育を受けていない人が多いですから、日常生活で使う単語はとても少ないわけです。
ですから、自分たちにとって良いことをしてくれる人がみんな、「神」という表現になってしまうわけです。
ここでマスターは、昔の神話など、「神」ができるまでのシナリオに気付き、思考のシフトができました。
以下のような感じで人は「神」になっていきます。
マスターの父は、「日本」という国から「飛行機」でネパールにやってきたんですが、もし日本を「東の海にある島国」と説明したら、生まれながらに信仰のあるネパール人は、「東」に結びつく神を思い浮かべ、父のことを「東の海から現れた神の化身」と解釈するかもしれません。
「飛行機」という空を飛ぶ乗り物でネパールに降り立ったと説明したら、「東の空から人の形をした神が降りてきた」と解釈するかもしれません。
教育を受けていない彼らには、「日本」も「飛行機」も縁のない単語ですから、そんな単語のない彼らには「日本から飛行機に乗って来た」という表現はできないんです。
そして結局、自分たちの単語を使った表現になり、いつか伝言ゲームによって「東の空から神が降りてきた」となってしまいます。
そして1000年後に人々はこういう文書を見るわけです。
「大昔、東の空から神が降りてきた」
・・・これじゃ事実と全然違いますよね。
そして父は実際に、彼らが知らない言語(日本語)、彼らが知らないいろいろな道具、そして彼らが知らない計算などを使いながら、多くの人を助けましたが、これも、一歩間違えれば1000年後には、「神の書」「神の道具」「魔法の書」「呪文」などと言われるかもしれません。
20年以上の活動で信用を集め、より多くの人が父を頼るようになると、噂が噂を呼び、父の人物像はどんどん大きくなり、やがて神格化されていきます。
わかりやすく言えば、「触られただけで病気が治った、顔を見ただけで元気がもらえる」と言いだす人が出てくるんです。
父本人も、マスターへの手紙にこう書いていました。
「ぼくの虚像がどんどん膨らんで恥ずかしいです。ぼくはそんなに大きい人間じゃないのに・・・」
そして噂はとどまることを知らず膨らみ続けます。
そうすると、「プラシーボ」や、集団心理がプラス方向に働き、仮に病人に対してなら、ただ勇気付けるために触っただけなのに、「彼が触れたら病気が治った」「彼が近くに来ただけで元気になる」などの噂が広まるわけです。
実際は父が触らなくても、自然に治るタイミングだった人も多いはずなんですが、虚像が膨らんでしまうとどうにも止めることができなくなり、良いことはすべて「父の仕業」になってしまうんです。
父の話は、おばあさんが孫に口伝するとき、少ない語彙を使ってとんでもないことを伝え、孫は純粋におばあさんの言葉を信じ、それが成長した孫のあいまいな記憶によって文字として記録され、昔は特殊能力を持った神がいたことになるわけです。
現代は、カメラやビデオなどの記録装置がありますから父は神になりませんが、仮に、50年前の時代なら、父は以下のように言われたかもしれません。
(カッコ)の中はマスターのツッコミです。
神はその姿を私たち人間に似た外見に変えていた
(父はもともと人間です)
ネパール人にはわからない「神の言葉」を話していた
(ただの日本語です)
彼は病人の額に手をかざすだけでどんな病気も治した
(「世代を超えた伝言ゲーム」で大げさになっただけです)
彼が歩くところには花が咲き
(花が咲いているところを歩いていただけです)
彼が座るところには鳥たちが集まった
(エサをやっていただけです)
乾季にもかかわらず雨を降らせてくれた
(たまたま「降るといいね」と言っていたら降っただけです)
・・・本質とはずいぶんかけ離れていますよね。
◎まとめ
ということで、「神」ができるまでの行程を整理すると以下のようになります。
昔の人は読み書きができない・語彙が少ない
↓
そんな人が、ありがたいことをしてくれる人や、自分の知恵では理解できないことをする人に遭遇する
↓
語彙が少ないので「神」と表現する
↓
世代を超えた伝言ゲームにより、その人にまつわる事実が曲げられ、大げさな内容に変化していく。
↓
インパクトのある大げさな内容ばかりが後世に伝えられ、昔は「神」がたくさんいた、ということになる。
※現代、神がいないのは、人類の教育レベルが上がったことや、カメラやビデオなどの客観的な「記録装置」ができたからです
このように、世代を超えた伝言ゲームの末、「神」になった人はたくさんいたと思いますが、人があえて自分から神になるとしたら、どんな理由からでしょうか。
人が自分の意志で「神」になるパターンは、2つに大別されます。
ひとつは、多くの人を「救う」ために神になるパターン、もうひとつは、多くの人から「搾取」するために神になるパターンです。
(はじめは前者の人も、途中から後者になることが多いようですね)
ということで、次回は、上記の前者、「多くの人を救うために神になった人」の話をします。
昔、「モーセ」という人物が海を割った話です。
それからモーセの後、「キリスト」もいろいろな奇跡を起こしましたね。
今後、キリストのことについても簡単に書いてみたいと思います。
・・・
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