「暴言」は愛ですか?

(読了目安4分)

以前、少年野球の指導の場で、暴言・罵声があることを見たプロ野球選手が、「時代は明らかに違う、変わらないといけない」とコメントしたそうです。
マスターもこの意見に賛成なので、「暴言」は愛ではないということを書きたいと思います。


たとえば以下は愛でしょうか。

「イライラして不機嫌になる」

「イライラの原因を他人のせいにする」

「イライラして暴言を吐く」

「他人を責める」

「ふてくされて挨拶をしない」

「なんでもかんでもまず否定する」

「頭にくると物を投げる」

「頭にくるとドアを強く閉める」

「不機嫌になるとキーボードを強くたたく」

「不機嫌になると動きが雑になる」

・・・愛ではないですよね。


人類の進化の方向は、暴力や暴言から卒業する方向です。
大昔なら、気分次第で人を殺すことは頻繁にありました。
日本でもそうでしたし、中世の「奴隷」は人として扱われていませんでした。
現代でも、発展途上国では、村の長老たちの意見で人が殺されることもあります。
昔は、現代よりずっと多く人が殺されていたんです。
やがて「人権」という言葉が浸透すると、「殺人」は重罪とされ死者は減っていきました。
そしてここ数十年は、日本では「暴力」も禁じられ、パワハラに対するペナルティーは徐々に大きくなっています。

マスターが中学生だった40年ほど前は、暴力は当たり前でしたが、現在、教師による体罰が表に出ると、解雇されることもあります。
人間は「苦痛」から逃れる歴史を歩んでいますから、殺人や暴力が罰せられるのは自然な流れです。


では、殺人や暴力が罰せられるようになった現代、次に罰せられるのはなんでしょうか。
殺人が公に禁止され、暴力が公に禁止された現代、次の禁止項目は、「暴言」に移りつつあります。
暴言は、心に傷を残すからです。
暴力的な言葉は、人類の進化に逆行しているんです。


「殺人」「暴力」「暴言」・・・程度の差こそあれ、本質は同じです。
みなさんは、「殺人」をする人と関わりたくないですよね。
みなさんは、「暴力」をふるう人と関わりたくないですよね。
みなさんは、「暴言」を吐く人と関わりたくないですよね。
それでいいんです。
もちろん自分が「暴言」をやってもいけません。
自分がやられたくないことは、他人にしてはいけないんです。


殺人は法律で裁かれ、場合によっては死刑になりえます。
そして暴力も最近はかなり刑罰が重くなり、内容によっては長期の実刑判決が出ます。
そして現代、暴言も、その領域に達しつつあります。
スマホをはじめとして記録媒体が普及し、「暴言」の録音は容易になり、社会的制裁を受けるようになりました。


殺されて嬉しい人はいませんし、暴力を受けて嬉しい人もいません。
だからこそ刑事罰があるわけです。
同じように、暴言を受けて嬉しい人はいませんから、今後人類が一層成長すれば、暴言も刑事罰や社会的制裁の対象になっていき、暴言が激しい人は自然淘汰されていきます。
人類は、愛に向かって歩き続けていますから、人が嫌がること、つまり愛に反することをする人は排除されていくわけです。

人類は、殺人や暴力は愛ではないと学びました。
そして今後は暴言も愛ではないと認識し、暴言を卒業していきます。


・・・

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