愛か否か ―サーフィンに行く夫―

(読了目安12分)

既婚女性のK子さんから質問をいただきました。


夫はサーフィンが趣味で、泊りがけで行くことがあります。
夫がいないのは寂しいのですが、夫に人生を楽しんでもらうために笑顔で行かせてあげるのは愛ですか?



大切な内容だと思いますので、今回は「質問への回答」という形で投稿します。
それぞれの立場から考えるため細かい話になります。
夫婦の問題に興味がある方に読んでいただければと思います。


・・・


妻を家に残して夫が出かける状況は、サーフィンに限らず実際にある話です。
さて、これが愛なのかどうか、みなさんも一緒に考えてみてください。


まず、「愛」の条件というのを思い出してみましょう。
愛とは、「私もあなたも周りも楽しい」という状態でしたよね。
ですからこの状態をキープできていれば「愛」です。


では、

1:K子さんの立場


2:夫の立場


3:周囲の立場


この3つについて考えてみましょう。
参考までに「マスター夫婦の場合」も書いてみます。



<1:K子さんの立場>


K子さんのコメント中に「寂しい」とありますが、その寂しさの質によって、愛かどうかの判断が変わります。

「寂しさ」は、人間にとって苦痛のひとつだということは間違いありません。
しかし夫の趣味のためだと思うことで、その寂しさを「前向き」に乗り越えられるなら、愛をベースにしています。
逆に、もし「私が我慢すればうまくいく・・・」という「後ろ向き」な寂しさを味わっているなら、愛ではありません。


K子さんがストレスを抱えてしまうということは、夫は「妻に我慢させることをよしとする夫」「妻が喜んで夫を送り出す状況を作れない夫」ということです。


そして、そんな夫婦関係にK子さんが甘んじていることも愛ではありません。


「夫に人生を楽しんでもらうために笑顔で行かせてあげるのは愛ですか?」という質問になるということは、「サーフィンに行かせてあげることで夫が楽しめる」と思っているわけですから、「夫の幸せは私(妻)と一緒にいること」と信じられないのかもしれません。
また、妻が「夫の楽しみは私と一緒にいること」と信じることができないような行動を、夫がとっているということです。
夫がK子さんと一緒にいる時間を楽しそうに過ごしていないわけです。



たとえば「夫がいないと寂しいけど、私は私で友達と飲みに行くから、夫と一緒に居なくてもかまわないの」という心境では、「あきらめ」がベースですから愛ではありません。


さらに、夫が出かけても寂しがらない妻も多くいますが、その本質は信頼関係をベースにしたものではなく、「夫がいないとせいせいするから」「自由になれるから」「夫の行動には興味がないから」というものが少なくありません。


K子さんには「寂しい」という感情がありますから、上記のような妻よりもよほど愛に近い女性ですが、「寂しさ」を感じている状況では愛に近づくことは困難です。

「夫が出かけるからにはきっと周囲に愛をそそいで帰ってくる(社会貢献して帰ってくる)」、こう信じることができれば、寂しさはなくなるはずですよね。
たとえば、自分の夫がサーフィンに行くことで「サーフィンを教えて社会の役に立つ・周囲を癒してくる・周囲に対して家族の信用を上げて帰ってくる」などと信じることができれば、夫の外出をむしろ喜べるはずです。


喜べないのであれば、それはまだ夫婦の信頼関係ができていないことや、夫を一人前の大人と認められない・自分をかまってもらいたいなど、愛を欲しがる気持ちが強いからです。


「夫をサーフィンに行かせることは愛でしょうか・・・」


この質問をまとめると、以下太文字前半の心境なら愛、後半の心境なら愛ではないということになります。
ただ、人間は不完全な生き物ですから、両方の気持ちが混在する場合がほとんどかもしれません。


<愛がある>
・「アナタ、思いっきり楽しんできてね!」
・「きっとアナタは周囲に愛をそそいで帰ってくるわ」
・「あなたの外出は私の誇り」


<愛がない>
・「私は寂しいけど我慢する・・・」
・「夫が家にいなくてむしろ幸せ」
・「これで友達と飲みに行ける」
・「怒られたくないから認めよう」



次に、K子さんが夫を送り出すということですが、K子さんが同行しない理由についても考えてみる必要があります。
同行しない理由は、夫の都合か妻の都合かの2つに分かれ、さらに愛をベースにしているか否かに分かれます。



<夫の都合 (愛がベース)>
・「妻の身体を心配して」
激しい運動に対して身体が弱い・運動に向いていない・そもそも運動に苦手意識がある・・・
こんな奥さんなら、たまには自宅待機をしてもらい、一人の時間を楽しませてあげることも愛です。

・「社会貢献のため」
夫婦の信頼関係ができている状態であれば、夫だけが出かけるのも愛です。
夫に、サーフィンを教えるなどの社会貢献ができる力があれば、役割分担という意味で妻と別行動してもいいと思います。


<夫の都合 (愛ではない)>

・「妻が同行すると他の女の子と遊べない」
・「妻がいるとお酒が自由に飲めない」
・「妻がいると不倫のチャンスが減る」
・「妻がいると自分のペースを保てない」



<妻の都合 (愛がベース)>

・「夫の力を発揮させるため・存分に楽しませるため」
夫が存分にサーフィンを楽しむために、妻が自ら同行を控えるなら愛です。
夫がサーフィンに専念している間、妻は家事をしっかりやり、さらに「実家の両親に顔を見せる・誰かの手伝いをする」など、社会貢献をすることができれば、愛を発信していると言えます。
その場合、愛をそそいだわけですから、妻は「寂しさ」ではなく「充実感」を味わうことができます。


・「せめてあなただけでも」の心境
たとえば夫とドライブ中に助手席のあなたが寝るのは愛です。
それは2人の合計睡眠時間を長くとり、2人の力を合わせたときのトータルパフォーマンスを上げるためでしたよね。
「オレが運転してるんだからおまえも起きてろよ」とか「あなたが運転してるんだから私が寝るわけにいかない」という考え方は、基本的にお互いに足を引っ張るので、まだまだ子どもの思考なんです。
また、自営業などでは、忙しいときに昼食はとれませんが、2人で営業をしているなら、せめて時間がある人が昼食をとるのが愛です。


「相手が食べていないから私も食べない」ではなく、「2人のうちせめて時間がある方が食べておこう」という考え方が愛なんです。

ですから、夫婦でも、休日に一人だけでも時間が取れるなら、「家事・諸手続き・買い物」などを妻がやり、夫がサーフィンを楽しむことはありえます。
2人が同じ気持ちなら、「夫が楽しむことが妻の楽しみ」になっているはずだからです。



<妻の都合 (愛ではない)>
・「私は他のところに行きたい」
・「直射日光に当たりたくない」



※参考:マスター夫婦の場合
参考までに、マスター夫婦の場合についてです。
結婚後、マスターの妻は3年続けて1泊で外泊したことがあります。
女性だけのバイクの集まりで、夫婦共に納得の上での外泊です。
マスターは、妻がただ遊びに行くだけではないとわかっていて、お互いに役割分担ができています。
周囲に迷惑をかけていませんから、この状況は「愛」と言えます。


また、上記とちょっと意味合いが違うかもしれませんが、マスターは「出産の立会い(同席)」をしなかったんです。
「感動的な場面」とされることが多い「出産現場」ですが、マスターの妻はマスターにこう言いました。


「あなたには衝撃が大きいと思うから外で待ってていいよ、私は大丈夫だから」


これは、「出産現場を見られたくない・夫が幻滅したらどうしよう」などという妻の都合ではなく、夫のことを心配した結果の言葉だとマスターは信じることができ、「うん、それじゃそうさせてもらうよ」と、分娩室の外で待っていました。
普段の生活態度から、妻が「私は本当は不安です、本当はあなたに一緒にいてもらいたいんです」という気持ちを我慢するような事はしない人だと思ったんです。

もし妻が不安な気持ちを我慢していたなら、いつか見返りを求め「私がどれだけ我慢してると思ってるの?あんたも我慢しなさいよ」などとストレスを吐き出してしまうかもしれません。
しかしマスターの妻はそんなことは言わず、また、周囲に対しても「私の夫は出産で不安な妻を一人にした!」と愚痴を言うこともありません。
マスターに対して愛をそそいだ結果、自分もストレスを溜めることなく出産したわけです。


ではサーフィンだったらどうでしょうか。
マスターは家族と一緒なら行くかもしれませんが、妻や子どもを残して行くことはないと思います。
子どもたちが海でサーフィンをしたいなら連れて行き、子供が喜ぶ姿を見て喜ぶかもしれません。
万一なにかの都合で一人でサーフィンに出かけるなら、妻が笑顔で見送ってくれるということは信じられます。
また、逆であっても同じように、お互いが役割分担し、自分の責任を果たすことを考えると思います。




<2:夫の立場>



仮にK子さんの夫が、多くの若者にサーフィンを教える立場にあり、若者たちもそれを年に一度の楽しみにしているなら、夫の行動は愛かもしれません。
ただし、妻であるK子さんの寂しさの上に成り立つ趣味はまだ愛ではなく、夫婦間の信頼関係を作る方が先です。


「普段の生活で溜まったストレスを発散する手段」としてサーフィンがあるとしたら、「危険」です。
「危険」の典型例は、ストレスの発散手段としての「お酒(飲み屋)」です。
夫が飲みに行くのは不本意なのに、「ストレスが溜まってるんだし、お酒ぐらいしょうがないんじゃないの?」と言う妻がいますよね。
それって一見愛のある言葉に聞こえますが、実際は自分の役割を放棄した妻のセリフです。
本来夫は、妻がいるから家に帰ってきますが、もし、妻よりもお酒を優先するようになってしまったら、「おまえは酒以下」と言われているのと同じです。
また、妻も、「私は夫にとってお酒以下の女です」と認めているのと同じで、「私は夫にとって癒しではないです・夫婦関係がうまくいかなくてもいいんです」と宣言しているようなものなんです。


同じように、夫が泊りがけでサーフィンをしに行くのは不本意なのに、「ストレスが溜まってるんだし、サーフィンぐらいしょうがないんじゃないの?」と、夫の外泊を許してしまう妻は、「私はサーフィン以下でいい」と言っているのと同じで、これは愛ではなく、妻としての役割を放棄していると言えます。


平和な家庭は、夫婦お互いが相手を癒す存在にならないと成り立ちません。
「配偶者の癒しになる」という自分の役割を放棄して、お酒や趣味に配偶者のストレスの発散を委ねていてはいけないんです。
夫が「いつも一緒にいたい」と思える妻になることが平和な家庭の秘訣です。
もちろん逆も同じです、妻が「いつも一緒にいたい」と思える夫になることが、平和な家庭の秘訣です。
恋愛中や結婚初期は、お互いに仕事を休んででも一緒にいる時間を作ったんです。
できていたはずのことができなくなるのは、愛をそそごうとしなくなったからなんです。

これまで何度か書いたように、「夫婦」は社会の最小単位であり、社会の土台と言える大切な人間関係です。
この土台がしっかりしていないと、夫婦ゲンカ・暴力・不倫などの多くの問題が起こり、さらに「飲酒・ギャンブル・子どもへの暴力や無関心・犯罪・事故」などに発展します。


なによりも夫婦の信頼関係ができていることが「愛」であって、自分の趣味のために妻を不安にさせるのは愛ではありません。


「多くの若者にサーフィンを教えられる夫が私の誇りです。あなたは思いっきり楽しんできなさい 」

K子さんがこんな気持ちになれないなら、その原因と対策について、夫婦で話し合う必要があります。




<3:周囲の立場>


サーフィンに行くことに関して、夫婦が納得しているとしても、周囲が心配や不満を抱えていたら愛ではありません。
わかりやすい例としては、サーフィンに給料をつぎ込んでしまい、毎週のようにサーフィンをやりに行くような状況です。
これでは周囲も心配しますよね。
しかも、サーフィンの上達が目当てではなく、サーフィン後の夜の飲み会で騒ぐことが目的だったり、持っているボードを褒めてもらうことが目的だったりしたら、結局なにか問題を起こし、周囲がフォローしなければならなくなります。

これは愛ではありません。

また、たとえばお酒を飲む夫婦は、飲めば2人とも気分がいいかもしれませんが、お酒を飲むために借金を抱えてしまったり、あまりのだらしなさに周囲が呆れてしまったり、子どもの急なケガや病気のときに車を運転できなかったり、大切な場面で判断力が鈍ってしまったら、愛ではありませんよね。


サーフィンによって、それと似たようなことになってしまうなら、愛ではないわけです。

周囲にとって「愛」とは、夫がサーフィンに行くことをみんなが喜んでバックアップしてくれるような状態です。
たとえば、普段から夫婦仲が良く、仕事熱心な夫なら、夫の親や友達も「しっかり楽しんできてねっ!」と笑顔で素直に言え、これが愛です。




◎結局どうなの?


夫の趣味のために妻が我慢することは愛ではありません。
夫の趣味のために妻が寂しい思いをすることも愛ではありません。
夫のために妻が我慢・・・昔なら「美談」とされたかもしれませんが、現代では単に男性の都合です。



では最後にK子さんのコメントをもう一度振り返ってみましょう。


夫はサーフィンが趣味で、泊りがけで行くことがあります。
夫がいないのは寂しいのですが、夫に人生を楽しんでもらうために笑顔で行かせてあげるのは愛ですか?



この質問をした時点で、K子さんは自分の行動が愛なのかどうか不安の中にあります。
そして、妻が不安になるのは、夫の普段の行動が愛ではないからです。
夫の行動が愛ならK子さんは不安になりませんから、この内容を書くこともありません。
また、K子さんの愛が本当の愛なら、K子さんにも愛が返ってきますから不安になることはありません。


ということで、K子さんの質問に対するマスターの回答は「愛ではない」です。

・・・しかし、マスターはいつも「信じていいのは人間の不完全性」と書いてますよね。

ですから、「愛ではない」と言っても、「100%愛ではない」ということではありません。
また逆に「愛です」と言っても、それも100%ということではないんです。


K子さんに限らず、「寂しい、でも行かせてあげたい、行かせてあげるなら笑顔で送りたい」・・・人は、こんな複雑な心境の中でギリギリの愛を表現することが精一杯という場面がほとんどかもしれません。


そんな心境で愛に迷う人が多い中、あえてはっきりと書くなら「愛ではない」となるわけです。
それに、「K子さんの行動はまさに愛です!」なんて書いたら、信じようとする人にとってはとても楽ですが、それじゃ人が人として成長しないですよね。
人は完璧な状態になってから結婚するものでもありませんし、完璧ではないからこそ、結婚してからも成長できます。
また、愛にたどりつくためには、「人はどうせ完璧になれないからあきらめる」ではなく、一歩でも完璧に近づくために努力し続けることが大切なんです。


愛は「我慢」や「寂しさ」を超えた、もっと深い部分にあると思います。


最後までありがとうございました。

・・・

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