宗教の卒業

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みなさんの周りに、宗教の妄信的な信者や熱心に布教活動をしている信者はいますか?

そしてみなさんは、そんな人たちのようになりたいでしょうか。


◎宗教の卒業


「考え方の違い・価値観の違い」によって人は争い続けています。


「なんでそのぐらいわからないの?」

「そんなことって常識でしょ」

「お礼を言うのが当たりまえでしょ!」

「あんたバカじゃないの?」


感情的になってこんな言葉が出てしまううちは、その言葉が争いの元になってしまいます。


その言葉が今すぐに争いにならなくても、蒔かれたその「種」は、いつか芽を出します。


世界では宗教にまつわる争いごとが絶えませんが、それらは、蒔かれた種が芽を出し、大きく育ってしまった典型例と言えます。


「宗教間の争い」は、その最たるものです。
そして宗教にまつわる争いごとが絶えないのは、大人たちが自分の責任で幸せになろうとしないからです。
言い換えると、自分で考えず、宗教から幸せをもらおうとしているからです。
宗教から幸せをもらおうとする大人たちの姿は、まるで親に甘える子どもと同じで、愛を発信する力はありません。


「愛とはなにか」と考えたくなければ、過去のカリスマ教祖たちの言うことを信じて、言われた通りに生活をすれば楽かもしれません。
しかし、教祖の言うことを信じ切ることで自分が存在するわけですから、教祖の考えを否定されることに耐えられなくなります。
自分が信じる宗教や教祖を周囲から否定されたとき、耐え難い苦痛を味わうわけです。
そんな人たちがお互いに、相手の宗教を否定しあい、最終的には殺しあいになるんです。


宗教にまつわる争いごとが絶えないのは、極論すれば大人たちが「愛をくれ!」と叫び合うからです。
人類は、自分の責任で幸せになれるレベルに達しない限り、争いを続けてしまいます。


つまり、宗教の需要がある限り、人類は愛にたどりつけないんです。


「宗教」は、人に考えることを放棄させ、楽をさせてくれるものではありますが、それはただの「痛み止め」であって、痛み止めでは「自分癒し」までが限界です。
愛は自分癒しを超えたところにありますから、「愛に近づくこと」とは、「宗教を卒業すること」と言えます。




◎教祖のための人生?


悩みや病気など、人生の歯車が狂ったのをきっかけに宗教を信仰し、周囲の反対を押し切ってのめりこむ人生があります。
宗教を生涯信仰するということは、生涯自分を愛さないということですから、生涯愛されるはずもありません。
結果的に「私は教祖から愛されている」と信じることでしか自分を納得させられなくなります。



宗教に限らず、「それは本質ではない」と気付いたとき、すぐに思考を切り替えることができればそれまでの経験はムダではありません。
しかし、「それは本質ではない」と気付いても、気付く前に投資したもの(失ったもの)が大きいほど、思考を変えることができなくなっていきます。


たとえば、いつか教祖が脱税やわいせつ行為で捕まり、我にかえったとき、「私はすでに60歳、納めたお金は3千万円だった」では手遅れです。
教祖のためにあなたの時間やお金を使うことがないようにしてください。
あなたの人生は、あなたのための人生です。


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