宗教 6 在家信者を集める理由


(読了目安6分)

◎在家信者を集める理由


ここでは、「在家信者」の定義を、「世間で学生や仕事をしながら、宗教を信仰している人」としましょう。
つまり、一日中修行をし続けるお坊さんのような人ではなく、普通に社会生活を営み、空き時間で信仰している人たちのことです。


厳密に言えば、「在家」という言葉は、昔と現在では少し意味が違い、各教団によっても定義が違います。
また、反対の言葉に「出家」というのがありますが、昔なら、お寺に入って修行を積む「お坊さん」、現代なら、「宗教団体の専門職員」と言えるかもしれません。


さて、在家信者を募る理由は、表向きは、

「一般の人にも教えを伝えたいから」

ですが、本当の目的は、主に、

「宗教団体の現金収入の確保」

です。


教団が生き残るためにはもちろん、さらに教団の規模を拡大するために、お金が必要なんです。


内部関係者だけでは、お金を稼ぐことができません。
昔の出家信者は、「たくはつ」などで食料をもらったりしていましたが、現代の社会システムではそれが難しくなり、必要なものはお金で買う必要が出てきました。
宗教団体は、自分たちの「教え」を、「著書・お守り・講演会」などに商品化し、外側の世界に住む在家信者に売り、様々な方法でお金を得ています。


「出家信者」であれば、短い時間で確実に教義を学ぶことができますが、「出家じゃないと信者として受け付けません」という教団はとても少数派です。
多くの教団は、現金が欲しいあまり、「在家は認めない」と言う覚悟がなく、信者側にも、「本質が理解できるなら出家します」と言う覚悟がないんです。
教団側も信者側も、自分の都合が優先され、「お互いに中途半端」という状態が、「在家信者」という形を生んでいます。
しかし、教団としては、「お互いに中途半端だから在家でもOKになっちゃうんです」なんて公式に言えるはずはありませんよね。


教団としての公式見解は、

「俗世間で働く人たちにも教えを伝えてあげたいから、在家でもいいんです。少しでも多くの人に教えを勉強してもらいましょう」

「在家ならではの修行があり、それは出家ではできないことです」

「現代社会にフィットさせると在家信者という形になりますし、それが時代の流れです」

「社会生活をスムーズにするために宗教がありますから、在家が基本です」

などになり、そう言いながら、現金収入のために広く浅く布教するわけです。
ですから、信者の質は、出家信者と比べると下がります。
「在家のままでも悟れます」という教団と、「在家のまま悟りたい」という信者という「お互いに強い覚悟がない者同士のかかわり」ですから、多くの教団はお金集めに溺れて「脱税・わいせつ」事件などを起こしますし、信者は、「愛」を目指して宗教をやっても、お酒もタバコもやめられず、お金ばかり使い、愛にたどりつけない人が後を絶たないわけです。


宗教界の「在家のまま悟りましょう」という呼びかけは、女性に身近な「ダイエット業界」で例えれば、「食べながら痩せましょう」という呼びかけと似ています。
ダイエット業界もお金が欲しいですから、「痩せたいなら食べるな」と過激なことは言いませんよね。
太めの女性も、「痩せたい、でも食べたい」という気持ちがありますから、利害は一致しています。
「本気でサポートしよう」「本気でダイエットしよう」という覚悟がない者同士のかかわりになってしまうんです。


余談ですが、もし出家信者しか受け付けないなら、その教団の信者は「少数精鋭」になります。
しかしその「精鋭」というのが怖いときがあります。
「精鋭」というのは、その教義をしっかり身につけているわけですから、教義そのものが愛に反している場合でも、しっかり身につけてしまいます。
そして教祖の指示のままに「殺人」などの過激な行動に走ってしまうんです。
教祖としては命令どおりに犯罪をおかす信者がいれば、都合がいいのは間違いないんですが・・・


出家も在家も一長一短かもしれませんが、今の時代、やはり教団にとっては現金収入が大切なので、現金を持っている「在家」の信者がメインになります。


参考までに、教団がお金を集める主な理由は、「教団の規模の拡大」ですが、それはもちろん「教祖が贅沢をするため」です。
教祖は、「信者のため」と言いながら、豪華な生活をしている場合がほとんどです。
大きな宗教団体の教祖の生活に興味がある人は調べてみてください。




◎お酒やタバコをやる信者を認める理由



これも、在家信者を集めて現金収入を増やすためです。
お酒やタバコをやるのを「OK」として、その人たちにも入信してもらえれば、現金収入が増えるんです。
また、認めざるを得ない事情として、「教祖や教団のトップクラスの人たちがやっているから認めざるを得ない」というのもあります。


多くの宗教の教義は、一言で書くと、「愛」です。
お酒とタバコは愛ではありませんから、入信前まではいいとして、入信後にお酒とタバコをやめないのはおかしな話ですよね。
たとえば、仏教の流れをくむ宗教であれば、お酒を飲むのはおかしい話です。
というか、「愛」の実践には、一般社会の大人として考えても、お酒は無用だとわかります。
やはり、教祖がお酒とタバコ、またはどちらかをやっているから、それを認めざるを得ないのかもしれません。
現実は、「自分たちの利益のために、信者にお酒をやめさせられない教団」と、「それに甘えている信者」、という関係なることは、みなさんも想像できると思います。
教団側にとって信者は「教えを買ってくれるお客様」なんです。


以前、イベントコンパニオンから聞いた酒癖の悪いお坊さんの話や、袈裟の姿のままでタバコを吸うお坊さんの話もしたかもしれません。
お坊さんの「飲み会」で、その店のメニューにない高価なものを特注し、自分にお酒をつぐコンパニオンを叱りつけるお坊さん。
喫茶店の前で、袈裟を着て立ったままタバコを吸うお坊さん。
これらは地域によっては当たり前なんでしょうが、自分たちが宗教界の看板だということを忘れ、目先の快楽に飛びついてしまうわけです。


宗教の世界が、本当に愛を求める人が集まる場であれば、これらは禁じられ、信者も厳密に守りますから、お酒やタバコを公認している宗教団体は、「宗教同好会・サークル活動」などと同じと言えます。


・・・ということで、
ここ数回の投稿で、宗教の崇高さがだんだんなくなってきたような気がしますが、マスターは、今の人類には宗教は必要だと思っています。
人類は未熟で、宗教を卒業するまでにはまだまだ時間がかかります。
しかしみなさんには、どうか冷静に考えてもらえればと思っています。
「お酒」という痛み止めだけでは愛にたどりつけないように、「宗教」という痛み止めだけでは愛にたどりつけません。
愛は自分を癒した先にあります。


ここまで書いているマスターが、もしどこかの宗教の在家信者で、お酒を飲んでいたら・・・もちろんそんなことはありません。
宗教やお酒では長く愛されないことはわかっていますから、無宗教で、お酒を飲まずに、日々愛について考えています。

・・・

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