優しい言葉

母娘の会話

娘(もうすぐ4歳)がママに質問「なんでママはパパ(←僕)に優しく話さないの?」。

これに対してママからの返答「あんなの(←僕)に優しい言葉なんて必要ない」。

補足しておくと、僕はこういう嫁の強気なところが大好きなのでご心配なさらず。

この手のやり取りは中村家の日常の中に自然と馴染んでいて、むしろほんわかした空気の中で展開されます。

いつもだったらよくある家族の会話のひとつとして受け流してしまうのですが、昨日はちょっと違いました。

誰に言っているのか

ふと、「うちの奥さんは誰に対して『優しい言葉なんて必要ない』と言っているのだろう?」と考えてしまったのです。

文脈を日本語文法で理解すれば、それは「夫である僕に対して」となります。

でも、本当にそうでしょうか?

投影とスッキリ

まず思ったのは、彼女が彼女自身に対して言っているのでは?ということです。

彼女の中に、優しい言葉を与えるに値しないと思っている性格・心理的領域・感覚・感情・記憶・体験…などなど、そういったものがある。

そして、そこに夫がスクリーンになって待っている。

彼女は自分の中にある「なにか」を夫に投影(プロジェクション)する。

そしてその「なにか」が担っている主体性(主語の役割)に夫を割り当てる。

ひとりで抱え込むには重苦しいその「なにか」を夫に割り当て、背負わせ、『優しい言葉なんて必要ない』と吐き捨てることによってちょっとスッキリする。
根本的にはなにも癒やされてないかもしれないけど、なんだかスッキリする。
お風呂に入るまではできてないけど、とりあえずおしぼりで顔を拭いたぐらいのスッキリ感、なのかな?

そんなことをつらつら考えてしまいました。

投影への感謝

『優しい言葉なんて必要ない』と物理的(声は音声で、音声は音波 = 空気の振動なので、物理です)に言われた夫である僕はどう反応するかと言う話ですが、基本的になんとも思いません。

というわけで、ひとまず怒る(=拒否する)という反応はしない。

受け入れる。あー、わざわざ「受け入れる」と意識的に努力してない。気がついたらキャッチされてた。そうそう、勝手にポストに入ってたイメージ、と言えば分かってもらえるでしょうか。

彼女の中の「なにか」を投影してくれて、ちょっと嬉しい感じのほうが実感としてある。

それは多分、『優しい言葉なんて必要ない』は僕側では別に否定的な感覚とリンクしていないからだと思います。

珈琲はブラックが好きです

例えば、どこかで食事をしたあと珈琲を注文した、という場面を想像してみてください。

店員さんがいい香りの珈琲をソーサーに乗せて持ってきてくれました。店員さんが聞きます。

ミルクとお砂糖は要りますか?

僕は珈琲をブラックで飲みますのでこのように返します。

要りません。ありがとう。

この感じなんですよ。奥さんと僕の間に起こっている感覚も。

僕にとって珈琲をブラックで飲むことはデフォルトであり、ポジティブですらある(糖分を摂取せずに喉を潤せる、とか)。
だからミルクとお砂糖が「要らない」ことに否定的なイメージが全くない。
なので純粋に店員さんの気遣いに対してささやかな感謝の気持ちだけが残る、というしくみ。

『優しい言葉なんて必要ない』

『はい、必要ないです。ありがとう。

文章で改めて書くとなんかつんつんしているような印象ですが(笑)。
よって、「ありがとう」は強調しておこうと思って太字にしました。

優しい言葉は必要です

僕の心理の中で本当にホントに『優しい言葉』がまったくもって必要ない、あっても無駄、意味がない…という部類のものであれば、そもそも箸にも棒にもかからないと思います。

つまり、奥さんの言動にも気付かないし、ましてやこのnoteを書くにはいたらないはず。

『優しい言葉』を欲している気持ち、『優しい言葉』で包み込むように受け入れてほしいという欲求、その裏返しとしての不安、なんらかのトラウマ…などなど、そういうものが僕の中にある。そして当然、奥さんの中にもある。

『優しい言葉』がすっぽり入る凹み、『優しい言葉』とバランスするのを待っている結ぼれ(心のしこり)があるということだと思います。

SN

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