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"試みる"と「やってから考える」

「やってから考える」の言い回しは、決して殊更新しいものではない。「行動してから考える」などでも検索してみるとわかると思う。しかし、着目しているポイントは違うかもしれない。

「考えてからやる」

「ちゃんと考えてからやれ」と叱られたことのある人も結構いるのではと思う。親や先生に言われた人もいるだろうけれど、仕事で言われることの方が多いのかもしれない。ネットで検索していると、上司から言われる叱責の代表格にもあげられているらしい。この記事は「考えてからやる」を半ば否定するような話なので、そう言われ続けた人には気持ちのいい話かもしれない。ただ、ニュアンスや意味合いはちょっと違う。

「考えてからやりなさい」の趣旨は色々とあるが、主だったものとしては、考えずにやるから失敗したり思わしいアウトプットや成果が出なかったりするのだから、目的や現状、環境、手段をちゃんと考え、それを踏まえてロジカルに計画を立てて着実に実行していけば、仕事はよりよくできる(確率が高まる)ということなんだろうと思う。それはそれで、正しいのだ。

計画づくり

しかし人間、計画どおりには中々うまくいかない。「計画は倒れるためにあるもの」だとか、「計画とは、うまくいった例(ためし)の無い代名詞」と言い切る人さえいる。たしかに、私の人生計画はまさにそれかもしれない。そうでなければ、今頃こんなことを書いていない。

もちろん、会社の営業・事業計画(予算)とか道路の建設計画とかはその通りに実行されることを前提に作られるし、実行される。しかし、ある程度の既存の知識や情報、経験に基づける場合だ。そして、それは組織的でもある。道路の工事も長年の組織的なノウハウの蓄積と専門知識、最新の調査分析技術によって、多少のアクシデントがあって遅れることはあるかもしれないが、プロセスとしては計画どおりに完成することが多い。

しかし、ひとりの人間が未知の世界に分け入るとなると話は別だ。道路工事の話でいえば、ズブの素人が、ツルハシひとつでひとり荒野に立たされても計画どおりに道路を作れるとは、中々思えない(リソースが十分あったとしても)。自分が知らない世界を自分の思い通りに進む世界と混同すると痛い目に遭う。少なくとも私は何度も痛い目にあった。

繰り返しになるが、やってみて初めてわかること、つまり体験によって得られる情報や事実の方が、机上やネット上のリサーチより有意義で有益なことは多い。客観的事実だけでなく、主観的感想も含まれる。計画時には想定もしなかった内容や要素もたくさんある。一歩進むことによって初めて得られた生の情報こそ計画に活かすべき対象だ。時には、計画なるものを大きく捻じ曲げることもあるし、断念を迫ることすらある。

だからといって、最初っから何も考えないでいいと言っているわけではない。思い付きや衝動を勧めているわけでもない。それはそれで大怪我をすることがある。その方向について最低限の下調べや考えくらいはあってもいい。

よくないのは、何も知らないのに”計画づくり”に注力しすぎることだ。そこに時間をかけることだ。過度な計画づくりは、過度な不安や「腰が重くなる」という副作用を生むこともある。ネガティブやリスク要素も掘り起こされがちだからだ。しかし、そのリスクとされるものでさえ、いざやってみると取り越し苦労とか杞憂に終わることもよくある話だ。

「Plan-Do-See(PDS)」と「Do-See-Plan(DSP)」

大事なのは、まず一歩進んで、つまり、ちょっとやってみて新しい世界を知り、そこで得られた情報や体感・肌感覚をもとに考え、更にもう一歩進む。時には撤退するし、断念することもある。ある程度それを繰り返す。雪の中を駆ける子犬が、帰り道を確かめながら遠くへ行くのに似ているかもしれない。「これからのこと」はそれからだ。ゴールのイメージとか、期待の持てる実感とかがわいてきたら、計画を立てるなり思い切った決断なりをする。

仕事をしていると、Plan-Do-See(プラン・ドゥー・シー:PDS)という言葉を聞くことがあると思う。計画を立て(Plan)、計画に沿って実行し(Do)、実行した結果を評価(see)する、そして、その繰り返しがPDSサイクルだ。ココロミル論では、どちらかというとDSPだ。というと広告のことの様に思われるかもしれないが、Do-See-Planだ。正直、鶏が先か卵が先か的なところがあるので、気持ちの問題かもしれないが、しかし、こちらの方がスピードは速い。

とはいえ、まずやってみるにしても、何もわからないと何もできない。先ほどの話で言えば、荒野にツルハシひとつで呆然と立ち尽くす感じだ。ココロミル論ではある意味、そう途方に暮れることのないように”お試し”の機会があると思っている。安心して知ったり確かめたりできる安全な装置だ。DSPの実践の場でもある。もちろん、必ずしもすべての機会が誰かしらによって提供されているとは限らないので、その時には自分で作るか、それに替わる方法を編み出す工夫が必要だ。

買い物での「やってから考える」

買い物のシーンではこうだ。買い物で考え込むかどうかは、人それぞれだと思うけれど、特にお金がかかったり、一度買ってしまうと簡単にはやめられない、捨てられないものなどは、多少なりとも考えると思う。衝動買いのプロ以外は、だ。

100円のジュース一本買うのに根詰めて何日も考え込む人はそんなにはいない(もちろん、いることはいる。私の身近にそういう人はいる)。試飲の機会もあるかもしれないが、普通はとりあえず試し買いで飲んでみるだろう。

資格の勉強を始めようとしている人がいる。学校に通うつもりだ。数十万かかるかもしれない。高いので独学でやろうとして、ネットで情報を集めて、何日もかけて具体的な勉強計画とスケジュールを立てる人もいる。そして挫折する。しかし、一日体験講座に行ったり、勧められた教材の本を本屋で立ち読み(今はネットでも試読できるし、アプリで試用もできる)した方が、実際に申し込んだり買ったりするかは別として、少なくとも前進してるし、情報を得ている。自分が好きになれそうかも含めて。計画はそれからでも遅くない。

買い手の話をしたが、売り手側も同じだ。100円のジュースを売ったり、資格講座を販売したりする前に、まずテストマーケティング(試験販売)をしてみる。たしかに、売り手のための体験教室の様な機会は提供されていないから、自分たちで作る。展示会やイベントに参加したり、SPの代理店に頼んだりすることもあるが、お金や手間をかけないテストもある。ジュースなら、既存のお客さんにサンプル(試供品)を送って感想を聞いてみるとか、身近な人に小分けに試飲してもらって、そこで商品・販売戦略を立てる。

その意味でも、"試みる"や”お試し”というものは、まず行動をしやすいものである必要がある。そのために、敷居を下げる話が出てくる。

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