"試みる"とは、無駄である

こんなことを言われては元も子もない。自分で"試みる"が大事だと語っておきながら、ムダとは何なんだ。書き始めてまだ日も浅いのに、書くに事欠いて逃げる準備でもしているのか。そう思われることは致し方ない。言い方は多少荒っぽいかもしれないが、実際にそうなのだ。※ただし、逃げる準備はしていない。

たとえば、一台のテレビを買おうとする。性能をネットで調べるくらいはいいとして、お店などで実際に試用してみたり、店員さんの説明を聞いてみたり、お店への行ったりするのは手間がかかるし、遠いところなら交通費もかかる。これだけでも時間が結構かかる。ついでにお茶くらい飲んでくるかもしれない。家族も一緒にとなると尚更だ。慎重派なら2度、3度足を運ぶかもしれない。この時点でさらに負担が増える。どれに決めるか不用意な一言でもして夫婦喧嘩がはじまって精神的に疲れてしまうかもしれない。

そんなこと言われては、”お試し”をしに行く気も削がれるかもしれない。”お試し”をしなくてもテレビは買える。テレビを買うというゴール自体は、お試しをしてもしなくても一緒だ。

そんな結論がわかってるなら、”お試し”は無駄なプロセスではないか。ということになると思う。言い換えれば、寄り道だ。それはそうなのだ。しかし、それはよくある「後からなら何とでも言えること」のうちの一種だ。もしくは亜種だ。

最近は「決める」のが早い。”お試し”をしなくてもパパッとポチリで買う人も多い。※ただし、実際にはそういう場合でも、"お試し"に相当する隠れたリスクヘッジがなされていることも多い。そのことは、追々触れる。

これは、一度決めたら後悔をしない、失敗しない自信のある人には関係ない話だ。

よく、「すったもんだ」とか紆余曲折とかいう言葉がある。紆余曲折の度合いが大きいほど、手間暇やお金がかかっていることが多い。基本的にはそれらはコストであって、いくらそのコストをかけたとしても、購入後の便益をよくすることは一見ない。テレビを試して買っても、試さなくても、我が家に届いたテレビの画質や機能に変わりはない。

しかし、紆余曲折、言い換えれば「山あり谷あり」の苦労をして手に入れた品は、思い入れも一入(ひとしお)だ。

それに、万が一の結末があったとしても、手を尽くして納得して決めたものならば、諦めもつきやすいことが多い。なまじ、人の話の受け売りで決めただけなら、「なんであの時ちゃんと確認しなかったんだろう」と後悔するだろう。※もちろん、その万が一の結末を抑える手立てはあって、それもココロミル論では触れる。

"試みる"にかかる手間暇やお金は、いわば後悔しないためのコストであり、時には後々の満足度(←便益とは異なる)を高める投資でもあるのだ。

つまり、"試みる"とは買い手にとっては一種のリスクマネジメントであり、売り手にとっては一種のCS(顧客満足度)向上策でもあるのだ。


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