悪漢⑫
Aさんはネガティブシンキングな人でありますが、その上AB型でてんびん座、更には巳年生まれでありまして御本人曰く、
「執念深いどっちつかずな人間性」
だそうな。
さて、試作品の出荷を終えた直後から、Aさんの頭の中ではデータ改竄が発覚した際の相手方からの追求をどう迎え撃つか?のシミュレーションが念入りに繰り返されておりました。
本来、データ改竄などという大罪を犯した以上こちら側に弁明の余地などありません。
何せ“吹けば飛ぶような”零細企業でありますから、例えばある程度まとまった額の賠償金を課されるだけでも会社の存続を左右するダメージを負ってしまいます。
つまりそれを追求された場合のペナルティが金銭だった場合、何ボならセーフなのか?ましてや金銭ではない製作加工の工程決定の主導権をよこせ!となりますと工場作業を担うバングラデシュ出身の彼女達はどうなるのか?
Aさんの憂いは深いのであります。
つまり交渉にあたって何がこちらにとって“詰み”なのか、妥協点は何処なのか、“逆転の目”があるとすればそれはどんなシチュエーションのどんなポイントなのか?を冷静に見極めなくてはならない。
Aさんは前職に於いて、常に圧倒的不利な状況下。或いは本来楯突くなど許されない圧倒的な身分差の相手に対して、それでもこちらの言う事をきかせる交渉術を元に業績を積み上げてきた人です。
その交渉術の極意は『相手に“してやられた”と意識させない。何ならむしろ“自分が勝った”と思わせる事』だといいます。
ボクシングに例えますと、相手に警戒させた時点でガードは固められてしまう。どんなハードパンチャーでもガードを固めた相手を倒すのは難しい。ならば、相手に『大した事無い』『組し易い』と思わせておいていかにも「ラッキーパンチです~」と言わんばかりの一撃を喰らわす方が、より倒しやすいのだ、と。
社内でそんな警戒感を漲らせていたのは工場長から経理事務のオバチャン連まで含めてAさんただ一人。
そして出荷から二週間あまりを経過したある日、Sテックの製品製作責任者が一人の若手社員を従えて工場を訪ねて来た時、唐突に“決戦”の火ぶたは切られたのであります。
決戦の場は工場内の出荷前検査室でありまして、“室”なんて言いましても畳2畳ほどの狭い空間に大の大人が3人。
事務所が工場の2階であるのに対して検査室は1階の、しかも隅っこ。閉ざされた空間ですから工場長の助け舟も期待出来ない。
先方が会談の場所をこの検査室に指定した段階でAさんは悟ります。
これは会談などではなく“尋問”なのだ
と。
ところがこの尋問、Sテック側からすると思いの外難渋してしまったんであります。
Aさんが行った出荷前検査のデータとSテックが受け取った後で検査したデータ、あまりにも数値がかけ離れていて、製品が充分に冷却しきれないまま出荷となり、同じ製品でも出荷前と受け取り後でコンディションが大きく変わってしまっているとはいえ、それを加味した“誤差”にしても数値のギャップが大き過ぎる。
すなわち出荷前検査と受け取り後検査で製品が別物であるか、さもなくばデータが改竄されたものであるか、そのどちらかでも無ければ説明がつかない。
しかし、今回はSテック側が無理に急かせた事から実際に出荷及び運搬したのはSテック側の人間が行った事から検査した製品が別物だなどは有り得ない話。
すなわち残ったのは……
Sテック側は勝てる気満々で乗り込んで来た訳ですが、相手……つまりAさんの態度・物腰・言動がよく分からない。強く否定するでもなく白旗を上げているのでもない。敵対心を剥き出しにする訳でも無く平身低頭で恭順の意を示すでもない。
微妙に困り顔な苦笑いを湛えながら、雑談には積極的に応じるのだけれど肝心のデータ改竄を認める認めないになると途端に歯切れが悪くなる。いかにも「困りましたね~」と言わんばかりの苦笑い。
どうにもノラリクラリ。
開始5分で、Aさんは相手側に2種類のデータシートと状況証拠、それ以外の攻撃材料を持ち合わせていない事を見抜きました。
「何か切り札を持ってる人間は、本人が上手く隠しているようでも何処となく余裕を漂わせてしまうものなんですよ。
ところが彼にはそれがないどころか押せども引けども私の態度に一切の手応えが見られない事で、本人は精一杯平静を装っているつもりでも、焦りの色がありありでしたからね。
『ああ、コイツはこれ以上の材料は持ち合わせてないのだな』という事を確信しました。」
こうなるとAさんには精神的余裕をもって交渉を進める事が出来る。
まぁね、そもそも論点が噛み合う訳が無いんですよ。
Sテック側はデータ改竄を認めさせようと躍起になってますが、Aさんはそれ以後のペナルティ……データ改竄があったとしてSテック側がどの程度のペナルティを課そうとしているのか?にしか感心が無いんですからね。
そもそも社長命令があったとしても実際にデータ改竄を行ったのは彼なんですから認めるも何も、地球上の誰よりも詳細な事実を知ってるのは彼だけな訳でしょ?
まるでベトナム戦争の徴兵拒否を機に干されて落ちぶれたモハメド・アリが当時最強王者だったジョージ・フォアマン相手に“キンシャサの奇跡”を演じた手口。
わざと詰まったロープの反動を利用してフォアマンのパンチの威力を削ぎつつ、「どうした、お前のパンチはそんなもんか?」「そんなもんで俺が倒せるとでも?」「ホラ、もっと打って来いよ」と耳元で囁いてスタミナを浪費させた戦術を彷彿とさせる手口で、AさんはSテック側の集中力と根気を削ぎまくった訳です。
いくら事実を突きつけ追い込んでもAさんの態度は一切変わらない。
そのうち、ありもしない疑心暗鬼が生まれる訳です。
「コイツはまだ、この状況をひっくり返せるだけの何か“切り札”を隠し持っているのではないか?」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?