認知症発症時早期発見の為の一実例
土曜日の夜だったと思います。
救急外来の患者様が診察や治療を終え、いよいよお会計を残すのみとなった頃、入院病棟から内線が入りまして、
「ちょっと手伝って貰えませんか?私達女手だけでは手に負えないんです」
声の調子から容易ならざる事態が勃発したのは明らかなんです。
病棟へは「外来の患者様対応を済ませたらすぐ行きますので少々お待ちを」と言って、患者様のお会計を急いで済ませます。後は高齢の患者様ですからお家からのお迎えを待つばかりとなりまして、後の事は外来の当直看護師さんにお願いをし、病棟へと向かいました。
病棟に行ってみますと、一人のガタイの良い前期高齢者と思しき男性患者様が、廊下……正確にはナースステーションの前で大声を出して騒いでおります。激昂されていらっしゃる。
私を見て駆け寄って来た病棟の看護師さんに小声で事情を聴きますと、これが“入院患者あるある”な話で、テレビを観る為のプリペイドカードがロクすっぽ観てもいないのに残り度数が無くなって観られなくなった。どういう事だ、納得がいかん!と。
こういう不測の事態に直面した時、私は“何が(どうなる事が)最悪か?”を考えます。反対の“最良”というのはこの場合『この患者様に納得して頂いて、大人しく静かに病室へ戻って就寝して頂く事』になると思いますが、それを実現させるには結構な手間がかかり段階を踏まないといけませんが、この状況でそんな時間をかける余裕はありません。
このケースで最悪なのは、この騒ぎで寝ていた他の患者様が起きてしまい騒ぎが拡大する事です。
ですので、私は小声で看護師さんに「何処か使えるお部屋はありませんか?」と訊きましたら「それなら談話室が使えます」という事でしたので、そこで初めて荒ぶる患者様に近付いて、
「詳しいお話しはアチラでお伺いしますので」
と声をかけ、談話室へ“隔離”した訳です。
話を聞くという姿勢を見せますと一時的にせよ患者様の激昂は納まりますし、別室へ隔離する事によって病棟の静寂を取り戻す事が出来ます。後は聞き手の私が下手を打って患者様の激昂を再燃させない事が重要なのは言うまでもありません。
この患者様のお名前を仮に“鉄男さん”としますが、話を聞いていてその態度や口調、言葉遣いから、現役時代は社長さんとか会社の一部署を束ねる部長さんもしくは課長さん……とにかく複数人の部下を従えてワンマンにやっていた方であったろう事が推察出来ました。
とにかく自分中心で頑固、自分の主張はテコでも曲げない、といった典型的な『昭和のオヤジ』。
テーブルを挟んで私と鉄男さんが向き合い、脇で看護師さんが会話の内容を電子カルテに記録する。そんな構図で話し合いはスタートしまして、私はテーブルにノートを広げます。
この時の私はその病院で勤務するようになって一週間に満たない状態でしたので、病院独自のルールやしきたりを覚える為常にノートを持ち歩いていたんです。
これが思いの外鉄男さんのご機嫌直しに作用したようで事情聴取に協力的な姿勢を見せてくれます。
……後で知りましたが鉄男さん、その頑固でワガママな性格とすぐに怒鳴り散らす性質が災いして二人の実の娘さん達からも『あの人はまともに話をするだけムダ!』という扱いをされていて、病棟のスタッフ達からも遠巻きに腫れ物に触るような態度をとられていたんであります。
この事情聴取の間、何回も「誰も俺の言う事をまともに聞きやしない」という愚痴も聞かれてましたしね。
鉄男さんは脳内出血の手術を大病院で受けた後、本格的な退院に向けたリハビリ目的で三日前にこの病院へ移って来られた方でありまして、問題のプリペイドカードはその時に購入されたそうで。
テレビ用のプリペイドカードってのは大概1000円分くらいのもので、ダラダラと長時間つけっぱなしにしてますと一日で終わってしまうもんです。その昔の旅館やホテルのテレビカードもそうだったですよね?……特にエロチャンネル対応の時は。
さて問題はここからで、一日にどれくらいテレビを視聴するのかを知る為、
「どういった番組をよく観られますか?」
と訊いた所、情報番組と時代劇が好きだ、と。
埼玉県ではローカル局で時代劇を放映してますので「それは欠かさず観ている」そうで、情報番組は午前中の恵さんのやつからミヤネ屋とゴゴスマを掛け持ちで観ている……ローカル局の時代劇、午後3時からですんで両番組と丸ッかぶりしてる、なんて野暮なツッコミは御法度です。
とにかく鉄男さんの言う事を全肯定で、時折頷きながらノートに書き留めて行きますとご機嫌がグングン良くなって行きます。
しまいに私の呼び方が“アンタ”から“ダンナ”に変わったりしましてね。
で、これは今回のテレビカードの件とは関係無いんですが気になる点がありまして。
話が話題の細部にいたりますとちょいちょい答えに詰まり、そして分かり易いウソやごまかしが入るんです。
どういう事かと言いますと、おそらく鉄男さんの記憶はそうした細部に関して欠損しているんです。でも、自分でも瞬間的にそれを自覚しながらも性格上「忘れた」とか「覚えてない」と認める事は出来ず急場しのぎの“でまかせ”で取り繕ってしまう。
担当医の見立ては「分裂症もしくはサイコパス」のようでしたが、私は「断じて違う!」と思いました。
私がお話をした限りで鉄男さんは「認知症の初期症状を発症している」としか考えられなかったのです。
何故そこまで医学的には無学な私が断言出来るかと言うと、私の祖父の時と全く同じだったからなんです。
私の母方の祖父にあたりますが、私が高校を卒業する間際に脳出血で倒れまして救急搬送までされたんですが、その時に担当医から「ご覚悟を」とまで言われながらも、奇跡的に生還を果たします。
ただその代償として、私の母曰く「ボケてしまった」と。ま、今から40年前の言い方ですと、ですけどね。
私は専門学校進学の為に上京し、最初の夏休みの前には祖父が退院した事を知らされます。
夏休みで帰郷してすぐに祖父と二人だけで会いましてね。
昔は四六時中しかめっ面して口の重かった祖父が、今は穏やかな笑みさえ浮かべて能弁に話しかけてくる。その違和感こそありましたものの、話し方や呂律に問題は無く、話自体にも辻褄の合わない所や気になる点も特にありませんで、
『これのどこが“ボケてる”って言うんだ?』
と思いました。その時までは!ですけど。
やがて買い物に出ていたという祖母が帰って来まして三人になりまして、その途端に祖父が言ったんです。
「ところでセガレ達はいつ来るんだ?夏休みだろう?」
祖父は私の事を自分の孫である『洪 喬生』とは認識しておらず、自分の五人居る息子の中の上京している三人の内の誰かだろうと“アタリ”を付けて会話していたんです。
何故なら上京組の三人の、私にとっては叔父にあたりますが、息子達の内で“セガレ”が居るのはたった一人で、それも不倫が露見して離婚され、勿論親権など取れる筈も無く、未だに面会すら出来ずに居る……それは全て祖父が倒れる前の事で大問題になったので知らない筈も無いんです。
さて前述の鉄男さんは、私との会見から僅か三ヶ月で急速に認知症が進行してしまい、虚言妄言の類いから女性スタッフに対する恫喝及びケータイのカメラ機能を使った盗撮を繰り返すなど手が付けられなくなって、事実上の強制退院、形の上では自主退院ですがね、となりました。
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