悪漢③
鉄橋の下を潜り抜けて以降、Aさんは思考停止の状態でただただペダルを漕いでいた。
何処へ行こうなんて当ては無く、ただただ川に沿って自転車を進め、気が付くと橋のたもとに行き着いた。
その橋は東京都北区赤羽と埼玉県川口市を繋ぐもので、橋を渡ると川口に、橋から離れると赤羽に留まる。
Aさんは赤羽に留まってメインストリートである北本通りを駅に向かって走り、途中のコンビニに立ち寄ると缶ビール2本と新聞、そして何故かハサミを買い求めた。
そのままJRの駅前まで行くとパチンコ屋の隣にある野ざらしのコインロッカーに衣類の入ったビニール袋を預け、狭い路地を抜けて北本通りへと戻った。消防署の角を曲がると大きめの公園に行き当たる。その公園の入り口にある公衆トイレの脇に自転車を止めるとコンビニ袋から新聞とハサミだけを取り出してそのトイレに入った。
手洗い場の洗面台に新聞をファサッと被せると薄汚れた鏡を頼りに伸び放題だった髭をハサミでジョキジョキと切り始める。
これ以上は切れないという長さまで念入りに切り揃えて納得がいくとハサミを上着のポケットに入れて、切り落とした髭の残骸をそこいらにまき散らかさないよう慎重に用心深く新聞を折り畳んでトイレを出、ベンチの脇に設置されているゴミカゴへそれを捨てた。
その公園の一角には自転車置き場があるんでありますがそれは明確に指定されたものではなく、皆が勝手にそこへ自転車を置いているからそうなっているに過ぎませんで。
Aさんはここまで自分を運んでくれた“相棒”をそこへ納めると別れを告げました。
空いているベンチ……と言っても時刻は午前5時前ですんで他にベンチに座っている人なんて誰も居りませんけれど……にドカッと腰を降ろしますって~と煙草を咥え、ビールの口を開ける。
ビールをグビグビッとやってから煙草の煙を深く吐き出しますと、なにか『憑き物が落ちた』ような心持ちがしたんだそうな。
財布の中のみっしり詰まったお札を見て以降、Aさん、実は記憶と言いますか実感が無いままに行動しており自分が何を仕出かしたのか、断片的にしか覚えていなかったんであります。
さてこれからどうしようか?
真っ先に浮かびましたのが「ゆっくり風呂に浸かりたい」という思いでありまして、Aさんは慌ててビールを飲み干しますと残り一本は上着のポケットに納めて駅前へと、今度は徒歩で戻ったんであります。
赤羽駅から、不動産屋さんの広告的な言い回しですと『徒歩1分』の所にサウナにカプセルホテルが併設された24時間営業のお店がございまして……ま、今は経営者も業態も変わってしまってますがね。
サウナの3時間コースでチェックインしますとロッカーのカギがぶら下がったリストバンドと館内着を受け取ってロッカールームで着替える訳です。
着替えますと一目散に大浴場へ。
Aさんが入った時間は浴槽のジェットバスが夜間停止しておりまして再開は6時から。その分だけ他に入浴客も居りませんでしたから気兼ねなく積もり積もった垢を洗い流せるというものであります。
浴槽に浸かるより前に洗体場で念には念を入れて身体を洗い、シャワーで泡を流してはまた洗い、これを3回続けて髪を2度洗い、髭を剃ってジェットバス再開の6時を迎えた。
ある意味で“一番風呂”。
これに30分ほどゆっくりと浸かり、他の入浴客がドヤドヤと入ってくる頃合いで大浴場を抜け出す。
上階の休憩室の空いているリクライニングチェアに身体を任せて天井を仰ぎ先程までの記憶を辿ってみる。
断片的ながらも自分が仕出かした事を思い出してみると映像としては振り返る事が出来ても実感が無い。映画かドラマを観ているかのように完全なる他人事。
それだけに、じゃあこれから先をどうするか、と考えると言い知れぬ不安が押し寄せて来た。
少し早めに出る事にしてフロントやロッカールームのあるフロアへ降りるとフロント脇のガラスケースから下着類と靴下を買い求めてロッカールームで着替える。
ゴミ入れのバケツに汗染みたワイシャツを捨て、アンダーシャツの上に上着を羽織る。
店を出てすぐの松屋で朝定食を食べた。食器に盛り付けられた食事を摂るのは何年ぶりだったろうか。
伸び放題に伸びきった髪をすぐにでも切りたかったがそれにはスーツの上着が邪魔に思えて、まずは新しい衣服の調達を優先にした。
川口駅の駅前から少し外れた場所にディスカウントスーパーがあって、そこなら衣服から何から、当座に必要な物をあらかた揃える事が出来る。
開店と同時に入ってポロシャツとTシャツ、替えの下着類をカゴに詰め、スニーカー、リュック、大ぶりなビニールバックと衣料品コーナーでの調達を済ませると、続いて文具・日用品コーナーでゴミ袋と個人情報漏洩対策の特殊鋏を調達した。5個のハサミを連結させた造りのこのハサミは大ぶりで、衣類の裁断にも耐え得る頑丈さを備えている。
赤羽駅構内のトイレでスーツ上下からポロシャツとカーゴパンツに着替え、革靴をスニーカーに履き替えた。
脱いだ物はゴミ袋に詰めてからビニールバックに、他の買い物と一緒に入れ込んで駅を出てからコインロッカーに預け、それから待望の理髪店に向かった。
髪を切ってもらいながら次にやるべき事を考える。まずは不用な物……例えば朝一番にコインロッカーへ預けた衣類であり、今しがた着替えたスーツと革靴などを処理しなければならない。特にスーツはそのままの形では無く細かく裁断した上、出来るだけ遠く離れた数カ所に分散して廃棄しないと危険だ。
革靴は裁断するのは無理にしても右と左で全く違う場所……例えば右は埼玉県で左は神奈川のよう……に廃棄するのが賢明だろう。
そこまで終えると、ようやくゆっくり眠れるような気がする。
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