夜明けは希望の象徴か? クソエッセイ①


「夜明け」だの「朝日は昇る」だのを希望の象徴として歌詞に組み込んだり小説の情景描写として取り入れたりすることがよく見受けられる。

みんな本当に朝が来ることを喜ばしいことだと思っているのだろうか。


私は朝が大嫌いだ。
私が現代の清少納言として枕草子を書くなら「朝はクソ」という書き出しで朝の愚痴を書き綴れるくらいには朝が嫌いである。朝に楽しいことなんてひとつもない。


そりゃあ清少納言が生きていた時代では朝は希望の象徴だったのかもしれない。
夜は月明かりしかなく、夜にできる娯楽なんて数えられるほどしかないのだから。
「あけぼの」と「つとめて」を風流な時間だと記すのも頷ける。
何もすることがない真っ暗な夜が終わり、光がさす。
あの時代、太陽が昇るということはできることの選択肢が増えるということでもあったと思う。


しかし今はどうだろうか。
朝=労働までの準備時間
これがすべてである。
他に言うことがあるだろうか。まじでクソ。クソの時間である。
何が希望の象徴だよ。私からしたら夜明けは絶望の始まりである。

朝活とかしてる奴の気がしれない。労働までのわずかな時間に運動?カフェ?読書?知らねーよギリギリまで寝ておけよ、という思考に至ってしまうのは決して私だけではないと思う。
なんで労働することが決まってるのに朝活とかいう無駄に体力も気力も使うことをするのだろうか。本当にわからない。

現代人にとって夜こそが希望の時間だ。
夜。特に夜中とか最高の時間だ。0時を回ってからが本物の自由。

労働が終わって食事、風呂、掃除など生きるための諸々の行動を終えた深夜こそが希望だ。
そろそろ夜最高的な歌詞が乱発されていてもいい頃合いだと思うのだがなかなか見つからない。

米津玄師あたりが夜最高の歌を出してくれれば現代人の朝=希望、夜=絶望の等式も覆るのではなかろうか。

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