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第17回ケア塾茶山 『星の王子さまを読む』(2019年1月9日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 

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まずは南方熊楠から

西川:南方熊楠[*1]はもともと好きなんですけど、あの人の文章は読めないんですよね。

B:変な人だからですか。考えてることが、思考自体が違うというか。

西川:というか、ものすごい学者だから出てくる漢字が難しすぎてまず音読できない。

B:今は使わない漢字ってことじゃなくて?

西川:今は使わない漢字もあるし、そもそも漢和辞典引っ張っても何をやっても意味が出てこない。で、調べてみたら中国語で意味が出てたりする。

B:それは読めないなあ(笑)。

A:熊楠さん自身はなんでそんな言葉を知ってるんですか?

西川:熊楠はねえ、もう…。熊楠の顔って知っています?

A:顔? うーん。

西川:
 あの人、男前です。そして、小学校入るか入らないかくらいから小学校出るくらいまでの間に『和漢三才図会』[*2]を全部写本してます。「和漢」だから「日本と中国の」、「三才」といったら「天地人」、つまり世界のこと。三才を図解してるわけですから、要するに百科事典です。今、平凡社から『和漢三才図会』が、3冊ぐらいの本で出てます。小っちゃい字でね。和綴じの本だったのでものすごい厚さがあったと思います。

 本自体は熊楠の家にはない。彼は金物屋の息子だから、そんな学のある家じゃなかったんです。だから、近所の家の『和漢三才図会』があるところに行くでしょう。それをじーっと見て覚えて、さっと家帰って写す。子供のころにそれを全部写してしまっているんです。

[*1]南方熊楠:日本の博物学者、生物学者、民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていた 。

[*2]『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ): 大坂の医師・寺島良安により江戸時代中期に編纂された日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。明の王圻による類書『三才図会』を見本とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂された。

A:へー、そうなんですか。知らなかった。

西川:
 白浜にね、南方熊楠記念館があります。南方の博物館は、白浜と、それから田辺にありますね。まあ、白浜に彼が小さい頃写した『和漢三才図会』の実物があります。僕は初めて見た時に「へえー!」って感心しましたよ。筆ですよ。鉛筆とかじゃなくて、ほそい筆です。それで小さい字でバーッと写してる。

 それで東京大学――東大がまだ大学になる前だけど――に入る前の東大予備門に行くわけですけど、そこに行ってる時に「頭に疾を生じ」、つまり頭がおかしなってきた。ノイローゼにこそならなかったみたいですけど、「自分の頭、このままではおかしなる」って、故郷の和歌山の実家に帰ってきます。

 その頃には親がだいぶ金持ちになっていたので、「アメリカに留学させてくれ」と無理をいったんですね。で、アメリカに留学するんです。アメリカに行っても、ほとんど学校の勉強をしないで、野山を駆けずり回って、いろんなものを何でもかんでも捕まえて片っ端から標本にする。しまいにキューバまで行ったり。で、終いにはロンドンに行くんです。そして大英博物館に毎日通うんです。そのうち「賢い奴や」ということで顔パスになるという。

 もう当時の植民地帝国の大英博物館ですよ。あちこちの世界中の本とか資料がものすごい集まっていた。もちろん今も大英博物館といったら世界トップレベルの図書館でもあります。

 そこで熊楠は大事だと思った資料を片っ端から写したんです。英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語、中国語、何でも写していきました。それが『ロンドン抜書』[*3]という形で52冊残っているんです。とにかく、暗記というか記憶力がすさまじい。いっぺん写したら忘れないんです。すごいです。

[*3]『ロンドン抜書(ぬきがき)』:南方熊楠がロンドンの大英博物館で読んだ書物を筆写した52冊のノート類。英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・ラテンなどの小さい字でぎっしりと書きこまれており、現在は南方邸や南方熊楠記念館に保存されている。熊楠は大英博物館に毎日のように通い、収蔵されている古今東西の稀覯書物(容易には見られない書物)を読みふけり、主として考古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、宗教学などを勉強した。

A:なんか単に博物館の人かなと思ってた。

西川:いやいや、あの当時、自然保護運動でものすごく活躍した人ですよ。まあ奇人は奇人。変人だけどおもしろい人ですよ。

B:周りは大変だったんじゃないんですか?

西川:でも嫁さんは大事にする人みたいですよ。

B:お金の援助をしてたのは弟でしたか?

西川:
 そう。常楠っていう弟。今も和歌山にある世界一統[*4]というお酒の会社を父親から継いだんです。ほんとは父親は金物屋をやっていたんだけど、途中で酒造業に手染めて。熊楠って次男坊なんだけど、長男はあかんやつでした。すぐ女作ったとかなんかして逃げてしまうような。しかも熊楠は働かない。絶対働がないんです。ハワイとか外国行って「金よこせ金よこせ」ばかりで。弟の常楠が継いで熊楠にお金をずっと送っていたんだけど、しまいには兄弟げんかして、常楠が金を送ってくれなくなってしまう。

 そうしたら今度は柳田國男とかいろんなやつらが「立派な学者やから」と「南方熊楠を支援する会を作ろう」をやったりとか。まあ、でも、ロンドンから帰って来た時にはもう金がなくなって。弟からの送金も途絶えていたままだったから、しょうがなく帰ってくるんです。

 熊楠は遠慮のない男だから「この兄さんかなわん」ということで、最初は和歌山市だったんだけど、田辺のほうにやられるわけです。そして、その田辺で後半生過ごします。もうほとんどどこにも行かない。

 それで粘菌という、動物と植物のあいのこ、今は変形菌って言われるやつ。それの研究をずーっとやっていた。植物学者でもあった昭和天皇も粘菌を研究していたそうで、「ご進講」っていう天皇に講義する役目を仰せつかったりもしてます。

[*4] 世界一統:和歌山県和歌山市に本社を置く酒造会社。本社事務所ビルは史跡・紀州藩校「学習館」跡に建てられている。

B:晩年はどういう感じだったんですか?

西川:
 老衰で亡くなったそうです。ちなみに、息子は熊弥(くまや)。18、9歳で高等学校の試験受けに行った時に急性の精神病になってしまいます。それで熊楠は熊弥のことが心配で、京都の岩倉病院にいったり。でも「治りそうにないから」っていうことで田辺で看護人のじいさん、ばあさんを付けて在宅看護やったりとかもして。結局、最後は和歌山の精神病院に行くことになります。熊楠はずーっと熊弥のこと心配してて。

 たとえば、彼は一生懸命、菌類図譜とか植物とかの図鑑を描きます。それの手伝いみたいなことを調子のいい時の熊弥にさせていたりしたんですが、ある日突然、熊楠がもう心血注いで書いた絵をビリビリビリビリッて全部破ったりするんです。それでも熊楠は怒らない。

 熊楠が最後臨終の時、嫁さんとか文枝っていうもう一人娘がいるんですけど、「天井に紫の花が咲いている」って語りかけている。「お医者さん呼びましょうか?」「医者呼ぶな、医者を呼んだらこの花が消える」「俺は疲れたから、もう誰も触るな」って眠りに入るんですが、最後に「熊弥、熊弥」って息子の名前読んで息引き取ったっていうんです。

B:愛してたんやね。

西川:いや、でもね、いやあ、そりゃ熊楠も熊弥に期待したんでしょうけど、でも、二十歳からずーっとですよ。大概苦労してると思います。あれを読んでからは、俺はもう息子に怒るまいと思ってるもん(笑)。

B:血筋は途絶えたんですか?

西川:
 いや、文枝という娘が熊弥の下にいます。その人が熊楠のいろんな残った資料を清書したりとかしてます。ついこの間まで元気に生きていましたねえ。僕が老健で看護師やっている時に、文枝さんと女学校が一緒だった人が、頭蓋骨陥没骨折の後遺症で痴呆になって入所してきましたね。

 「和歌山の田辺の人かあ。俺、熊楠好きやねんけど」言ったら、「ああ!」とかって、知ってるんですよ。もうバリバリの認知症でしたけど、昔のことだから、「熊楠のこと知ってる」みたいな話を聞いたりしました。

 それと、僕は祖父から「日本人で一番偉い人は南方熊楠」って小さい時からずーっと言い聞かされてきました。「日本で一番賢いのは南方熊楠や」って。要するに、正規の大学も出てないし、大学の教員なんかにもなってないし、もう一生、まともに働いてないですよ。

 でも、日本ではほとんど有名ではありませんでしたけど、ロンドンにいる時から ”Nature” [*5]などの科学雑誌に投稿して掲載されていました。向こうではすごく有名な学者になってたんです。まあ奇人だから、戦後、時々小説の主人公になったりとかして、何回かブームがあったんです。

 ちなみに熊楠の残ってる資料でまだ出版されてないものが山ほどあるんです。20年...15年ぐらい前から、龍谷大学がプロジェクトとして全部アーカイブする試みをずっとやっています。それでものすごく研究環境が整ってきたといえます。まだでも、翻刻[*6]は小っちゃい字で書いてあるでしょう?ものすごい膨大な量があるそうです。

[*5] "Nature"(ネイチャー):1869年にイギリスのロンドンを拠点に設立された、国際的な週刊科学ジャーナル。総合学術雑誌であり、科学技術を中心としたさまざまな学問分野からの査読済みの研究雑誌を掲載している。

[*6] 翻刻:すでにある本や原稿を木版や活版で新たに起こし刊行すること。特に、写本、版本、外国の本などを木版、活版などで再製すること。翻印とも言う。

A:すごいですね。

西川:
 民俗学でしょ、植物学でしょ。ほんとうに博識だったんです。民俗学では柳田國男がめちゃくちゃ有名だけど、あの人は南方熊楠にわざわざ会いに行っているんです。ところが、熊楠は酔っぱらって布団の中入ったままで、中からピッて顔出すだけだったそうです(笑)。

 今、田辺には南方熊楠顕彰館[*7]ができています。熊楠が田辺で住んでいたところです。そこにはものすごい量の標本類も、著書もあるし、それから蔵書もあります。

[*7] 南方熊楠顕彰館:和歌山県田辺市にある博物館類似施設。南方熊楠邸の隣に建設され、熊楠が遺した蔵書・資料等を保存・公開し、熊楠に関する研究を進めている。最晩年の25年間を過ごした邸宅は登録有形文化財とされている。

西川:熊楠はちょっと読めないですね。おもしろいけど、きちっと読もうと思ったら、なんかもう外国語読んでるみたい。

A:理解しようと思うと、なかなかしんどいんじゃないですか?

B:奥さんは大変だったでしょうね。

西川:奥さんは田辺にある神社の宮司の娘なんですけど、それはね、大変だったみたいです。

B:そうでしょうね。

西川:掃除したら、「菌が飛ぶ」って怒ったりして。それも、馬糞とかそんなやつを拾ってきてポンと置いてあったり。

B:菌があるとこですからね(笑)。

西川:熊楠は昼間はほとんど起きなくて、夜中に起きてずっと研究するんです。奥さんはもうちょっとたまらなくなって、いっぺん実家に帰ってます。熊楠はそれを迎えに行っています。

B:いいとこもありますね(笑)。

西川:ただ迎えには来たんだけど、嫁の実家の前で、声出して、新婚当初からの夜の話を延々とするわけです。それを「かなわん」って親が言うから、しょうがなく奥さんが帰ってきたという。

A:変な人や。

西川:
 柳田國男と違うのは、そういう下世話な話、性とか、排泄に関わるような話をバンバン話すんです。柳田國男はそういう話を民俗学から外した人です。外して上品な民俗学をやっていこうとするわけですが、熊楠は「そんなんインチキや」と言って片っ端から批判します。

 彼自身も、「結婚するまで僕は童貞やった」とか吹聴したり。熊楠は、土宜法龍 [*8] って高野山の真言宗の管長、一番えらい人と仲が良かったんですが、「お前は俺が童貞かどうかもよう見分けられんのか、このクソ坊主」とか言ったり。

B:(笑) もうわけ分からへん。

西川:
 熊楠は「法龍米虫」っていう手紙を書いてます。米虫って言ったら米の中にいる虫。働きもしないで米を食うやつのことです。「坊主なんていうの米虫や」と言い放っているわけです。自分だって働いてないのに。

 そのくせ自分のことは「金栗(きんぞく)大名大菩薩」とかって書くんですよ。維摩居士 [*9] の前の、要するに自分は如来菩薩やって。高野山の管長にですよ、管長の土宜法龍に、「法龍米虫、金栗如来が教えを垂れたむ」ってものすごい長い手紙書いてるんです。

B:今やったら病名付けられますね。

西川:でもやっぱ中身が天才だから。土宜法龍もすごいと認めているわけですよ。

B:「しゃあない」ってことですね。

西川:池田光穂 [*10]さんを千倍ぐらいにしたような感じ。

B:えー! もう一人でええ。そんなん等倍で(笑)。奇人、変人で、天才と紙一重っていうような人。

西川:まあ池田光穂さんはまだ普通やから。

B:確かに普通に話せますもんね。

[*8] 土宜 法龍(どき ほうりゅう):嘉永7年(1854年) -大正12年(1923年) 近代日本仏教史を代表する仏教学者、僧侶。土岐とも書く。高野山学林長、仁和寺門跡(36代)、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを歴任。

[*9] 維摩居士(ゆいまこじ):サンスクリット語ではヴィマラ・キールティ。古代インド毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家の弟子(居士とは在家の弟子のこと)となった。 前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化をたすけた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる。

[*10] 池田 光穂(いけだ みつほ):1956年生まれ。日本の文化人類学者。大阪府出身。専門領域は中央アメリカの民族誌学と医療人類学。

西川:池田光穂さんは大天才。いや中天才ぐらいにしときましょうか。現代の南方熊楠。

C:確かにキャラがかぶるところがありますね。

西川:あの人のタガを外したら熊楠になる(笑)

B:大学の教員でよかったですね。違うか(笑)。

西川:社会適応できる唯一の場所っていってましたね。あとは植島先生 [*11]がけっこう熊楠好きで、熊楠曼荼羅 [*12]のことはなんか二十歳ぐらいの時、植島先生から聞きました。あの先生「南方家の養子になれへんか」っていっぺん言われたそうですよ。

[*11] 植島 啓司(うえしま けいじ):日本の宗教人類学者。1947年東京生まれ。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている

[*12] 熊楠曼荼羅: 南方マンダラとも呼ばれる、真言密教のマンダラの思想をヒントにして南方熊楠が描いた絵図。主に二つあり、いずれも土宜法龍に宛てた書簡の中に描かれている。

B:なったらよかったのに(笑)

西川:ねえ。「『いや、僕も一人息子ですから』言うて断った」って言ってました。

B:関西の人だから、それなりに南方家とつながりがある人がいっぱいいるんですね。

西川:
 南方家は文枝さんという娘さんだけだった。文枝さんは結婚してるんですけど、そのあいだに子どもができなかった。だから「文枝さんの養子に来えへんか」っていう話だったみたいです。行ってたらよかったのにね(笑)。

 でも何だかんだ言って、植島先生は南方熊楠のことたっぷり知っているはずなんですけど、それについての本を書くことはなかった。そのうち中沢新一 [*13]がいっぱい書くようになって南方熊楠賞を取ったりしました。中沢新一と植島先生、仲があんまりよくないみたいで(笑) 東大の宗教学の先輩・後輩なんだけどね。

B:ふーん。みんなが知ってるぐらいなんですね。

西川:だから中沢新一のあとを続くようなことはしないでしょうね。

B:そりゃそうですよね。

西川:師匠と仲が微妙だったってことで、中沢新一さんの本をほとんど読んでないんだけど、熊楠のだけはちょっと読みました。「うまいこと書きよんなー」と思いますね。いや、ほんとにあの人もすごい人だと思います。編集者のアサノさん [*14]、『「一人」のうらに』とかの編集者、あの人の嫁さんが中沢新一の弟子なんです。

B:なんか賢い奥さん(笑)。

西川:もともと人類学出身です。二人とも南山大学ですよね。豊平さんところも一緒だ。豊平さん [*15]は「とつとつ」の人。この人は南山で人類学やって、それから博士で阪大に来た。

[*13] 中沢 新一:宗教学者。1950年生まれ。現代人類学と日本列島の民俗学・思想・歴史研究、チベット仏教の思想研究などを総合した独自の学問「対称性人類学」を提唱。

[*14] アサノ タカオ:編集者。1975年生まれ。随筆集に『読むことの風』(サウダージ・ブックス)。妻はサウダージ・ブックス代表・浅野佳代。

[*15] 豊平豪(とよひら たけし):在野の文化人類学者。一般社団法人torindo(まいづるRB)としてダンサーの砂連尾理と共に「とつとつダンス」プロジェクトを企画。

B:なんか形にならない学問。人類学とか民俗学とかなんかよう分からんね。どっからがそんな学問なんかがよく分からん。

西川:まあ新しい学問だからなあ。もう7時過ぎてんなあ。始めましょか。

はかなさを知る

西川:
 今日は17回目。98ページからですね。前回の地理学者のところですけど、ちょっとだけ振り返ってみましょう。95ページで、地理学者が王子の星についていろいろ質問してるところです。


「ぼくの星には、花も一輪咲いていますよ」
「花については、われわれ地理学者は記録にはとどめないのじゃ」と地理学者は言いました。
「どうしてなんですか? いちばんきれいなのに」
「それは、なあ。花というのは、はかないものだからじゃよ」
「『はかない』というのは、どういう意味ですか?」

 「はかないっていうのはどういう意味ですか」については97ページですね。


「ああ、それはじゃな、『近いうちに消えてなくなる恐れがある』という意味じゃ」
「ぼくの花は、近いうちに消えてなくなる恐れがあるんですか?」
「もちろん、じゃよ」
「ぼくの花ははかない」と王子さまはつぶやきました。「世界じゅうを相手に自分の身を守るのに、花には四つのトゲしかないのだから! それなのに、ぼくはぼくの星に、花を独りぼっちで置いてきてしまったんだ」
 このとき初めて、王子さまは自分の星を離れたことを後悔しました。

 このケア塾茶山では『星の王子さま』からケア考えることがテーマですが、なぜこれをケア論として読むのかということにおいて、かなり大事なことが書いてあります。前回終わってから考えたんです。

 「花がはかない」とは何か?

 「はかない」という意味を王子は知らなかった。で「はかない」というのが、「近いうちに消えてなくなる恐れがある」、「あ、そうなんだ。花はそのうち消えてなくなるんだ」という時に、「初めて、王子さまは自分の星を離れたことを後悔しました」。このあと、もう王子の心の中からバラは消えなくなっちゃうんですね。うん。ここからなんですよ。

 『星の王子さま』は、王子のバラに対する気持ちの変化というか、バラに対する純愛というか、それを成就させるための物語に最後はなっていくのですが、最初のほうは全然そういうふうになってない。

 星めぐりのあいだは、言ってみたら、大人を揶揄することがあっても、「変だなあ」ということがあっても、その人たちに心から同情することはあんまりないんです。ケア精神の持ち主とは思えませんよね。王子は全然ケアする人じゃないんです。

 王子が星に最初一人でいた時には、自分の星に生えてるいろんな芽を「バオバブじゃないかどうか」ということで引き抜いています。要するにセルフケアしてるわけですね。ずーっと、セルフケアなんです。火山の煤払いするにしたって、バオバブかもしれない芽を引き抜くことだって、自分の星だからやっている。

 要するに自分のことを自分で。セルフケアで完結してる世界なんですよ。だから言ってみたら、他者は必要ない。自分がケアされる必要もないし、誰か自分以外の者、自分とは無縁の者をケアする姿もないわけです。

 そこにある時、種が飛んで来て、バラがやって来て心を奪われるんだけども、いかんせんバラは自分の思うようにならない。どう考えても、自分の心がささくれだっていくというか。それにがまんができなくなって、彼は自分の星から飛び出すわけですよね。

 ここにもケアはないわけです。一生懸命バラに水やったりとかガラスの覆いかけたりとかしてても、これは「自分が好きなバラ」を世話してるんやね。だから「自分の好きなバラ」を世話するということは、要するに「自分とは異なるバラ=他者」ではないんですよ。自分の気に入る範囲のあいだ、かわいがっているわけです。それで気に入らなくなったら出て行くわけですね。

 まあ普通こうですよ、恋愛とかは。好きな時は相手のこと一生懸命するけど、嫌になったら一緒にいるのがつらくなってきます。自分の思い通りにならなかったら、つらくなってしまって出て行ってしまう。自分の人生を振り返ってみると、僕なんかもほとんど「この王子さまやなあ」という感じしますね。

 で、何かこう勉強するためにというか、本当の仕事探すためにっていうか、まあとにかく出ていって、いろんな人たちと出会うんですけど、ちゃんとした勉強にはなっていない。

 王様と出会っても、いろんな人と出会っても、「おかしいな」って言うだけで、自分の考えは一個も変わっていない。自分の考えは出発した頃と何一つ変わってないわけです。

 でも、初めて変わったのが、この地理学者の「はかない」っていう言葉の意味を教えられたところ。「ああ、あの花ははかないんだ」っていうことを知った時に初めて王子は変わるんです。だから、そういう「はかない」ということを知るということが、王子をググッと変えていくきっかけになってくる。

 ケアとか人と関わるとかっていうのも、ある意味、はかないもんです。いくらがんばったって、相手が不死の人間にはならないわけで。病気を治すことができたところで、「人は必ず死ぬ」ということを変えることはできないし。ケアとか医療とかそういうもので相手の苦しみのいくばくかを支えることができたとしても、それもほんのわずかのあいだのことであって、言ってみたらはかないことなんです。

 親鸞が『歎異抄』[*16]の中で「すえとおりたる」といっています。「最後の最後まで貫徹するような慈悲の心、慈悲の行ないっていうのは人間には不可能や。できる時にできてるだけで、できないことはどうしたってできない」だと。だから悪いことだって、「自分の意思で悪いことをしない」のではなく「悪いことする機会に恵まれてないから、ただしてないだけ」。それは悪から逃れられてるわけじゃない。そう『歎異抄』は教えています。

[*16] 『歎異抄』:鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたもので、『歎異鈔』とも言う。

 ここでの王子は、「花がはかないんだ」ということが分かるけど、まだ「自分がはかない」ということは分かってない。でも「はかないものが大事だ」というか、「ほっといてはいけない」ということがある。このあと、「そのはかないものとの関係をどう考えるのか」っていうのは、キツネから教えられたことでまた大きくガラッと変わります。

 まあ、ともあれ、ここからバラのことがずっと気になるっていうことですよ。キツネとの話でバラに対する気持ちがガラッと変わったっていうよりも、この地理学者との出会いからもう始まっているんです。

 ケアというものは死すべきものに相対するというか、生きてるものと生きてるものとの間の関係で考えれば、やっぱりどうしてもはかない。でもじゃあ、そんなはかないものに一生懸命になる必要があるのか。だって悩みの種種じゃないですか? それで地理学者は言ってるわけです。

 「われわれはそれが美しかろうと何であろうと、そんなはかないものは書けへんねん。変わらないっていうこと、不変であるっていうこと、それこそが大事なことであって、いかにきれいであろうと、そんなはかないものは学問の対象にはならない」「真面目な仕事の対象にはならない」と。これがこの地理学者の考え方なんですよね。でも、まあそれに反対しているわけではないですが、王子はこの「はかない」っていうところからガッと変わる。

 僕たちに引き寄せて考えてみると、相手のことを愛しいとか、自分の好きなところが「好きだ」とか、自分の嫌いなところが見えてきたら嫌いになるとか、あるわけですが、こういうのは最初の星での王子とバラの関係です。でもこれは「相手がはかない」ことが頭から抜けてる時に、そうなるんです。

 「こいつええなあ」「きれいな人やなあ」と思っても、「はかない」となったら、これがだんだん、それこそ小野小町の九相図 [*17]みたいに、倒れて腐っていって、ぶよぶよになって骨になってしまう。生きてるものは必ずそうやって死を迎えて、どんどんウジがわいていく。その先の先、その先になったら、もうそれこそ骨も残さずこの世から消えてしまう。そこまで含み込んだうえで、今、目の前にいる人の美しさに心惹かれてるとは言えないわけですよ。

[*17] 九相図(くそうず):屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画。

 それから「嫌いや」ということもそうなんですよ。「がまんでけへん」ということだって、相手が「はかないもの」、「明日死ぬかもしれん存在」と思えたら、そういう存在に対してそれほど腹を立つかといったら、本気ではなかなか腹を立てることができなくなるのではないでしょうか。

 いや、これほんとにね…。はかなさは自分たちの出会いと共にいます。

 関係を作る中で人は喜怒哀楽さまざまなことで気持ちが浮き沈みしたりいろいろするわけです。その時の感情はかなり生々しくて激しいような気がするけれども、案外そうでもないかもしれない。

 だって、王子があれだけバラを好きだったのに、そしてだからこそバラのことを「かなわんな」と思って星から飛び出してしまったのに、星めぐりのあいだ、地理学者から「はかない」という言葉を聞くまでバラのことを王子は思い出さないんですから。やっぱり変わるんですよ。生活が変われば変わってしまう。

 自分のことで言うと、「離婚する云々かんぬん」となって「わー」とやってる時にはそれこそ「こんなに! いいと思ってたやつが!」とか思って離婚するわけですよ。「もう!」ってなって。でもその後、1年とか2年とか10年、別に暮らしているとそのときのことが嘘みたいに思えてくる。「あんなことがあったけど、それは本当の自分の悩みやったんかな?」と思えてくるんです。なんか違うような気がしてくる。

 でも「はかない」を考えると、もう一度見方考え方っていうのが変わるような気がしています。

 ケアの中でさまざまな人、たとえば重い障害を持った人と出会う。で、「なぜこの人がこんな重い障害を持って、自分はそうではないのか?」とか、「私ではなくて、なぜあなたが?」みたいな話が沸き上がってきます。それから、いかに看護しようと医療しようとその人が死んでいく事実とそのことについて何の値打ちもない自分がいることの意味は、そう簡単には見つからない。

 はかないものとの関係をどう自分が取るのか? 

 地理学者のように「はかないものは相手にせんのじゃよ」と言ったらケアはできないですよ。その「はかないものを一人にしてしまった」「それを後悔した」ところから、彼は変わっていくわけです。そのはかなさの意味、はかなさと出会うことの自分の覚悟みたいなものが、ケアを真摯に考える時にはどうしても必要です。

 でも、今のいわゆる看護とか介護というのは「相手の問題を解決するために」のようなものすごい短期的な見方でしかしないし、自分自身はまるで不死の人間であるかのようにして論が立てられている。

 ターミナルケア [*18]なんかでも「死にゆく人の援助」って言いますけど、自分だってほんとは死にゆく者なんやね。でもその観点って全然ないんですよ。あくまでの医療・介護っていうのは、医療・介護っていう、匿名性というか、普通の人の生き死にを超えたところの立場から、相手の弱さとかそういうはかなさみたいなものに向き合うっていう姿をとっています。

 でも、恐らくそれはね、中途半端にならざるを得ないっていうか。ケア論考えていく時に、このあと王子がいったい、じゃあそのはかないものとどう向き合っていくのか?それから自らの内にあるはかなさみたいなものとどう付き合っていくのか?そこらへんがすごいポイントになるかなあという気はします。

[*18] ターミナルケア:英: End-of-life care 終末期の患者に対して行われる医療および看護。ただ、終末期という概念や言葉について、公的に明確な統一された定義はない。

 この本は、もともとレオン・ヴェルトに捧げられたものです。献辞がありましたね。

そんな人はどうしても慰めてあげなくてはいけないのです。

 「慰めるためにこの本は書いてるんだ」と。僕は最初の頃「これのどこが慰めになるのかっていうのは、分かりませんね」といっていましたね。

 レオン・ヴェルトは、サン=テグジュペリよりも20歳ぐらい年上です。そういうもう老年に入ったユダヤ人のレオン・ヴェルトが、ナチス支配下のフランスで逃亡生活を送っているような、そういう、ほんとにはかない、ナチスに見つかれば即座に命が消えてしまうっていうような、そういう人に対してどう慰めればよいのか?
 
なんかそういう意味でものすごく大切なことが前回にはあったかなと思います。

 あと、考えてみれば、この『星の王子さま』、全部別れの物語ですよね。別れるんですよ。個体が消えてなくなる、というか、ある生き物が生まれて育って死ぬという、そういう意味でのはかなさもあるんですけれども、「つかの間の関係」ということで考えてみたら、バラと王子の初めての出会いから別れまでも、つかの間のあいだです。

 そして七つの星をめぐっていきますけども、すべて、つかの間の出会いと別れです。その時に挨拶があったり、別れの挨拶があったりなかったりっていうことで、やっぱり全部別れていく。地球に来てからも、さまざまな人と出会い、人やものと出会い、別れていく。そしてパイロットとも出会って、別れていく。だからずっとね、「出会いがあれば別れがある、別れがある」…って、ずーっと別れがあって、ほんのつかの間、はかない関係っていうものを積み重ねていく物語になってるんです。

 そして、言うまでもなく、ケアにも必ず別れが伴うものです。相手を自分の中に飲み込んでしまうことをケアとは言いません。「つかの間付き合って、別れること」です。臨床哲学で一時期言ってた「ホス業」というのは、「慰め、励まし、送り出す」ことです。ホスピスとか、ホステスとか、「ホス」っていう字が付くケアの仕事っていうのは、傷つき悩む人を慰め、励まして、送り出す。いつまでもそばに抱え込まない。だから「セルフケアのケア」と言ったりとか、「自立への支援」とか言ったりしますけど、自立したら、サポートする人はもうおらんでええわけですからね。要するにケアの関係というのは、必ず変化していく。

 望むというよりも、別れが来るのを分かりながらケアしていくわけです。もうわが子のように、障害を持った子どもを一生懸命、面倒見てあげる。で、どんどんどんどん一人でできることが増えてくる。そうしたら、その子どもは巣立っていくんです。子育てもそうですけれど、「別れるために育てる」。元気になったら病院から出て行くんです。ある意味で、「別れるために献身する」っていうのがケアなんですよね。

 だからそのケアが「つかの間である」ことを覚悟のうえでの関係の持ち方。だから「未来永劫の愛を誓う」ような、そういうもんと違うわけです。そんなわけで、『星の王子さま』をケアとして読む時に「はかない」はすごく大事なことかなと、このあいだからずっと思っているわけです。

王子、地球に立つ

西川:

 そんなわけで、七番目の惑星は地球でした。
 地球は、どこにでもあるような惑星ではありませんでした。なにしろ、一一一人もの王様たち(むろん、黒人の王様たちも数に入れての話ですが)、七千人もの地理学者たち、九十万人もの実業家たち、七五〇万人もの酔っぱらいたち、三億一一〇〇万人ものうぬぼれ屋たち、ということは、およそ二十億人ものおとなが地球にはいるということなのです。 

 『星の王子さま』が書かれたのが1942、3年ぐらい。ちょっと調べてみたんですけど、国連の推定で世界人口というのは、サン=テグジュペリが生まれた1900年には16億人。で1950年、だからこれが書かれた5年ぐらいあとで25億人なんですね。ということは、だいたいこの頃、20億人が世界人口やったっていうことですよね。

 世界人口は1998年には60億人、2015年には73億人。2050年には90億人に達するだろうと国連は推定しているそうです。すさまじい伸び方ですよね。これ自体についてはまた別の話になるかもしれませんけど。でも、20億の世界人口の時にも、あとであるように、人間が大いばりで「地球を占めてるんや」みたいな気持ちを持ったんです。

 地球がいかに大きいか、ご想像いただくために、つぎのことをお伝えしましょう。電気が発明される以前には、地球上の六つの大陸全体で、四六万二五一一人ものガス灯の点灯夫ーーそれはまさしく大群と呼べるようなものでしたがーーを擁していなければならなかったのです。

 ここらへんも何か意味あるんかもしれませんけど、ちょっとそこまでは今回は調べてませんね。

 少し離れたところからながめてみると、その働きぶりはなんとも壮麗な印象を与えました。この大群の動きは、オペラ座のバレエの動きと同じくらい一糸乱れぬものだったのです。まず最初は、ニュージーランドとオーストラリアのガス灯の点灯夫たちの出番でした。やがて、ガス灯に火をつけたあと、その点灯夫たちは眠りにつきます。そうすると、今度は、バレエの舞台には、中国とシベリアのガス灯点灯夫たちが登場します。やがて、その点灯夫たちも舞台裏に下がってしまいます。すると、今度は、ロシアとインドのガス灯点灯夫たちの出番でした。つぎは、アフリカとヨーロッパのガス灯点灯夫たちの出番。そのつぎは、南アメリカの点灯夫たちの出番。つぎは、北アメリカの点灯夫たちの出番。そんなふうにして、どの地域の点灯夫たちも、舞台にあがる順番を間違えることはありませんでした。そのスケールたるや、壮大そのものでありました。
 ただ北極にたった一つだけあるガス灯の点灯夫、それに、南極にたった一つだけあるガス灯の点灯夫。この二人の点灯夫だけが暇をもてあまし、暢気な生活を送っていました。なんといっても、二人が仕事をするのは、一年に二回だけだったのですから。

 ここの記述はおとぎばなしチックというか。これが書かれた当時には、こんなふうにして南極・北極を同時に地球外から眺める視点はないわけです。人工衛星もまだ回ってませんから。1957年、僕が生まれた年がスプートニク [*19] 打ち上げられた年です。だからここは彼の想像なわけですね。

 それまで地を這う、もしくは船に乗ることしかなかったような人間が、飛行機という乗り物を使って、上空から人間の大地というものを見るようになった。そういう意味で、飛行機は世界に対する見方を大きく変えたわけですよね。サン=テグジュペリは時々曲芸飛行みたいなことをやって宙返りしたりするから、「自分の頭の上に大地があって」みたいなこともやってたみたいです。

 彼はそういう飛行機乗りとして実際に体験した「空から見る大地」だけではなく、地球の外から地球という惑星全体を見るような視点も有して、この物語書いてるわけです。ものすごく宇宙的なスケールでものごとが語られているってことです。

 このことも「はかない」ということです。エフェメラ [*20] と言って、蜻蛉とか、「たった一日しか寿命がない」という意味で「はかない」ものの代表みたいに言われてますけれども、素粒子なんて一日ももたない。逆に宇宙なんて百何十億年っていうことですし。

 だから時間というものも、人間的な視点で見たら一日は短いかもしれないけれども、人間ではない視点から見てみるとむちゃくちゃ長いかもしれない。でも宇宙全体から見たら、その「はかない」っていったら、人間の一生だってはかないし、人類の文化の歴史だって、文明の歴史だって、ほんのはかないものかもしれない。パスカルはそういうことずっと言ってるわけです。

 そういう宇宙的な視野までもっていったら、さまざまなことがらがもっともっと意味を持ってくるわけですね。人間的な意味で蜻蛉の命、一日だけの命を「はかない」と言うことはできるけれども、九十年生きてる人のことを「はかない命」とは言わないわけです。3歳や4歳で死んだ人のことは「はかない」って言うけどね。九十歳まで生きても「大往生ですなあ」なんていうのが人間の価値観でしょうが、宇宙的なところから見てみたら、「九十年であろうが二百年であろうが、はかないものははかない」みたいなことになってくるわけです。ここ、背景としてもう一度確認しといたほうがいいかなというところです。

[*19] スプートニク(Sputnik):旧ソ連の人工衛星。スプートニクはロシア語で「衛星」の意味。

[*20] エフェメラ(ephemera):カゲロウ(蜉蝣)の学名Ephemeropteraは、ギリシャ語でカゲロウ ephemera( εφημερα )と、翅 pteron( πτερον )からなる。ephemera の原義は epi = on、hemera = day (その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する。

飛行艇乗りの視点

西川:
 それから次の、もうちょっと入っていきますけど、ⅩⅦ章ですね。

 気の利いたことを言おうとすると、だれでも少しは嘘をついてしまうことがあるものです。ガス灯の点灯夫のことでは、ぼくは少しばかり大げさな言い方をしてしまいました。地球のことを知らない人たちが、地球について間違ったイメージを持ってしまうかもしれません。実を言えば、地球上で人間が占めている面積はとても狭いのです。

 「四六万二五一一人の点灯夫の活躍で、まるで地球がオペラ座のバレエの動きみたいに次々とこう、ガス灯が点いていく」と考えると、人間のその働きで地球全体が彩られているみたいですけれども、でもそんなことはないんやと。実際に宇宙からみてはいないですし。

地球の二十億の人口が、もしかりに、集会で集まったときのように、少し詰めて立ったままでいたら、縦横三十キロメートルくらいの広さの広場に難なく収まってしまうことでしょう。大西洋のいちばん小さい島に、地球の全人口を積みあげることだってできるくらいです。
 君たちがこんなふうに言ったところで、おとなたちはむろん信じっこありません。おとなたちは、自分たち人間がもっとずっと広い面積を占めていると勝手に想像しています。まるでバオバブみたいに、自分たちが地上で幅を利かしていると思い込んでいるのです。だから、君たちはおとなたちに「計算をしてみてください」と勧めるのがよいでしょう。おとなたちは数字が大好きですから、計算はお手の物でしょう。けれども、君たちは自分では、そんなつまらない計算には時間を使わないでください。骨折り損です。君たちはぼくを信じてくれているのですから。 

 これね、計算しました(笑) 
 
 「三十キロメートル」ってなってるのは「20マイル」。フランス語ではちょっと違うんですけど。たとえば、だいたい縦65センチ横65センチのところに、だから2フィートぐらいの間に1人の人がポンといるとしたら、20億の人が入るんです。「大西洋でいちばん小さい島」は分かりませんでしたから調べませんでしたけど、これは「積みあげたら、もっと狭いところでもいける」っていうことですね。

 「大人たちは数字が好きですからね」「計算なんかしなくていいですよ」と書いてあるけど、サン=テグジュペリは計算ばっかりしてますからね。サン=テグジュペリ自身は数学大好きやし。でも、数学っていうのも、目には見えないものを分かるようにはしてくれるんですね。そういう意味では、おもしろいなあって思います。

 このあいだ湯川秀樹 [*21]の本を読んでて、名前忘れてしまったんですけど、エッセイ。初めて読んだんです。少年向けに書かれた本。「数字っていうものは何なのか?」とか、「科学的に考えるってどういうことなの?」「学問するってどういうことなの?」みたいなこと順々と説いていくんですけど、それ「もうちょっと早う読んだら、俺もうちょっと理系の人間になったかもしれんなあ」と思うぐらい、おもしろかったです。

[*21] 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき):1907 - 1981年 理論物理学者。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1949年、日本人として初めてノーベル賞を受賞。

 もっとも、ここでは地球について「今まで小っちゃい星があったんやけれども、そういう星に比べてまあまあ大きい」ということです。「大きいけれども、その中でなんか大いばりしてる人間っていうのは、それほど大したことないんだよ」という話ですね。

おとなたちは、自分たち人間がもっとずっと広い面積を占めていると勝手に想像しています。

 これはサン=テグジュペリ自身も、飛行機に乗って初めて分かったことです。だって普通われわれは、人が歩けるところ、馬車で行けるところしか移動しなかったわけです。砂漠の中もうろちょろしたりしなかった。カモシカみたいに岩山のところもうろちょろしたりしなかったわけですよ。

 だから要するに、我々はけもの道じゃないけれど、人が造った道の上とか、道の傍らにある集落やとか畑やとか、人が住んでるところと人が住んでるところを結ぶ道を行き来してるだけなんですよ。でも飛行機に乗ると、そんなところはまるでオアシスのようにちょびっとしかない。別に砂漠だけが人の住めないところじゃないことはわかるわけです。

 『夜間飛行』で、ものすごい高い山の上を越えるっていうこともありますけど、その山だって人なんか全然住んでいない。アルプスなんかにはね。それから海だってそうです。海にも全然人がいてない。だから大地と言われてても、大地の中で人がいてるっていうところはほんのちょっと、ちょびっとしかないっていうことは、サン=テグジュペリが飛行機に乗って空の上から人間の大地を見て初めて分かるわけですよ。

 『人間の大地』では、夜サン=テグジュペリが眼下に見える人戸の灯り、ぽつぽつって見えてるの見て、「奇跡のようなものや」「人がそこで憩って暮らしているというのは。この灯りと灯りとを結びつけることが大事なんや」と最初に書くんです。

 要するにね、「人間っていうのは、ものすごくたくさんが一緒にいてると思い込んでるけれども、実はそんなことない。地球のうちのほんの一部のまたその一部に生きているにしかすぎないんだ」という、飛行機に乗って初めて分かった、そういう人間の地球における位置。これは行動する作家っていうか、単なる思念でやってるわけじゃなくって、実際の彼が飛行機乗りとしての経験から思索を深めていった結果出てきたことです。それに数学好きのサン=テグジュペリが実際に計算してみたら、「なんや二十億おったって三十平方キロメートルの中に入るやん」みたいなことを言っているわけです。

ヘビについて

西川:
 で、「地球にやって来て」っていうことですけども、まあここらへんから大事なところに入っていきます。

 というわけで、地球上に降り立って、王子さまは人っ子ひとりいないことにびっくりしました。「これは降りる惑星を間違えたぞ」と心配になってきていました。そんなとき、月の色をした、まるい輪のようのものが砂の中でぴくっと動きました。
 「こんばんは」と、王子さまは一応、声をかけてみました。
 「こんばんは」とヘビがあいさつを返しました。
 「なんという惑星の上に、ぼくは落ちてきたんだろうね?」と王子さまはたずねました。
 「地球の上にさ。ここはアフリカだ」とヘビは答えました。
 「そうなの……。ということは、地球上には人がだれもいないんだね?」
 「ここは砂漠だ。砂漠にはふつう人はだれもいないさ。地球は広いんだ」とヘビは説明しました。
 王子さまは石の上に腰をおろして、空を見あげました。
 「ぼくは思うんだけど」と王子さまは言いました。「満天の星がキラキラと輝くのは、ぼくたち一人ひとりがいつか自分の星が見つけられるように、ってことなんじゃないだろうか。ぼくの星を見てごらんよ。ぼくの星はちょうど今、君とぼくの真上にある……。でも、なんて遠いところにあるんだろう!」
 「美しい星だな」とヘビは言いました。「ここへ、なにをしに来たんだ?」
 「一輪の花と面倒を起こしてね」と王子さまは答えました。
 「ああ、そうだったのか」とヘビは応じました。
 そして二人は黙りこくりました。
 「人間たちはいったいどこにいるの?」と、とうとう王子さまがまた口を開きました。「砂漠では独りぼっちで、ちょっとさびしいね……」
 「人間たちのところにいたって、独りぼっちでさみしいものさ」とヘビが言いました。
 王子さまは長いあいだ、じっとヘビを見つめました。
 「君は変な動物だね」と、王子さまはようやくヘビに言いました。「まるで指みたいに細くて……」


 「だけど、このおれは王様の指よりも力があるんだぞ」とヘビが答えました。
 王子さまはニッコリ微笑んで、
 「君にはそんな力なんかないよ……。脚だってないじゃないか……。君は旅をすることだってできやしない」
 「おれはおまえを船が運ぶよりも遠いところへやってしまえるんだぞ」とヘビは言い返しました。
 王子さまの踝にヘビは巻きつきました。その姿はまるで金のブレスレットのようでした。
 「おれが触ると、だれだって土に帰ってしまうんだ」とヘビは言葉をつぎました。「けれども、おまえはけがれを知らないし、よその星からやって来たんだから……」
 王子さまはなにも答えませんでした。
 「おれはおまえがかわいそうだと思うよ、この岩だらけの地球上で、そんなにもか弱くて。いつか、おまえが、自分の星が懐かしくて懐かしくて矢も楯もたまらなくなったら、おれはおまえに手を貸してやってもいい。そして、おれはおまえを……」
 「ああ、よく分かったよ」と王子さまは答えました。「だけど、どうして君は謎めいた話し方ばかりするのかな?」
 「おれは謎はなんだって解いてみせるからな」とヘビは言いました。
 そして、二人は口をつぐみました。

 ヘビとの出会いのところです。この本では「キツネが重要や」とよく言われますけれども、ヘビもそれに負けず劣らずです。一番最初にボアコンストリクター、大蛇ボアの話が出てきて、地球にやって来た時にまずヘビと出会う。そして最後ヘビによって王子は姿を消すわけですから。パイロットの幼い頃の話もそうですし、王子が地球に来た時と地球を去る時にはヘビがものすごい重要な役割を果たすんですね。けっこうここのセリフは意味の深い話がいっぱい込められてるかなと思います。

 さっき南方熊楠の話をしてましたけど、熊楠の『十二支考』[*22]っていう干支にまつわる動物についての本、これに巳、ヘビのところがあるんです。これがおもしろい。ヘビというものが今までの様々な社会、文化の中でどんなふうに考えられていたのかとか、どんな物語があるのかとか、そういうことがものすごい博覧強記で書かれています。ここで引用できるほど読み込めてませんけど。

[*22] 『十二支考』:南方熊楠が大正期に、博文館の総合雑誌『太陽』に掲載するために執筆した、十二支に関する論考群。

 訳者あとがきの169ページの3行目。

 内容についても、ほんとうに理解しようと思えば、押さえておかなければならない背景は枚挙にいとまがない。

 いろいろ書いてますけど。後ろから2行目。

物語に登場する星、バラ、ヘビ、キツネなどが古来、ヨーロッパ文化で担ってきた象徴的意味。キリスト教、その神学、民間伝承、西欧に影響を与えたキリスト教以外の宗教などなど……挙げればきりがない。

 キリスト教的にヘビと言ったら(「キリスト教的に」って簡単に言うのもあれなんですけど)、創世記の中でアダムとイブが楽園追放になった時にイブを誘惑して知恵のなる実を食べるようにそそのかしたのがヘビですね。神様から禁じられていた知恵の実を食べたことで、今の人間の祖先であるところのアダムは楽園から追放されてしまう。男は一日働かなあかんし、女は子どもを産むことで苦しまなあかん。で、ヘビはそそのかした罪で足を取られて、地を這って埃まみれにならなあかんというふうに神様が罰したという話ありますね。

 ともあれ、「人間に知恵の実を食べさせる」「人間に知恵を与える」という意味でのヘビっていうのがありますね。「罰せられた」というよりも、「人間にとっての<知>は、神様にとって無知以外の何物でもない」という考えなんです。とにかく人間が「恥ずかしい」を知って、知恵がついたもんだから前を隠すみたいなことです。そういう意味での人間的な知っていうものを、要するにいわゆる他の動物とは違う人間らしさを身に付ける時に、ヘビは大きな役割を果たすわけですね。

 他にはギリシャ神話だったらプロメテウスという神様が火の使い方を教えたとか。人間が知恵をどこから手に入れたのかっていうのは、さまざまな神話、説話あるわけですが、キリスト教の聖書の中では、ヘビが大きな役割を果たしています。

 あと、アスクレピオス [*23] っていうギリシャの医神。あの人なんかは杖持ってて、その杖にヘビが巻き付いてます。ヘビって、本当にあらゆるところで象徴的な意味合いを持っています。「再生する」っていうイメージもあります。

 トカゲって尻尾切られても、その尻尾ピクピク動いて、切られた尻尾がまた生えてくるってあるじゃないですか? ヘビも何度も皮を脱皮してっていうことで、「再生する、蘇る」っていうイメージがあって、不死再生の象徴になるんです。だから医療、つまり病んでる者を再生させるっていう意味で、ヘビが医療の神様のシンボルになったりするわけですね。

 あとはウロボロス [*24] という紋様。自分の尻尾を食べるヘビっていうのがあるんです。タコが自分の足食べるのとは違って、尻尾を食べてるヘビ。これも「永遠に循環する」みたいなシンボルだと言われたりします。いろんあります。今すぐにはちょっと言えませんけれども、めちゃくちゃたくさんあるから、熊楠の『十二支考』のヘビのところを読むと、おもしろいなあっていうのいっぱいあります。

[*23] アスクレピオス:(古代ギリシア語: Ἀσκληπιός, Asklēpios) ギリシア神話に登場する名医。優れた医術の技で死者すら蘇らせ、後に神の座についたとされることから、医神として現在も医学の象徴的存在となっている。

[*24] ウロボロス (ouroboros, uroboros) :古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。

 あとヘビは、自死、自殺するという話なんかも出てます。毒蛇ですね。「マムシが住んでるところに火を点けると、マムシは自分で自分の体を噛んで死んでるんや」みたいな話です。ほんとうかどうかはわからない話がいっぱい残ってますね。蠍もそうだけど。要するに自死する動物。人をただ毒牙にかけるだけじゃなくって、自分もそういうようにして死ぬという言い伝えがあったり。

 「ヘビに睨まれた蛙」もありますね。ヘビに見つめられると、邪視(じゃし)といって「見ただけで鳥は死ぬ」とか。だから空飛ぶ鳥をヘビがキッて睨んだらポトンと落ちるとか。そんな話が山ほどあったりするんですよ。それ熊楠がいろいろ調べてます、まあおもしろいですよ。ちょっと今日はうまく、すぐにはよう言わんけど。

 だからこの物語の中で、ヘビがいったい何を表しているのかっていうこと考えるとおもしろいですね。今年(2019年)猪年ですけど、ヘビ除けのおまじないは猪。猪ってヘビ食べるんですってね。猪はマムシの毒にやられないらしいですね。マムシはわれわれの今の生活ではほとんど見ませんけど、草原、草のあるとこ、草の茂みには、昔は山ほどヘビいたわけです。もちろん毒蛇も山ほどいるので、人間にとってはものすごく危険極まりない。とはいえ、都会生活、今のこの社会の中で、ヘビが人間に与える恐ろしさとかっていうことはなかなか分からないですけども。

 死を与えるものであると同時に、再生を繰り返す不死の象徴として医薬のもとになるようなイメージもあり非常に両価的なんです。知恵を与えてくれたけれども、それが為に人間は楽園から追放されっていうような。

 楽園追放の物語を考えてみれば知恵は人間の幸福とは無縁ということです。「信」、信ずるということ、神を信ずるということ、信仰の中で安らぐということのほうが人間にとっては幸福なわけで、賢しらな知恵をつけるのは、幸福から離れること以外の何物でもないというメッセージを読み取ることができるわけですけれど。

砂漠、星について

西川:
 それと、『星の王子さま』では砂漠が地球の舞台になっているっていうことも一つ考えなくてはいけませんね。砂、砂漠が、それからあとに出てきますけど、岩山みたいなところになるわけです。

 ただね、103ページの、

ヘビは説明しました。
 王子さまは石の上に腰をおろして、空を見あげました。

 「ぼくは思うんだけど」と続きますね。ここでは「人っ子一人いないことにびっくりした」「地球上には人がだれもいないんだね?」と言ってるだけで、まだ別に「人はどこにいるの?」とはヘビに聞いてはいません。
 
 聞いてないんですけど、でも「だれか人に会いたい」という気持ちがあるわけです。でもそれが「砂漠やから無理や」って言われた時に、王子は石の上に腰をおろして空を見あげたわけです。

 「満天の星が」とあるので夜か朝方なんでしょうね。夜と思うのか、朝と思うのかでだいぶん違うかもしれません。

「満天の星がキラキラと輝くのは、ぼくたち一人ひとりがいつか自分の星が見つけられるように、ってことなんじゃないだろうか。」

 これはなんか「自分の星を見つけられるように」っていうことやから、「本当の自分探し」みたいな感じですね。なんか「だれか人に会いたい」っていうことと、ちょっと違うような感じしますね。ここはちょっとあまり読み解けてませんが。

 ただ、同じようなことが、正岡子規の俳句にありますね。

真砂なす 数なき星の其の中に 吾に向ひて光る星あり

 「真砂なす」、「まさご」って、真実の「真」に「砂」って書いて。「浜の真砂は尽きずとも」。砂の数ほどあるっていうか。これはほとんど王子の言ってることと一緒ですね。

 星というものは位置を変えるわけですけれども、その星座のあり方、位置、配置関係とか、それから春夏秋冬の星座っていうか、「ものすごい規則的に変わっていく」ことに人間が気づく。これが文明の始まりですよね。時というものを計れるようになった。暦とか、それから時間っていうものを、何日、何か月、何年と、星の動きによって、「あの形の星が見えたら、まもなく寒くなる」「あの星がここらへんになってきたら、もうすぐ春がやって来る」と。

 それまでそんなに先のことを、未来のことを知る能力は人間にはなかったわけです。でも星の動きの規則性というものに気づいて、それを観測してから、その天上の星の姿と自分たちが住んでいる地域の気候の関係性を知るようになってから、先のことが分かるようになってきます。これでいわゆる農耕社会が可能になるわけです。

 農耕しようと思ったら計画性が必要なわけで、「いつに種を撒いて、いつ頃に収穫できるか」っていうふうな計画立てなくちゃいけない。「計画を立てる時に必要なことは何なのか?」、つまり物差しがいるわけです。その物差しが星やったんですね。

 人間は定住、それから農耕社会みたいな集団的労働をして、だから富もどんどんどんどん増えていく。それまでの狩猟採集生活みたいな行き当たりばったりではなくなるわけです。狩猟採集の場合でも「冬がいつ来るのか」とか「春がいつ来るのか」とかはやっぱり大事な情報ではあったわけですけれども、農耕するようになってからもっともっとそうなるわけです。

 それとともに、そういう星のもとに自分が生まれた日時、月日というものと、その時に星がどうだったのかということで、占星術だとかそういうものが様々にうまれます。今度は人間の将来、そういうことを知るためにも星の動きっていうのが注目されます。これは天動説の考え方ですよ。これを打ち破らるのはもうすごい大変だったわけですが、まあまあこの話はこの辺にしておきましょう。

 ちょっと話変わりますけど、劇作家のブレヒトの『ガリレオの生涯』[*25] をこのあいだ読みました。それから講談社学術文庫でガリレオの『星界の報告』[*26] も読みました。ガリレオが望遠鏡使って月面を観察して、木星の衛星のことをメディチ家に報告するやつです。

 「天が動くっていうんじゃなくって、地球が動いてるんだ」ことが、どれだけ社会の根本の倫理、法則をひっくり返すような出来事だったか。ブルーノ [*27] は、火あぶりになったんですけど、ガリレオは説を取り下げるんですけど、やっぱりずーっと監察下に置かれてて、ほとんど自由な活動できていません。

[*25] 『ガリレイの生涯』(独:Leben des Galilei):ベルトルト・ブレヒトの戯曲。1943年、チューリヒにて初演。イタリアの自然科学者ガリレオ・ガリレイの生涯を題材に科学と権力との問題を扱う。

[*26] 『星界の報告』(ラテン語:Sidereus Nuncius):イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが1610年に出版した、最初の書籍。

[*27] ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno):1548 - 1600年) イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。 コペルニクスの地動説に同調して汎神論をとり,異端とされた。7年間投獄されたが、その主張を変えず、処刑された。

 彼のいわゆる自然科学的な客観的なやり方、観察は「没価値性」[*28]みたいなことなんです。意味じゃない。「没価値」です。「神の意図を読む」と彼は書いているけれども、当時の教会とかの権威が依って立つところのものはやっぱり無視するわけ。「見たらそうだろう」っていうことで、やっぱり否定していくわけですね。そういうのも読んでて結構おもしろかった。

 そうそう、このあいだプラネタリウムに行ったら、「10万年後の星空」っていう番組をやってて。冬の星座オリオン座あるでしょ。あれ何やったっけ? ちょっと星の名前忘れたけど、一番光り輝いているやつがあるんですが。

[*28] 没価値性:社会科学において認識の客観性を保つためには,一定の価値基準に従って善悪,正邪の判断を迫るような態度をとるべきでないという M.ウェーバーの主張。価値自由あるいは価値中立性ともいわれる。

C:シリウス?

西川:
 シリウスか。あれがもう白色矮星化 [*29] していて、ここ数万年以内に爆発するというのが天文学の中での常識みたいになってるらしいです。星にも一生があります。星は要するに恒星、太陽みたいなやつはどんどんどんどん大きくなっていくんですよ。

 大きくなっていって、しまいにはバーンって爆発してしまう。爆発したら、ものすごい光を放つらしいです。それが『明月記』[*30] っていう昔の随筆なんかにも書いてあったりするんですけど、オリオン座のシリウスも数万年以内には超新星になると。ということは、10万年経ったらオリオン座の1個なくなるわけ。それから星座の形も少しずつ変化していくんです。

 僕たちの人間的なスケールで「10万年後」言われたらね。人類の文明ができてから10万年経ってないから。だから140億年と言われてる宇宙の歴史からしたら「10万年後」はあっという間のすぐのことなんですね。人間にとってみたら「10万年後」言うたら想像もできません。放射性物質の半減期も想像もつかないような年月がかかるっていうことですね。

[*29] 白色矮星(はくしょくわいせい、white dwarf ):恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つ。質量は太陽と同程度から数分の1程度と大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小しており、非常に高密度の天体である。 シリウスの伴星(シリウスB)など数百個が知られている。

[*30] 『明月記』(めいげつき):鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録。

 僕たちは知恵が進んでるかのように見えてても、「人間的尺度から自由になる」っていうことはものすごい難しい。「星ってあるもんや」と思ってしまう。「永遠不変の星や」とやっぱり思ってしまうわけです。頭で知ってても、「日が昇り、日が沈む」っていう感覚からは離れられませんね。でも、日常のそういう人間的経験の意味を超えた世界の在り様っていうものあるわけです。それを知らせるものが芸術であったり、科学であったりするのかなって思います。僕はどちらかと言うとアンチ科学主義でずっと来てましたけど、最近いろいろ宇宙のことを、本読んでみたりとかすると、「いやいや、やっぱり、いわゆる文系の哲学だけとか言うてたらあかんなあ」ってそういう気持ちがすごくしてます。

 サン=テグジュペリはそういう意味では、たぐいまれな、そういう両方にまたがる知性と感性を持った人だったんじゃないかなと思いますね。『星の王子さま』を単純にメルヘンチックなものとして読むのではなく、人類が飛行機に乗った最初の頃にパイロットとして空から大地をみて、さらに地球という惑星を外から見る視点で物語を、点灯夫の動きみたいなことまで想像を伸ばした人の物語としてやっぱり読むことが大事かなっていう、そういう気はします。
 

孤独について

西川:

でも、 なんて遠いところにあるんだろう!」
「美しい星だな」とヘビは言いました。

 何となくヘビが一筋縄ではいかない、単純に怖いものだけじゃなくて、そういう知恵ある者っていうかな。この答えにその側面が出ている気がしますけど。だからヘビはあまり説明を必要としないですね。

 王子が「一輪の花と面倒を起こしてね」と答えたら、「ああ、そうだったのか」とすっと応えるわけです。で、二人は黙りこくってしまう。

 次の「人間たちはいったいどこにいるの?」という質問。この流れで行くと、ごくごく普通のセリフのように思います。ですが「人間たちはいったいどこにいるの?」は非常に有名なセリフです。シノペのディオゲネス [*31] っていうギリシャの、まあ言うたら乞食みたいな、樽の中に住んでたって言われている犬儒派 [*32] の哲学者が、真っ昼間にランプ付けて「人間たちはどこにいる?」言うて街々を歩いたと言われています。

 要するに「そこらへんにいてるのは人間じゃない。本当の人間って、いったいどこなんだ?」と。だから人間論ですよ。「人間とは何なのか?」「二本足で立って、もの作って」「毛がなくて」ってプラトンが言ったら、ディオゲネスが鶏の毛を全部むしって「ほら二本足で毛がないぞ」と持って行った、みたいな話がありました。

[*31] ディオゲネス(英: Diogenes、希:Διογένης):紀元前412年? - 紀元前323年) 古代ギリシアの哲学者。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。 犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。

[*32] 犬儒派: ディオゲネスがみすぼらしい身なりで町をさまよい歩き、樽を住居として「犬のような生活」を送ったことからいう哲学の学派の一つ。認識より実行を重んじ、欲望をおさえ、慣習や文化から独立した自然の生活をすることが正しいとした。

 この「人間たちはいったいどこにいるの?」っていう言葉。このあと「人間とは何か?」ということも、さまざまに出てきます。「人間には根がないからね」みたいな話だとか、いっぱい出てきますね。「人間は今いるところに満足できないんだ」とか、さまざまな人間に関するフランスのユマニスム(humanisme)、人間観察みたいなそういう流れ。パスカルなんかの『パンセ』、モンテーニュ、パスカルなんかを継ぐサン=テグジュペリの面目躍如といったところですかね。

「砂漠では独りぼっちで、ちょっとさびしいね……」
「人間たちのところにいたって、独りぼっちでさびしいものさ」とヘビが言いました。

 ヘビ、これにもニヒルな返事してます。これもね、一遍上人の言葉でこういうのがあります。

おのづから相あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり

 一遍上人の思想の中でこの言葉がどういう意味を持っているか。「おのずから」「自然と」、「相あふ」を「愛し合う」と取ってもいいと思うんですけど、「愛し合うようになったとしても、そしてまたそれは別れたとしても、いつでもどこでも一人は一人だよ」っていうようなことを、一遍上人がそういう言葉で語っているわけです。

 さて、人間は「一人ぼっちだ」だけなのかどうか? 個でありながら共同でなければ、人間は成り立たない。人間の自我意識は誰とも取り換えのつかないものですけど、でも一方で人間というのは社会的生き物なんです。社会を離れて人間らしい生き方はできないわけで。でも自己意識という面では、あくまで「自分」、つまり「自らの分」っていうところで孤独を抱え込まざるを得ない。

 「意識の問題だ」と言ってしまうこともできるわけですけども、「私というものは、私にとっては新参者や」っていうかね、生まれた時には個でもないし私でもない。まず人として生まれて、人として育てられる。社会の中で、人間社会、共同性の中で育まれて。ところがそれが「私」という意識を持ち始めます。

 特に近代以降は個人主義っていうか、自我っていうもの、私個人、個を中心にして考える考え方が、デカルト以降、「我思う、ゆえに我あり」[*33]じゃないですけど、徹底してくるわけですね。そのことのつらさみたいなのがあります。もちろん、デカルト以前にはもう引き返せないですけどね。でもそれで突っ走れるかっていうと突っ走れるわけでもないっていう。

[*33] 「我思う、ゆえに我あり」:(仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum) フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596 - 1650)が、仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題。

 「人間たちのところにいたって、独りぼっちでさみしいものさ」「でも人間たちのところに行かなきゃ、人間にはなれないぜ」ってわけです。それでシノペのディオゲネスみたいに、人と交わることを嫌って樽の中に生きてるような男でも関わらなければ生きていけません。

 鷲田先生が田中美知太郎 [*34] を引用してボロクソに言うてました。「誰の世話にもなってない言うたって、その樽は誰が作ってん?」「その木は誰がどこの山から切ってん?」「その腰に巻いている布はどっから誰がやって…」。要するに、人が生きてたら、どんなことをどんなふうに「自分は一人や」って言ったところで、さまざまな目に見えない人たちとのつながりの中で生きざるを得ないっていうわけです。

 心の悩みと言っても、「悩んでる」「僕つらいんですよ」「死にたい」ということも「それ誰から教えてもらった言葉?」ってなったら、もう自分で考えだした言葉じゃなくなります。まあ、でもだからといって誰にでも分かってもらえるっていうものでもないんですが。

[*34] 田中 美知太郎(たなか みちたろう):1902 - 1985年 日本の哲学者、西洋古典学者。主要な著書に『ロゴスとイデア』。

 『星の王子さま』でケアということですから、関係が問題になってきますが、このやはりどうしようもない、交換できない、分かり合えない、一人ぼっちであるということ、孤独ということも、やっぱり片いっぽうでは大きなテーマとしてあります。それがここでは明確に出されていますね。

 それと「脚だってないじゃないか……」というヘビの言葉。さっきの聖書の話ですね。あと、106ページの「おれが触ると、だれだって土に帰ってしまうんだ」という言葉。

 土っていうのもね、ホモ(homo)はもともとフムス(humus)って言うて、腐葉土、腐植土っていうね、「人間っていうのは土、芥(あくた)から作られた」っていう、キリスト教っていうよりも、旧約の思想ですけれども。

謎について

西川:
 「どうして君は謎めいた話し方ばかりするの?」「おれは謎はなんだって解いてみせるからな」というやり取りもありますね。でも、『星の王子さま』も全体で、結構、謎めいた書き方が多いですよね。ここは特にそうですけど。「謎めいた話し方をする」っていうので、西洋哲学で一番有名な人はヘラクレイトス [*35] っていう人です。「謎をかける人」っていうことで出てくるんですけども。

[*35] ヘラクレイトス(Hērakleitos):前540ころ~前480ころ 古代ギリシャの哲学者。万物は「ある」ものではなく、反対物の対立と調和によって不断に「なる」ものであり、その根源は火であると主張した。その学説は、万物流転説とよばれる

 あのね、何を問うているのかが明確な問いってあるじゃないですか。謎というのは何が問われているのかもよく分からないんです。答えが分からないやつを単純に謎と言うんじゃない、それは難問なんですよ。でも謎っていうのは、何が問われているのかが分からないという。

 真っ昼間にランプを出して「人間はどこにいる?」という、これは謎ですよ。「人間って、俺もお前もおるやん」「いや、人間はどこだ?」っていわれても謎ですよね。だからこれは答えることが難しいというよりも、問いが何を問うているのかが一義的でない。そう簡単に、容易に分からないってことです。じゃあ分かる問いっていったいどういう問いだと思います? 謎でない問いっていうのは?

A:答えが分かってる問い?

西川:
 そう、答え分かってるやつです。だから「何を聞こうとしているか」が分かるやつです。要するに、同じことを問われてるとかね、問うた人と同じことを問うてると思ってるんですよ。どう言うたらいいかな…。うーん、難しいな。あのね、問う人と答える人が問題を共有してるっていうことが大事なんやね。これは謎にはならない、たとえ答えが分からなくても。どんなふうに言うたらいいやろ。

C:先生が生徒に出す問いとか、テストの問題みたいな問いとかっていうのは、難問にはなっても謎にはならないんですかね。

西川:謎にはならないでしょうね。

C:ああいうのはだから、先生は想定してる答えとかあるし、「共有はできてる」と勝手に思って、答えてる者については扱いますよね。

西川:「どっち食べたい?」「どっち先食べる?」という問いかけも謎じゃないでしょ? 「どっちを食べる?」「どっちから先食べる?」っていうことやから。って、「僕」が「あなた」に聞いてるわけよ。だからその意図がちゃんと分かってるわけやね。意図がある。

A:自分で分かってることじゃないけど、なんか人に聞いてしまうみたいな、自分で答え分かってないんだけど、

西川:
 「あれ何やろ?」って言った時に、「それ、何か知らんけど、きれいな花のあれやんか、ランプやんか」みたいにみんなが言えたとしたら、「あれ何やろ?」って言った時には、みんなは僕が何を疑問に思ってるかはみんな分かるわけですよ。

 ところがここで、たとえば、目の不自由な人がいたとしたら、「あれ何やろ?」って言った時に共有できないですよ。だから、今の感覚とかだけじゃなくって、要するに何を問おうとしているのかを一緒になって考えることができたら、それはね、謎じゃないんです。

 でもそうじゃなくって、その人が何を…、禅問答なんかどちらかと言うとそうなんですね。「何を問われているのかよう分からん」というやつです。あれは答えどっち言うても「あかん」て言われたりするわけでしょ。だからパンって手を叩いて「どっちが鳴った?」みたいなこと言われた時に、どう答えてもあかんわけですよ。だからそれは自分が「こう聞かれてる」と思ってることと、師匠がその問いで相手の何かを知りたいと思てることがまったく違うわけですよ。そういうのがやっぱり謎になるんです。

 でも、ヘビが「謎はなんだって解いてみせるからな」っていうのは、何で解くのか言うたらこれ、「死」ということでしょ。相手を死に至らしめるっていうことでしょ。「死というものがすべての謎を解くカギになる」っていうヘビのメッセージはそうですね。「死がすべての謎を解いてみせる」って言うてるんですよ。

C:問いに対して答えを出すんじゃなくって、問い自体を解消するというアプローチをすることもありますよね。数学なんかでも、それは問い自体が、何て言うのかな、問い自体がここおかしい…、「それができるかできないか」っていうことを求めてオタオタするんじゃなくて、「それはそもそもできない」ってことを示すことをもって答えとするとかそういうこともありますし。それはそれで、それもはっきり示せるとすればそれでありですかね?

西川:
 いや、でもそれは「問題にしない」だけだから、謎を解くというのはやっぱりちょっと違うと思うんですよね。ヘビの「死というものが謎を解くカギになる」というのはやっぱり僕は明確なメッセージだと思いますよ。

 『星の王子さま』にとって、死はものすごい大きなテーマになっています。最初に言いましたけど、ケア論としてこれを読む時に大事なのは、前回の地理学者の「はかない」という言葉の意味を王子が知った時に、王子は初めて自分の星を出てから心が変わった。初めて花が気になりだした。ここです。一大転機なんですよ。

 キツネに秘密を教えられる前に、まず「はかない」ということを知って、自分がバラを置いて星を出てきたことを後悔した。それから以降ずっとバラのことが気になるわけですから。一番大きなのは「はかない」っていうこと。相手がはかないことを知ったことです。

 「おまえがかわいそうだよ」「いつか、おまえが、自分の星が懐かしくて懐かしくて矢も楯もたまらなくなったら、俺が手助けしてやる」「おれはどんな謎だって解いてみせるから」というのも、「か弱い」「かわいそうだ」「お前が手助けが必要になったら、俺がすべての謎を解く死をおまえにあげるよ」ということです。だから、この最後は「すべての謎を解く者としてヘビが王子と出会う」っていうように読むのかどうなのか?

 さっきも言いましたけど、「はかない」ものというのは、この世から消えてしまう。そのことを死と言ってもよいし、存在が消えてしまうとっていってもよい。つかの間の存在であるっていうことは死を免れないということです。その「はかない」に気づいた時に、王子はガラッと変わった。バラについて変わったわけです。

 だからよく言われるのは、『星の王子さま』の最後が自死みたいなもんですから、「子どもに読ませるのはいかがなもの」ってことです。いや、ほんとそうですよ。言ってみたら危ない。だって「命よりも大切なことがある」からヘビに頼んで噛んでもらうっていう。「命なんか何なんだ」っていうパイロットの言葉もありました。

 サン=テグジュペリってある意味でそういう人なんですよ。「死というものを何としてでも避けなければならない」なんてことは言っていない。「命よりも大切なものがある」、で「死ぬっていうかたちでしか解けない謎もある」ということ。世間的にはそんなに言われてないけど、恐ろしいと言えば恐ろしい思想ですよ。

 いわゆる他の『人間の土地』にしても何にしても、死というものに関するサン=テグジュペリの考え方っていうのは、この『星の王子さま』と一緒です。このヘビのメッセージと重なるところがある。だから決してそんなみんなで「いい話やね、これ」という話にはなってないです。どうしたところで人は人を助け尽くすことはできないっていうか、助けてもらい尽くすこともできない。

 ケアが人と人との関係であるならば、人はケアの中で、まあ「すえとおりたる慈悲」っていうものと出合うことはないんですよ。決してない。けれども、だから死というもの、「はかない」という運命を自らが受け入れるということがどんな謎をいったい解くのか? ここがやはりものすごく大事なことになっていくと思うんです。

 いわゆるこう世間の一般的な社会道徳として、「相手のことを大切にする」って「なじみになることが大事だ」とかね、っていう話じゃないんですよ、たぶん。必ず別れるんですもん。あんだけ仲良くなったキツネとも別れるんですよ。キツネが泣いても別れるんですよ。パイロットとも別れるんです。王子は必ず別れるんです。バラのもとに帰ったように見えても、重たい体をもう持って行かないんですよ。この世から離れてしまう。だからそういうメッセージがいくつもあるわけですね。

 「レオン・ヴェルトに対する慰めにどうやってなるのか?」ということですが、「もう、いついかなる時にも死を覚悟せねばならない」ということであって、「何とかがまんして生き延びようぜ」というメッセージはどこにもないんです。この本の中のどこにもない。だけど「自分を襲った運命にただひたすら従え」とも言ってない。その抗いようのないはかなさに対して、人はかけがえのない関係っていうものをどうやって作っていくのか? 

 「別れたとしても、君がいなくなっても、僕には小麦畑があるからね」、「君には五億の鈴をあげたようなもんだよ」というメッセージあります。はかなさが離してしまう、その後死が訪れた後にもまだ残る何か、みたいなことのメッセージが、この『星の王子さま』では次から次へとこれから折りたたまれていくんです。

 だからある意味では、そんな若い、ちっちゃい子が読んでも分かるわけがないのかもしれません。いろんな人を愛してて、愛しながらも別れてしまった。で、別れてしまって、相手は死んでしまった、とかね。もうこの世では普通にまみえることがならない、そういうさまざまな、ほんとにはかない命との出会いと別れみたいなものを繰り返していく中で、でも、なじみになるってこと、飼い慣らされるって、飼い慣らすっていうことが、どういう意味があるのか? きずなを作る関係というのがどういう意味を持ってるのか? そういうことを、『星の王子さま』は書いてるんじゃないかなって思います。

 まあ今日はそれぐらいで。はい。ちょっと長くなったね。これぐらいにしときます。ちょっといったん休憩して、それでまた。

おわりの談話

西川:どうですか? ガラッと変わってきますよ、このあたりから。

A:うん、そうですね。だんだんなんか複雑になってきて。

西川:そんなにね、楽しい、美しい、「きれいな話だなあ」って、「心が安らぐわ」みたいな話じゃないですよ。

A:深いですね。なんか「ただの孤独ではない」みたいな感じの。

西川:ケアって、なんかものすごい短ーい文脈で語られること多いじゃないですか。「困った人がいました。私たち一生懸命やりました。彼も一生懸命やってくれました。それでこんなに良くなりました」って。で、「いいですね、やっぱりケアってね」みたいな話あるけど、それはなんか底が浅いよね。だから最初の、セルフケアで一人で自足して生きてた王子が、気に入っている間だけバラの面倒見てるようなもんですよ。そのあたりのケアは山ほど語られてるんやけど。自分のはかなさまで扱っているものはなかなかない。ハッピーエンドにならない。

B:最初から書く時からこういう流れで、書いてるうちに変わる的なのか、どうなんですか?

西川:サン=テグジュペリ自身もものすごい鬱状態やからね。完璧に孤立してしまってるしね、アメリカの、

B:これだけを書いてたん?

西川:いや、そんなことないです。『城砦』という未完の小説をずっと書いてる。別にサン=テグジュペリとか『星の王子さま』のメッセージに、いちいち「そうや、そうや」って納得する必要はないと思うんですけど、でも普段考えてなかったレベルで読んだほうが、やっぱりいいんちゃうかなと。でないと、なんでこれがレオン・ヴェルトに対する慰めの本になるのか? なぜサン=テグジュペリは自分が死ぬと分かっていながら何度も何度もそんな偵察飛行に出て、地中海の藻屑になったのか? そんな彼の生き方と結びつけへんようになってしまうから。

A:ケアで考えると、たとえ短期間の関わりであっても「いかに相手の心に残るか」みたいな、そんなこと考えてしまいます。ずーっとその人に関われるわけではないですから。

西川:
 それは人間的な文脈なんですよ。「たった一年だけのあれやったけど」「一週間だけやった」とかね。老健に勤めていた時に朝呼ばれて、上の階から初めての利用者さんに「調子悪い」って。で一生懸命調べたりとか何かして。「どこがしんどいですか」とかやったけど、別に何も問題なかったん。ほんなら明くる日の朝亡くなったって聞いて。「えー!」みたいなことありました。

 だからほんまにたった一回しか会うてない人やけど。その時に自分が出会って、その時の彼女の不安やとかと向き合ってるわけでしょ。ほんで1時間ぐらい帰ってけえへんかったけど俺ね、ずっとそのままおって。何にも、バイタルも何にも異常ないですから。基本、何の問題ないと思ってたんやけど、まあ彼女は彼女なりに何となく分かってたんやろね、自分がこの世を去るということが分かってたんやろうけど。いやそれ十年いてても、過ぎてしまえば、なんかね。でも「別れて後も」っていうことですよ、これ別れの物語やから。

 でも最後に「星の王子さまを見かけたら僕に連絡してちょうだいね」みたいなかたちで終わってたりするでしょ。

A:たぶんそう、死ぬ間際に分かることとかもあるんやろうなとか思うし、その時に出会った人、ねえ、この最後のその一日前に、とかでも、なんか実になるというか。その人にとっても、「もう明日死ぬかもしれないけど、この人に会えた」とかなんかあるかもしれない。

西川:
 たまたまなんですよね。たまたま僕がその日に勤務してて、呼ばれて。それこそ九鬼周造の「偶然性の問題」じゃないですけど「たまたま出会うっていうことにどんな意味があるのか?」みたいなことを、九鬼周造ってずっと考えてるわけですけど。

 だから命にしたって、世界があるっていうことだって「偶然や」って言うわけですよ。だから「存在っていうの、必然ではないんや」っていう考え方やから、九鬼周造はもうほんとに「はかなさの哲学」みたいなもんで。それをケア論で考えたいっていうのが僕の、臨床哲学入ってからずーっと考えてることです。いわゆるこう、なんか根拠のある、自信を持ったケアとは違うんやけどね。

 それは全部、自分のはかなさを忘れた人たちが言う言葉やろ?って。「弱い人たちに、私たちは根拠を持ってこれだけ効果的なケアしました」っていうのはね。そんなんで、ほんまにきずなができるとは到底思われへんな。でも「俺も死ぬんやから」言うてもね、それもね、ちょっと違うし、どう言うたらええんやろ。

A:「分かり合う」とかできないんやろうけど、だけど、なんか意味あると思いたいっていうか。

西川:だから、あんまり意味を求めると、やっぱ虚無的になってしまうんですよ。「ケアの意味とは何か?」とかね、「私の人生の意味は何か?」とかっていうふうになったらね、やっぱ虚無的になんねん。

A:問い詰めないんですけど、なんかあるような気がする。今は、問い詰めるとしんどくなると分かってるんで。

西川:
 この間「ケア塾たまてばこ」のほうで、鷲田先生の『老いの空白』を読んでて、「意味はないけど価値はある」っていう言葉が中にあってね。「人生に意味はないかもしれん。この出会いにはっきりした意味はないかもしれん。意味はないかもしれないけれども価値はある」と。

 フランクル [*36] だと「人生の意味を人生に問うんじゃなくて、自分が問われてるんや」「その問いの方向を転換せなあかん」となる。価値っていうものは…、価値にいろいろ付くんですけど、創造価値やとか、体験価値やとか、態度価値やとか、フランクルここらへんまでしか言うてないんですけど、でももっと考えてみれば、たとえそれがたまたまであろうと。

 たまたまであるがゆえに、「あった」っていうことは驚きであり、それこそすごい価値なんですよ。意味っていうのは、さまざまな文脈の中で意味として浮き上がってくるものやけど、「あることもないこともできたのに、今ある」。それを九鬼周造なら「原始偶然」とか言うんですけど。

 [*36] フランクル: ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)1905 - 1997年) オーストリアの精神科医、心理学者。代表的著作に『夜と霧』。

 そういうこといろいろいろいろ考えてると、釜ヶ崎の本田哲郎神父が「私は、今、目の前にいる人を大切にしない主義・主張・信仰は相手にしません」というのが、ものすごい納得いくねん。「今、目の前にいる」。別にそれはね、「私が神父だから」とかじゃないねん。「ここがミサの場で」とか関係ないねん。「今、目の前にいる人を大切にする」っていうだけのことなんですよ。「この人がどういう人だから」じゃないんですよ。「自分が何かにできる人間だから」じゃないんですよ。

 「今、目の前にいる人を大切にするっていう、そのことだけが自分には」、彼はそんなこと言いませんけど、「自分にできることであり、自分に許されたことであり、自分が喜びとできること」って考える。もともとはあの人も信仰者として神の教えを、福音を述べ伝えるために釜ヶ崎に行ったんやけど、何のことはない、自分のほうが彼らから救われたっていうようなところから考え方どんどんどんどん変わっていくんですけど。

 でも、こういうのはなかなかね、大きな声で言うてもね、日本看護協会とかでは全っ然相手にされませんよ(笑)。話になれへんと思う。それ説明なんですよね、自分がいること。「大人は何でも説明してあげないと分からない」みたいなもんで、「私があなたを看護するのは、かくかくしかじか、こういう理由があって、こうすればああなるっていう計算と予定があって、計画があってするんですよ」みたいな説明、説得なんです。

 「もっと大切なことがそうじゃないところにあるやろ」っていうの、ずーっと最初からあるんですよ。目には見えないし、言葉でも言えないっていう。でも、その言えない、見えないっていうことを、謎めいた語り方で少しずつっていうかな。

A:でもなんか、謎めいてるけどなんか、面白いですけどね。普通の大人は「謎めいてて、わけ分からん」とか思うのかもしれないですけど。でも謎めいているの面白いとは思えますけど、でも答えとかは分かんないですよね、全然。

西川:
 でもね、「命よりも大切なことがある」っていうのはむっちゃくちゃすごいメッセージやと僕は思ってるんです。分かったような気ぃするけど、納得してるかって言ったら納得してないよな、やっぱしな。

 だから、たぶん看取りのところでよく言いますけど、死というものが、私個人にとっては、できることがすべてなくなる状態のことですよ。もうこれ以上悲惨な、みじめなあり方ってないわけで。それこそ死ぬだけじゃなくて、この世から姿をすべて消してしまう。「誰も自分のこと覚えてもいない」みたいなかたちで、痕跡すらなくなってしまうっていうことが、はかないわれわれとしては、もう不可避のさだめなんですよね。

 歴史上の人物だって、たかだか数千年、今残ってるっていうだけやから。だからこのあと一万年、二万年経ってソクラテスの名前が残ってるか分からへんね。もっと前にはもっとこう世界中に名を轟かせた人たちの名前が次々と消えていってるっていうことが、歴史の中であるわけで。

 だからわれわれの存在というのは、いかに「歴史的に偉大な人物になりえた」とその時自分が思っても、歴史はもっと冷酷に、人間社会の中からその痕跡を消し去ってしまうわけで。でも、うーん、どう言うたらええんやろね、そういう人間どうしが今たまたまめぐり合って、何の意味もないかのように見えるんやけど、「結局のところ何なの?」っていうそこに、そこに大事なことがあるっていうふうに、彼は言おうとしてるんやろうけどね。

A:すっごい気の合う人やったら簡単にそういうふうに思えるんですけど、なんかケアとかやったら、なんかね、どうしても自分が腹立ってしまうこととか、そういう相談をよく受けるんですよね。「ケアしたいのに、もう腹立ってしょうがないのがすごい自分がつらい」とか、そういう気持ちの相談とかも受けるし、

西川:どんなことでも、「相手が死んでしまうんだ」って本当に分かったら、許せるもんやって。

A:(笑) ね、すごいのがなんか出てきたんですけど、「いや、そこどうなんやろ?」と思いましたね、今回。いや、確かに自分もどんなに「その人のため」と思って入っても、腹立つことって絶対あるんですけど、でも「その時の感情やな」って思ったら結構ましになるんですよ。「まあ今だけの感情かな」とか思ってだんだん収めるようになってきたんですけど。そういう相談をよく受けるから、そのへんなんか今日はちょっと考えましたけど。ちょっと、あまりにも大きい話になってきたけど、

西川:どんどん大きい話になってきますよ、これから。

A:だけどちょっとそのへん、もうちょっと今引っかかりましたね、なんか今回。

西川:
 さっきの話の続きですけど、個人としてできることがすべてなくなるのが、それこそ歴史にあとかたもなくなってしまうのが、死が私たち一人一人に与えるさだめなんです。

 でも死というものを「この世での位置を譲る」「この世での私の席を譲る」って考えたら、生きている間は絶対できへんことですよ。生きてる間は絶対できへんねん、ここに生きて、座ってるかぎり。譲られへんねん。譲ったと思ったら、違うとこ占めてんねんから。ね。

 そういう意味で生きるって、原罪とは言いませんけど、「我をそこに占める」っていう意味で、どうしたところで「すべてを譲る」なんてことはできへんわけです。ただ一つ「死」だけがこの世の席を、まだ見ぬ人たちのためにも譲るっていうことをするんですよ。

 だから僕は「見送りじゃなくて看取りっていうことが大事ですよ」って。「死んでいった人が何を譲ってくれたのか」って。「決してどんな偉い人も生きている間にはできないことを、死にゆく人は死というかたちで私たちに譲ってくれてる」。そのことを、譲られた席をまた自分も譲らなあかんねんけどね。でもそのことをどう受け取るかっていうことが看取りでは一番大切なこと。そう考えると、死というものは何もできなくなるっていうんじゃなくって、生きている間は決してできないことが死によって可能になってくる。

 これ鷲田先生も言ってたんですけど、「できるできない」「何かができる人できない人」って、障害についてもさまざまに言われますけど、「できるできない」っていうのは、ある一つの物差しで言ってるだけなんですね。

 だから声を発するっていうことは、言葉をしゃべれるっていうことは、言葉にならないような変な声をもう僕たちは出せなくなってる。子どもの喃語みたいに自由自在な声が出ない。日本語として分節化された声で言ってしまうし、なんか痛い時があっても「痛っ」っていうふうな、日本語で言ってしまうようになる。

 だから、ほんとにうまくしつけられた九官鳥だったら、もう鳥の声を出せなくなってしまって人間の真似しかできなくなってしまう。何かができるっていうことは、何かができないことを代償にして、できるようになってるっていうこと。そうするとですね、できないことが何か一つのことをできるっていうふうにするならば、すべてのことができなくなる死というものが、何かをできるようにするかもしれない。

 これずっと考えたんですよ、俺。でもそれが何か分からへんかったんやけど、植島先生が引用してたルクレティウス [*37] の話で、「『ごちそうさまでした』って言ってレストランから出るみたいに人生終われんもんか」って。あれは、要するに席譲るわけですよ。お腹いっぱい食べたらいつまでも座ってるバカいないもんね。ニコニコしながら「どうぞ、空きましたよ」って言って席を譲れるやろって。だからそういう意味で「人生の快楽を汲み尽くせ」っていうんですけどね、植島先生は。

[*37] ルクレティウス:ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語: Titus Lucretius Carus)紀元前99年頃 - 紀元前55年) 共和政ローマ期の詩人・哲学者。エピクロスの思想を詩『事物の本性について』に著した。

B:「満足して立ち去らないかん」のでしょ? 「満足せな立ち去られへん」って。

西川:
 そう。でも、またそれこそ「何が自分にとってこの人生で得なければならないものなのか?」って考えた時に、金であったり愛であったり何とかかんとかっていうよりも前に「この世に自分が存在した」っていうこと、「しなくてもいいはずのものが、した」っていう事実。自分の存在に対する驚きと驚きからつながること。喜びになるかどうか別やけど、その「存在している」っていうことの不思議に対すること。あまりにも当たり前やと思ってて。言うてみたら、「命あっての物種(ものだね)」やのに、物種のほうにばっかり目が行ってしまう。

 でもサン=テグジュペリに言わせると、「その私の命だって、たかが知れてる」っていうわけですよ。「もっと大事なものがある」みたいなんで、いう話になってきて。まあどんどんどんどん哲学的というか、宗教的な話になっていきますよね。既成のなんかそういう信仰を背景にして語られているものではないわけで。

 俺はやっぱり「はかなさ」は、ケア考える時にめっちゃくちゃ大事なことやなって改めて思いました。キツネなんかよりも…、キツネはね、やっぱ結局教えとんや。じゃなくって、「はかないってどういうこと?」ってこう、必死になって聞いて、「そのうち消えてなくなることだよ」って。まあ別に何の意図もなしに言った地理学者の言葉で、王子はハッてこう気づくというか、心が痛むようにしてね、一つの真実と出合うわけですよ。

 本田神父が聖書を訳す時に、イエスが何かこう出会った時に「はらわたをえぐられるような思いで」っていう言葉をたくさん使いはったけど。なんかね、「あ、賢くなった!」とか「あ、分かった!」とかっていうような、たぶんそういうもんじゃないんですよ。今までの自分が引き裂かれて殺されるような、そういう痛みを持って、大切な出来事とは恐らく出合うはずなんや。調子に乗って、「おとなって変だなあ」とかって言ってる時にはね、そんな悲壮感ないんですよ、これ全然。でもこの「はかない」という言葉を知ってから王子のさまざまな出会いというものは、なんかねぇ、王子の最後の結末につながっていくような、なんかやっぱりしんどい話があるんです。次々と染み込んでくる。

 サン=テグジュペリがやっぱり、人生の中でこんなふうに考えてたりとか、辞世しようとしたことと、きっちり結びついた話やと思います。単純に想像力をたくましくして、宇宙を舞台にしたおとぎ話っていうんじゃない。

C:今日はなんか虚無感にちょっと捉われてて、思考力とかのほうもこう奪ってた感じがしますけど、でも、ここ数年こういうことあまりなかったかもしれないし、もしかしたら自分の内面の向き合わなきゃいけないものがあらわになってきてるのかもしれないと思って、それを喜びとしたいと思ってました。

B:おお、すごい。

C:でもこれ、死ぬってことを割と単純に解決にしてしまうみたいなところって、今の人ってあったりすると思うのね、日本の中に。自殺率すごく増えたりとかしてますけど。

西川:それはあのなあ、死というものじゃなくて、「生きたくない」っていうだけや。「生の否定が死」っていうのが短絡的な考え方で。「もう死にたい」っていうのを、「じゃあ死になさい」って言うんじゃない。「今みたいに生きたくないんだね」って言うだけ。

C:そりゃそうなんですよね、大抵の場合は。

西川:だって死のことなんか誰も知らないもん。

C:「死んだら解決する」なんて言って何の保証もないし、そんな信頼できて実行できるかってことになりますよね。ほんとに僕、死ぬっていうことを、どっか駅まで歩いていくとか、ごはん食べにどっかに出かけるみたいな感じで、自分のやることとして死ぬってことができるんだったら、ある意味自殺っていうのはありかもしれないし。

西川:そんなね、人生の終点にポツンとあるような落とし穴のようにして死をイメージするけれども、生死一如じゃないけど、自分の人生のはかなさって考えたら、もう常に裏にあるんですよ。果てにあるんじゃないねん。「生の果てにある」っていうようなイメージを持ってるのと、常に自分のこう、いかにこう「いきいき生きてる」って喜びに満ちてると思っていても、その裏側にははかなさっていうか、自分が消えてなくなるっていうことは裏側にあるから見えてないだけやねん。見えてないけど裏はあんねん。

C:「死ぬ」っていうことを動詞として捉えたら、今「生きてる」っていうのは「死んでる」って言ってもいいわけですよね。別の同じことを別の言い方してるだけかもしれないって、

西川:だから「生と死というものが水と油みたいにまったく違うものや」っていうふうに考えるのが、「生が嫌だから死に行く」っていう、まあ自殺者の論理ですけど、その論理は単純すぎんねん。裏にあんねん、常に。見えてないだけ。

C:「死にたい」っていう時も考えたら、僕なんかしょっちゅう最近そればっかり言ってしまって家族に迷惑かけてますからね。なんかでもね、ほんとは死のうとしても死ねないことに対する何か不条理さみたいなものに苦しめられているような気もしますよね。

西川:いや、心配せんでも死ねるよ。

C:そうなんですよ。飛び降りたりとか毒飲んだりするのとは違うと思うんですよね、望んでるのは。そういうことじゃない。だからやっぱりこう、今生きている中でのこの苦しみの苦しみ方を覚える、溺れ方を覚える的な、みたいな感じのことをもうちょっとできなきゃいけない、みたいことを思ってたりとかして。たぶんちょっと僕は、向き合わなきゃいけないこと向き合ってないところがあるんですよ。そこがね、今日は特にですけど、昔からの失敗経験がブツブツブツブツ上がってきて、もう仕事に支障をきたすようになってしまってるから、それちょっとね問題ありますね。仕事ができなくなると、もっと死に近くなりますからね、なんかね。

西川:その言うてる死っての、めちゃくちゃマイナスイメージやんか。サン=テグジュペリはそんなことは言うてないねん、全然。「生の否定としての死」とかじゃないと思いますよ、僕は。「はかなさ」っていうもので、彼がバラを残してきたことにはらわたをえぐられるような痛みを感じて、そのあとに生き方が変わるわけですから。生き方を変えるような力を持つ。なんかね。

C:今日初めて聞きました、ヘビはなんか月の色をしているみたいなこと書いてましたね。あれどういう意味…、なんか意味あるのかな?って。今まで気づかなかった。

西川:ね。Dさん、どうですか? 今日途中からやけど。まあ随分こう調子が変わってきますよみたいなことを、今日最初からずっと言ってたんやけど。これから読むところで随分変わりますよって。

D:なんか、そうですね、ほんとにヘビとのやりとりっていうのが今までとは全然違うっていうか、そんな感じがしました。

西川:謎って考えてもいいですよね。「人生にはさまざまな問題、課題がある」っていうよりね、「人生の謎とはなんぞや」とか言ってね。

B:もう分からんまま死ぬんでしょうけど。

西川:ねえ。

B:触れてはいけない、見てはいけないもの見ていく、これから見ていくような気がして、ちょっとブルー(笑)。たぶん、このあとだとか全然読み切れてないから、きっと気づいてないことをこれから聞く、聞くというか、ヒントをもらうわけでしょ。

A:「そんな分からんでもいいんやろな」っていう気もしたら、なんかなりそうかな(笑)。

西川:あのね、いや、そうやって人から話聞いたってね、やっぱダメなんですよ。どっかでなんかね、思い知るところがないと。僕はやっぱ、はかないっていうことを知らんから、知ってたんやけど、頭では分かってんねんけど、はかないっていうことを知らないから、さまざまな人と別れてきたよなあと(笑)。いやほんま、それつくづく思いますよ。

A:今、親しい人が、何か死じゃなくてもいいから、急に会えなくなるとかいうことを想定しても、ちょっと近いものを感じるなっていう感じ。

西川:そうですよ。

A:そんなことありえへんですけど、ありうるかもしれない。死じゃなくてもいいから、急にパタッて。

西川:
 急に病気になることもあるしね。ちょうど今、刑務所の文芸作品、審査で読ましてもらってますけど。彼、彼女たちはいろんなこと、いろんな事情があっていろんなことに巻き込まれたりとか、気がついたらね、獄につながれた身になってるわけやけど。

 その中でやっぱり彼らをすごく苦しめるっていうか苛むのは、今いてる刑務所の中での処遇とか、やから無期懲役にしたって、死刑囚からのやつは僕は目に触れてませんけれども、そういうことではなくって、もうなんか適当にやり過ごしていたあの時の、あの一瞬なんですよ。おばあちゃんと一緒に行った食堂のワンシーンやとかが、何度も何度も繰り返し出て来たりするって。ほんとにね、残念なことに人の知恵って、失ってからしか見えてこないというものがあって。

A:たぶんそう。そんな気がします。

西川:ほんとに、ほんとに(笑) 残念ながら。

A:[Cさんに向かって] 大丈夫?

C:頭が悪いんです。

西川:でもこれは知解というか、知識とか知恵で分析して理解するものではないですよ。分からない間は分からないで、別にいいんですよ。別に教科書を読んで、みんなが同じような理解に到達するように指導教授してるわけでもないから。僕は僕の今の状況の中で、『星の王子さま』から受け取ったメッセージを僕の言葉でしゃべってるけれども、そうでない人はそうでない。だって、もうすでに何回も読んでるはずやで、僕、もう17回目ですけど、1回目ににしゃべってることと、今しゃべってること、やっぱ違うもん。全然違う。そういう意味で僕は、この本は「自分は読み続けてる」って自信を持ってるんですけど。

A:せやし今、先生の話が全然分からんくてもいいと思うんですよ。でもなんか、この場にいたことが、何かきっと価値があると思うんで。なんか「ここで分からな」って思うとしんどいと思うんで。

西川:そう。年も違うし、経験も違うしね、さまざまなものが違うから。でも案外ね、何か引っかかってるっていうことがすごいやっぱね、まあ僕、癖かもしれませんけど、「はかなさ。はかなさみたいなことがあったよな」とかって思うと、もうそれが気になって、夜中でもグジグジグジグジ考えてんねん、やっぱりね。

A:そういう人がいるから、なんかこういうふうに周りに影響があるんですね。

西川:ヘビも、ヘビの話、今日あんまりうまくできませんでしたけど、南方熊楠の『十二支考』のヘビのとこ読んでたらね、「これはー」、なんか「うーん」と思うようなことがね、いっぱいあんねんな。でもちょっとそれをみんなに伝えるほどはちゃんと読み切れてないから、あれですけど。
 まあまあ楽しみに、もうこれからが。もうあとちょびっとですけどね。こうもっとポンポンとこう、結構スピードアップして読んだような気もするけれど。

E:『星の王子さま』も残りあと3分の1ぐらいですかね。

A:いつの間にか。

西川:
 またね、「はい、この間ここまでやりました。はい、今日ここから」みたいなんじゃなくて、今日みたいに「前回のところですけれども」って言って、こうなんかね、三歩前進、二歩後退みたいな感じでやっていくかもしれない。結局やっぱりそうやって読んでいかないと、それで最後はやっぱりこの全体を、全体っていうかこれこそね、こうグルグルグルグル回るようなそういう円環構造に『星の王子さま』ってなってるんです。その渦の中に入れるような読書体験がしてみたいなと。

 最初からちょっとずつ読んでいって、「第I章こう、第II章こう」って、「はいおしまい」っていうんじゃなくてね。本はこうなってますけど、最後のページ開けたらまた最初のページがある、みたいな感じで、どんどんどんどんね、脱線的にやっていけたらいいかなと思いますけど。

A:このケア塾じたい、終わりないですよね(笑)。たぶんこのケア塾じたい、終わりまで行ってもまた最初に戻ってほしい、みたいな感じがあるんで。そう、それをしてもらうとしたら光栄なんですけどね。

西川:
 はかないもんですけどね(笑)。

 最後のあたりでヘビと王子が話すシーンとかあるじゃないですか。これヘビ何て言ってるか全然書いてないですけど。これが気になってんねん(笑)。「ヘビは何を言うてんねんやろう? 王子は何て言うてんねんやろう?」 

 サン=テグジュペリは大切なことは書いてないんですよ。でも、書いてないからこそ、読んだ人に応じた何かっていうものが見えてくるようになる。そんなん昔は気にせえへんかったんですよ、全然。昔は気にせえへんかったこと、山ほどあるんですよ。
 だからできるだけいろいろある解説じゃないけど、『星の王子さま』に関する本、俺結構読みましたけど、みんな「あれやこれや」って言い立ててるところよりも、忘れられがちなところ、もうちょっとうんと絞って、うんと絞ってというか、よりなんか研ぎ澄ませて自分を、流し読みしないようにしたいなあと思ってます。

 はい、ありがとうございました。

(第17回終了)

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