3月13日(月)第61回ケア塾茶山のご案内

今回はちょっと寄り道ということで宮沢賢治以外の本を読んでいくことになります。

河野 哲也『「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)

知性と環境をつなぐエコロジカル理論の提唱者として、「わたし」とはなんですか?という問いをめぐって、河野哲也は『エコロジカルな心の哲学 ギブソンの実在論から』(今回取り上げる本とは別のものですが問題領域が重なる著作です)のなかで、海難という情景を想定してこう語っています。

 「ネーゲルは、「どうして人物は無数に存在するのに、この人物がわたしなのだろう」とか、「どうしてわたしはこの特定の人物なのだろう」という問いを立てた。この問いは、何か深刻で実存的な意味があるように思われる。しかしじつは、つぎの想定のように奇妙で滑稽なのである。
 あなたはボートでひとり海を漂っているとしよう。そして、ボートのかかにあつまた救助用発煙筒を空にうち上げた。すると一艘の船が救助に近づいて、あなたをひきあげてくれた。「遭難なさいましたね。大丈夫ですか」と心配そうにたずねる船員にたいし、あなたはこう尋ねかえす。「あの発煙筒はだれでもが使える。しかし、なぜわたしが使うとわたしが遭難したことになるのだろう」。
 発煙筒がだれでも使えるようにできているのは、その利便性(救助器具はだれもが使えなければならない)のためである。そしてそれを使用すると、その行為によって使用者が遭難したことになる。発煙筒の発射は遭難の宣言である。ネーゲルの問いは、この遭難者の質問とおなじである。ネーゲルの客観的自己は、どこかで、空虚な魂が個別の身体に宿るというニュアンスを感じさせるが、それは、汎用的で概念内容をもたない言葉「わたし」がひとりの人物によって使用され、その使用によって使用者自身を指すようになることの反映である。
 もし、この遭難者が救助にきた船員にたいして、真剣に「なぜわたしが遭難したことになるのだろう」という質問をしたとすれば、それは何を意味するだろうか。ふたつの可能性がある。ひとつの可能性は、そのひとが、発煙筒のシグナルが何のためにあるのか、その意味を知らない場合である。そのひとはただいたずらにシグナルを打ち上げ、救助者に「あなたは遭難なさいましたね」と言われたのでびっくりしたのである。そうでないとすれば、ふたつめの可能性として、その質問者は自己認識にかかわるある種の病理をかかえているかもしれない。遭難者は発煙筒が何を意味するかは知っていたが、それを発射したのが自分であると認識できないのである。すなわち自分の行為を自分自身に帰属させることができず、その行為を自分でしたという実感をもてない場合である。それで、そのひとは救助者にたいして、どうして何もしていないのに自分が遭難したことになるのか、問いただしているのである」 

 河野 哲也『エコロジカルな心の哲学 ギブソンの実在論から』2003年,勁草書房,pp. 220-221.



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