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なぜ学校を創るの?①

ここまで半年間、色んな場所で「ここのね自由な学校」の広報をしてきたけれど、「そもそもなんで学校を創ろうとしているの?」と思った人も多いのではないだろうか。そこで、この記事では、なぜ私(スタッフななえ)が学校を創ろうと思ったのかについて書いていきたいと思う。

かなり長くなるので、「子ども時代~育休をとる前まで」「育休時代~学校現場に復帰して退職するまで」「退職してから、ここのね自由な学校ができるまで」の三部構成で書いていきたい。

学校が大好きな子ども時代。

私自身、小学校、中学校、高校、大学と進学する中で、不登校を経験していない。むしろ、学校が大好きだった。教師になろうと思ったのは、中学生の時、部活の顧問の先生が本当に毎日楽しそうに私たちと笑っていて、大人になってもこんな風に楽しく働けたらいいなと思ったのがきっかけだった。大学で教育学を専攻し、先輩たちが学習会サークルを自分たちで立ち上げて学んでいく姿に感銘を受けた。先生がいなくても、自分たちで読みたい本を選んで集まって読んだり、学びたい施設に足を運んだり…。高校や大学受験のときのような受動的な学びではなく、”主体的に学ぶことの楽しさ・奥深さ”をそこで初めて実感した。学びって、本当はこんなにも楽しいものなんだ!!という初めての貴重な経験だった。また、教育学を学ぶなかで、「教育とは何なのだろう」「学校とはどうあるべきなのか」など、物事について深く考えることを学んだ。

妹の不登校。

私が大学生の時、6つ下の妹が高校一年生で、ある日突然不登校になった。小学校高学年から中学校まで、あまり友だちと上手くいっていなかった様子だった妹は、高校一年生のある日、学校を飛び出し、その日以来全く高校に行けなくなった。その後、別の通信制の高校に通い、高卒認定試験を受けて大学に行ったが、長い間人間関係で苦しんでいた。幼稚園の時から本を読むのが好きだった妹は、家でも学校の休み時間にも本を読んでいた。「子どもは外でみんなと遊ぶもの」という子ども像を思っていた親は、その様子を見て心配していたという。学校の先生も「休み時間も一人で本を読んでいて心配だ」と親に連絡していた。妹は、自分の好きなことが思うようにできない学校時代を過ごし、どんどん自分に自信が持てなくなっていった。今では、自分に合った職業に出会い、生き生きと暮らしている妹。「こんな学校を創りたいんだ」と私が初めて話したとき、妹は「すごく嬉しい。私のように教室で辛い思いをしている子どもはたくさんいると思う。」と涙を流して喜んでくれた。この妹の言葉は、今でも学校を創りたいと思う原点になっている。

公立の中学校で働いて思ったこと。

大学を卒業してすぐに勤務した中学校では、中学一年生の担任と女子バドミントン部の顧問を経験した。学校はとても「落ち着いていた」。3年前には、とんでもなく荒れていたそうで、生徒指導担当の先生が5人異動してきた学校は「落ち着き」を取り戻していた。靴下の色や長さ、靴の色、髪が肩につきそうになったら縊るなど、厳しい校則が並び、無言清掃、「立ち止まって挨拶」が徹底されている学校だった。ロボットのように、廊下で「キュッキュッ!」と立ち止まりながら挨拶をする生徒の光景は異様だった。落ち着いて見える学校だったが、不登校の数は市内で一番多く、陰湿ないじめも後を絶たなかった。せめて、自分の学級の中ではのびのびと過ごしてほしい。そんな思いで学級通信の名前を『居場所』にした。同僚の先生たちから、「先生のクラスの子どもたちは、子どもらしくて素直でいいね~」そんな風に言われたことが嬉しかった。学校に暗黙の了解で存在する規則や教師の権威が子どもたちを苦しめているのではないかと感じる一年間だった。

結婚して大分へ。海の見える小学校の先生になる。

中学校で働いたことで、小学校で働くことにすごく興味が出た。小学校で子どもたちがどんなふうに育っているのかを知りたいと思い、小学校で働くことを希望した。海の見える学校で、14人の5年生を担任した。全校生徒100人規模の学校だったので、ずっと同じクラスで育ってきた子どもたち。とても元気がよく、楽しくて刺激的な毎日だった。その中で気になったことは、子どもたちの固定した人間関係だった。子どもたちと出逢ってすぐに気づいた、いじめ。強い立場の子どもと弱い立場の子どもが固定化し、ずっとその関係が変わらずに来ていることを感じた。そこで、学級通信の名前を『てとて』に決めた。一人ひとり得意も苦手も色々あって、デコボコがあってあたりまえ。できないところは手をとり合って、できるところは分け合って。これからもずっとそんな仲間であってほしい。そんな思いを込めた。個性豊かな子どもたちが、お互いの良さを認め合えたことで、最高のパワーを発揮していた。この子たちと出逢って、「小学校の先生になろう」と決めた。教員採用試験を受けるため、一度臨時講師を辞めて勉強を始めた。

教員採用試験合格。理想の学校と出逢う。

4月から、東京アカデミーに通いながら勉強詰めの毎日。一次試験、二次試験と合格し、三次試験を受け終わった夏の終わり。「9月から臨時講師で働いてくれないか」という電話があった。10月から海外に短期で留学したいと考えていた私は、一度は断った。でも、「人が足りない」という言葉に押され、引き受けることになった。そこは全校30名の学校で、複式学級の4・5年生の担任だった。そこでの子どもたちとの日々は、たったの7カ月である。でも、私にとってこの7カ月の子どもたちとの時間が、理想の学校像をつくったのだと思っている。子どもたちがとても生き生きしていた。先生たちの愛情はもちろん、地域の大人たちの愛情をめいっぱいに受けて、毎日とにかく楽しそうに学んでいた。学校は相変わらず忙しかったが、先生たちは子どもたちとゆったりと関わり、授業の中にもいい意味で思い切り遊ぶ時間を確保してあった。定年退職を間近に控えた「梅ちゃん」先生は、いつも学校を裸足で歩き、「梅ちゃん梅ちゃん」と子どもたちに慕われていた。温かくて熱意にあふれる素敵な先生だった。こんな先生になりたいと思った。
30人しかいない学校で、上級生は下級生の面倒をよく見て優しかった。子どもたちどうしがとても仲が良くて、いつも学校は温かい雰囲気に包まれていた。
特に印象的だったのは、運動会の団長の涙だ。赤組が負けて、最後に団長のあいさつがあった。「赤組は、負けたけど………」そう言って遠くを見つめながら、涙がすぅーっと頬を伝った。いつもひょうきんで人を笑わせてばかりの優しい男の子だった。その涙を皮切りにみんな泣いて…とても心に残る運動会だった。採用試験合格したことを学級通信の隅で報告したら、おうちの方たちがサプライズで花束を買ってきてくれた。この学校の先生たち、そして子どもたちの様子をいつまでも覚えていよう、と心に誓った。

初任校は、大規模校へ。

初任は、全校児童1000人規模の大規模校に採用された。全校30人の学校から、小学4年生37人の担任へ。目が回るような忙しさの中で、学年部の先生たちに恵まれ、大変なことも多かったが充実した日々を過ごしていた。初めて子どもたちと出逢ったとき、「反応が薄いな。元気がないな~。」という印象だった。
心の中に、太陽のように熱い気持ちを持ってほしいという願いを込めて、学級通信は『太陽』に決めた。松岡修造なみの熱さで(笑)子どもたちと関わり、子どもたちもそれに答えてくれるようにパワフルになり、笑顔いっぱいで楽しい一年が過ごせたと思う。

とはいえ、そのころ学校はかなり荒れていて、学級崩壊もいつどこで起きてもおかしくない状態だった。大規模校に勤務して感じたことは、学校の窮屈さだった。1000人も子どもがいると、休み時間は遊具の取り合いで、運動場の人口密度もめちゃくちゃ高かった。途中で妊娠した私は、絶対に休み時間は運動場に出たらいけないと注意されるほど、ぎゅうぎゅう詰めで子どもたちが遊んでいた。また、前任校のように子どもたちをのびのび授業の合間に遊ばせたいと思っても、学年にクラスが5つあると、自分のクラスだけ遊ばせるのは困難だった。そこで学級のお楽しみ会のときには、あたかも図書館に行くようなふりをして、学級の子どもたちと学校の隅の使われていない部屋に移動し、そこで思い切り遊ばせていた。汗だくでじゃんけん列車をするみんなの姿が今でも目に焼き付いている。もっと子どもたちをのびのびと学べるようにしていきたいのに…もどかしさは積もっていった。子どもたちの荒れの原因の一つは、この学校の窮屈さから来ているのだろうと感じた。

妊娠したとき、子どもたちに「大事な話がある。この学級にまた一人子どもが増えました。」と報告した。数日前に転校生を迎えたばかりの子どもたちは、「ええええ!!また転校生がきたの!?やったー!!!」と大喜び。「実はもうこの教室にいる」と告げると、みんな大興奮で教室中を探し回った。でも、どこにも転校生は見当たらない。「あー!!わかった!!」そう言って、私に耳打ちしてきた子が、小声で「…小人でしょ?」と嬉しそうに言ったときの愛おしさは一生忘れない…。勘のいい女の子が「わかったー!!」と言った。みんな「わかったわかった!!」の大合唱。「じゃあ、せーので言おうか!」と私。「せーの!!」みんな「先生のあかちゃーーーん!!」「あたりーーー!!」「おめでとうーーーー!!!!!」みんなが心から喜んでくれたこと、今思い出しても泣けてくるなぁ。本当に可愛い子たち。それからも、みんな私の身体を気遣ってくれた。高いところのものをとろうとしていたら、変わってくれたり、叱ってくれたり…。子どもたちは、本当に優しい。

後ろ髪引かれながら、「誰か代わりに産んでくれー!」と言いながら、産休育休に入った。学校で働くことが楽しくて楽しくて仕方なかった。

《第一部、完。》

第二部「育休時代~学校現場に復帰して退職するまで」へ続く…。(我ながら長い。笑)

最後まで読んでくださりありがとうございます!!

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