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なぜ学校を創るの?③

第一部、第二部を読んでくださった方々、ありがとうございます。第三部は、退職まで書けたらいいな…と思います。(←弱気(笑))

4年ぶりの学校復帰。

いよいよ、学校復帰。オルタナティブスクールを半年間見て回った私の気持ちは複雑だった。今すぐにでも学校を創りたいという気持ちと、もう一度学校現場で働きたいという気持ちが半々。同じく小学校の先生である夫は、「働きたい!!」と燃えたぎる私の気持ちを応援してくれ、「思う存分働きよー。」と、一年間育休を取ることを決めてくれた。1歳4カ月だった次男ともうすぐ4歳の長男とのパパの育休ライフが始まった。

夫が慣れない育児・家事にひーひー言っている間、私はわくわくしながら、久しぶりの学校で働いていた。6人の2年生の担任。毎日が本当に楽しくて、子どもたちが可愛くて。やっぱり、学校っていいなぁとしみじみしていた。4月のお見知り遠足。感受性豊かで自分の世界を持っている女の子が、遠足から学校に帰る途中に話しかけてきた。「あっ、先生!黄色いちょうちょだ!このお花も可愛いね。」私は嬉しくて「わぁーほんとだね。可愛いねぇ。」と、思わず立ち止まって話した。…列からはみ出てしまった。その子は、他の子から「ちゃんと並んで!!」と責められ、私も他の先生に「遊びと勉強はわけなきゃだめだよ。」と注意を受けた。学校では、集団行動が重視される。列から、枠からはみ出ることは「迷惑行為」になってしまうのだ。それは、今の学校のシステムの中では、しかたのないこと。だけど、心の中にもやもやが残るできごとだった。

子どもの「やりたい!」を大切に。

子どもたちの中からあふれ出る「やりたい!」という気持ちを何よりも大切にしよう。そう決めて、できるだけ何でも子どもたちと一緒に決めるようにしていた。すると、子どもたちから「先生、もっとこうしたらどう?」「こんな風にしたい!」とどんどん意見が出るようになった。秋に生活科の学習で取り組んだ「秋のイロトリドリ大作戦」では、学校におうちの方を呼んで、お祭りをした。6人の子どもたちは、「ネコカフェ」で栗やかぼすジュースをお客さんにふるまったり、自作の本(何冊も書いていた)を読んでもらったり、マッサージ屋さんをしたり、釣りやボードゲームを企画したり、ビニールで作った洋服でファッションショーをしたり…。二年生6人のアイディアで、どんどんお祭りを盛り上げていった。まさに、子どもの「好きなこと」「楽しいこと」に向かうパワーおそるべし!!であった。

退職を決める。

4月には、半々だった気持ちが、夏、秋と季節を巡るうちに、退職へと気持ちが動いていった。教室で子どもたちと関わるのは、とても楽しかったし、やりがいもあった。しかし、あたりまえだが、学校では楽しいことばかりやっていられない。「教師の多忙化」は、今社会問題になっていて、「働き方改革」が声高に叫ばれている。しかし、現場では次々に「やらなければならないこと」が押し寄せてくるのだ。4月に全国一斉学力調査が行われるため、その前後はテスト対策に追われていた。過去問を解かせたり、宿題を多めに出したりと、子どもたちが「したい」と思う前にとにかく「させる」ことが学校現場には年々増えているように感じた。「学力向上」のために、放課後に「スキルタイム」の時間が増えて、子どもたちにプリント学習をさせなければならなくなった。子どもたちは、「えー!もう帰りたい。遊びたいよー。」と嘆いていた。学校の行事に追われ、先生たちだけでなく、子どもたちも多忙化している。せめて休み時間や放課後の時間は、自由にめいっぱい遊んでほしい。そう思っていた私は、その「スキルタイム」を何とかこそこそ短くしようとしていた。でも、それはわずかな抵抗で、学校で決められたことに教師である私一人が従わないこと、学校で決められたことを変えることは、私には難しかった。「退職しよう。そして、学校の外でがんばろう。」そう決めて、12月に退職届を出した。

全国の先生たちに会う。

2月。「秋のイロトリドリ大作戦」の取り組みをまとめたレポートが教育研究の「特別活動部会」で県の代表に選ばれ、静岡県で発表することになった。学校で働くことに何も未練はなく、退職を心に決めていた私は、「全国の先生たちと議論するなんて楽しみだな~。」と呑気にわくわくしていた。当日になり、北海道から九州までの全国各地の先生たちと議論をした。色んな方言が混ざり合い、改めて全国で子どもたちと一生懸命関わっている先生たちがいることを実感した。20代から50代まで、年齢も立場も様々だった。

オブザーバーの席から、力強く発言する先生がいた。「学校は、『能力開発工場』じゃない、『子どもたちの生活の場』なんだ」。神奈川県で小学校の先生をしている40代の先生だった。「今、学校は『能力開発工場』化している。『できない』ことは、『だめなこと』『できるようにしないといけないこと』という暗黙の了解がある。でも、そもそも、できないことはそんなにいけないことなのか。」私は、その先生の発言にくぎ付けになった。「学校は”楽しい”だけでいいんだ。」その先生は言った。「”楽しい”ということの文化性をバカにしちゃいけない。」子どもたちが、「楽しい」「やりたい」と思うことから、学びが始まる。そこを一番に大事にしたいと思っていた私は、その先生の発言がとても心強かった。

夜、神奈川県の湘南の先生仲間で飲み会があるからと誘われて、一人でその飲み会に参加した。そこには、湘南の仲間の他にも、広島や熊本、三重から参加している障がいをもつ人たちも参加していた。「学校が能力主義的になると、一番に分けられるのは『障がい者』だ。もっと教室を多様で寛容な場所、”楽しい”場所にしないと、みんなが生きづらくなる。」全国の学校がどんどん多忙化、能力主義化する中で、湘南の先生たちはその流れに必死で抵抗していた。湘南では、子どもたちの「能力」が評価される通知表は、小学1年生の一学期は、学んだ内容のみが載っていて「よくできる」「できる」「もうすこし」という評価をつけない学校もある。そして、三段階評価から、6年生まで「できる」「もうすこし」の二段階評価にしようと奮闘している先生たちもいた。それは、「子どもたちの緩やかな成長、発達をゆっくりと見守ろう」という学校側の姿勢だ。子どもたちが人と比べられたり、大人からの「評価のまなざし」を受けたりするのっを、もっと緩めていこう。子どもたちへの温かいまなざしを感じた。

湘南の先生たちに、退職届を出したことを話した。「辞めたくなる気持ちがわかる」という共感もあったが、「それは、所詮お金持ちのための学校でしょ?」という厳しい言葉もあった。どこかでそう言われることを恐れていたと思う。その先生は言った。「学校現場で色んなことを良くしようとすると、本当に壁が多い。声を出しても声を出しても、負け続けるんだよ。でも、その負け方が大事なんじゃないの?」その言葉を聞いて、私は自分の甘さを感じた。「自分は学校で働きながら、本当に戦ってきたのか?言いたいことを、変えたいことをちゃんと発言してきたのか?」自問自答を繰り返した。そして、何よりそこにいる先生たちがとてもかっこよかった。「障がいがあろうとなかろうと、みんなで混ざり合って支え合って生きていこうや!そんな学校、そんな社会をつくろうや!」熱くて、優しくて、ユーモアがあって、泥くさくて、でもすごくすごくカッコいい先生たちだった。

退職届、撤回。

静岡県から帰る飛行機の中、私の気持ちは複雑だった。あんなに悩んで悩んで決めた退職だったのに、こんなに心が揺れ動くなんて。しかももう2月。そもそも退職届を撤回できるのか?ただ、今旅行ハイになっているだけなのではないか。色々考えながらも次の日、学校に行った。教室に入った瞬間、久しぶりに会った子どもたちがめちゃくちゃ喜んでくれた。「みんな先生に会いたかったんだよ♡」その瞬間、やっぱり現場に残ろうと思った。すぐに校長室に行き、もじもじする私。「あのー、大変申し上げにくいのですが…退職を撤回するのって、まだ間に合いますか?」優しくて大好きな校長先生。すぐに教育委員会に電話してくれて、確認がとれ、退職を撤回することができた。

今、これを書きながら、また申し訳ない気持ちがあふれてくる。あのとき、現場の先生たちはとても喜んでくれた。退職を撤回したことを告げると、「夢じゃないかな?」と自分のことのように喜んでくれる同僚の先生もいた。「もったいないと思ってた。」と言ってくれる先生もいた。自分が自分の思っている以上にまわりに支えられていたことを感じた出来事だった。

《第三部、完》

力尽きました…。(笑)

次も読んでくれると嬉しいです!!(しつこい)

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