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ブルアカの大人と子ども【ネバーランドでつかまえて】

※画像は「© NEXON Games Co., Ltd. & Yostar, Inc.」になります。


ブルーアーカイブの”大人”という言葉は、一般的に使われる意味での大人とはどこか異なった強い重みを持っている。イベント「ネバーランドでつかまえて」のシナリオでは、その違いが端的に表現されていて、とても印象的だった。

簡単にあらすじを。「梅花園」の教官を務めるシュン。自由気ままな園児たちの世話に若干憂鬱気味であった彼女は薬の作用で子ども姿に戻ってしまう。シュンは子ども姿の自分を「シュエリン」と名乗り、子どものように好き勝手振る舞って先生たちを振り回す。責任のある元の状態に戻りたくないと、元に戻ることを頑なに拒むシュンであったが、”大人”である先生が導いて、教官に戻っていく。最終話の題名が「シュンとシュエリン」であり、その話の内容からも、それはある意味で”子ども”のまま元の姿に戻った話と言っても過言ではないだろう。

(子どもに戻した犯人はシナリオライターに一票)

シナリオの前半は、子ども姿になったシュンが好き勝手振る舞い、挙句の果てには先生やサヤを警察沙汰に巻き込んで、大人(先生)の当日の予定をおじゃんにさせる。後半、元の姿に戻れる薬を飲むことを頑なに拒むシュンと先生が対話する。シュンは言う。

「わざわざあの身体に戻りたいなんて思いません!」
「……それに、みんな責任ばっかり押し付けてきて……」
「私は、疲れました。」
「子どもたちの面倒を見ていても、辛いことばっかりで……」
「今日一日、子どもみたいに好き勝手に過ごしてみて……すっごく楽でした」
「責任を負うというのは、すっごく大変です。疲れます。しんどいです。」「先生も今日一日私の面倒を見て、疲れましたよね?」

シュンの言葉の裏から読み取れる内容。それは「子どもの身勝手な行動は大人に面倒をかける。だから世話をする側としては迷惑をかけないように立ち振る舞ってくれるのが一番楽だ」。多くの人が同意するだろう。ただ多くの人は、この感覚をもって子どもに接すると、子どもに対してどのような帰結を引き起こすのかを知らない。子どもはとても敏感であり、「迷惑をかけないように立ち振る舞」うことを大人からの要求として受け取ってしまう。

少し別の例で示そう。親や周りから「勉強しろ」と言われると、本人の(勉強の)やる気が削がれることが往々にある。それはなぜかというと「勉強する」という行為に”周りから言われたからやる”という意味が付与されてしまうから。勉強をすると要求に従っているということになってしまう。それゆえにこの場合は反発心が引き起こされる。

”子ども”は自分のやりたいままに行動する。そこに「迷惑をかけないように立ち振る舞」うことを大人からの要求として受け取ってしまうと、やりたいままにやることは「周りに迷惑をかける。だから止めろ」という意味が、自身のやりたいことに対して、付与されてしまう。

この意味の付与は周りにいる人からなされた。この意味の付与は、周りにいる彼らを通して、社会や世間、他人などを含めた<他者>との関わり合い方とも言える。

私たちの、やりたいままに行動したいという衝動は、<他者>に迷惑をかけないようにするために、<他者>から犠牲にされることを強要される。

シュエリンの「嫌いです」はこのような犠牲への抵抗なのだ。またこの<他者>からの要求の色付けのことを”責任”と呼んでいると言ってよいだろう。

多くの人は、自分のやりたいままに行動することを抑え(欲動の断念)、他人に迷惑をかけないようにする大人になっていく。この大人が一般的な意味での大人だろう。この大人は本来自分のやりたいはずの行動に、どこか不快感を感じるようになってしまっている。またこの大人は他人にも「迷惑をかけないように立ち振る舞」うことを要求してしまう、”責任”を押し付ける主体になるだろう。

しかし、ブルアカの”大人”である先生は違う。「迷惑をかけないように立ち振る舞」うことはシュンに感じさせない(要求しない)。代わりに、子どもの面倒を見ることは素直に自分自身のやりたいことではないか、とシュンに問いかける。

シュン「責任を負うというのは、すっごく大変です。疲れます。しんどいです。先生も今日一日私の面倒を見て、疲れましたよね?」
先生「疲れてないと言ったら噓だけど、それ以上に嬉しかったよ。」
シュン「なにが嬉しかったって言うんですか……!?」
先生「シュンの笑顔を見られたことが。」
(中略)
先生「……それは、シュンもよく知ってるでしょう?子供たちの純粋な笑顔が、どれだけかけがえのないものなのか」

また園児たちの様子を見せることで、漠然とした<他者>からの要求ではなく、園児たちからシュンが必要とされていることを見せる。

それ(子供たちの笑顔に対する彼女自身の思い)を思い出したシュンは、主体的に自分のやりたいこととして教官に戻っていく。そこに”責任”という<他者>からの強要の色はない。

子どもというのは単に大人に迷惑をかける存在ではなく、”子ども”とは自分のやりたいことに正直な存在である。

ブルアカの”大人”は「迷惑をかけないように立ち振る舞」うことは要求せず、「自分のやりたいことに正直」であること、つまりある意味で”子ども”のままであることを要求する。また<他者>に「迷惑をかけないように」と強要されて大人になってしまった生徒を”子ども”に戻す、そのような存在を指すとも言えるだろう。”子ども”のままを導く人と言える。ネバーランドで捕まえたのだ。

シュン(教官)に戻った後

最終話「シュンとシュエリン」

シュンであると同時に、シュエリンであるということ


多くの人は”責任”を押し付けられ、また別の人に押し付けてしまう大人になる。”子ども”のままで、”大人”になること。それは簡単なようでいて、実は難しいことだったりする。

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