見出し画像

島田裕巳氏の「除夜の鐘は昭和になって広まった」説は本当か?

1.除夜の鐘は新しい「しきたり」?

近年、年末になると「除夜の鐘は昭和になって広まった新しいしきたりである」という説が流れてくるようになった。

出所は宗教社会学者の島田裕巳氏で、SNS等でも発信しているが、まとまった内容は氏の著作『神社で拍手を打つな!』の中にある。

島田氏の主張によれば、除夜の鐘は古くからの「しきたり」と思われている。しかし、俳句の季語として歳時記に収録されるのは1933年の『俳諧歳時記』(山本三生)と翌年の『新歳時記』からで、実は意外に新しいという。

一方で、江戸時代にも除夜の鐘を詠んだ句がある。島田氏は、除夜の鐘は禅宗寺院の行われていたものであり、他宗派には広がっていなかった、とする。その根拠として、大正13年『東京朝日新聞』の寛永寺と浅草寺の鐘撞きの老人に対するインタビュー記事が挙げられる。

寛永寺と浅草寺の老鐘撞きは、「除夜の鐘を撞くか?」という記者の質問に対し、どちらも「時の鐘を撞いているから、除夜の鐘は撞かない」と答える。島田氏はこれについて、寛永寺も浅草寺も天台宗の寺院なので(ただし浅草寺は第二次大戦後に独立して聖観音宗となった)、禅宗でやっていた除夜の鐘は撞かなかったのだ、とする。

そして、1927年(昭和2年)12月31日に放送されたラジオ番組『除夜の鐘』(現在も放送されている『ゆく年くる年』の前身)がきっかけとなり、全国各宗派の寺院に広がっていったという。

しかし、これは本当なのであろうか。検証してみたい。

2.昭和2年以前の除夜の鐘

検証方法は簡単である。島田氏が「除夜の鐘が広まるきっかけになった」という昭和2年大晦日のラジオ放送以前の除夜の鐘についての資料を調べればよい。

そこで、国会図書館デジタルコレクションで「除夜」「大晦日」「百八の鐘」「年中行事」で検索し、そこから除夜の鐘に関する記述を取り出してみた。

以下、年代順に並べてみる。

明治期の除夜の鐘に関する資料

資料1.『日本の人』物集高見(明治32年)

三十一日の夜は、除夜とて、一年の終の夜なれば、神棚霊屋には、神酒神饌を供へ、家族一堂にて、年を重ぬる歳飲を食ひ、夜半すぐるまでは起居て、一年の間にありし事どもを語りてあり。十二時を過ぐる程よりは、此処彼処の寺々に百八の鐘といふを撞鳴して、歳の既に暮たるを報すれば、九州わたりの市中には、福大黒と唱へて、蛭子、大黒の絵を売りありく者あり。鐘の数、漸く積れば、八声の鶏鳴きかはし、紫だちたる雲、東天に棚引きて、新年の日輪かゞやきいづ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762808/22

物集高見は大分県出身の国学者で帝国大学の教授であった。九州辺りの市中では、除夜の鐘が鳴ると、「福大福」と唱えて蛭子・大黒の絵を売り歩くものがいたという。当時は「除夜の鐘」を「百八の鐘」と呼ぶことも多かったようだ。

資料2.『百八の鐘』高浜虚子(明治33年)

上野の百八の鐘が鳴る間歩いて来ようと内を出た。
お茶の水を渡って、順天堂の前を通る時ゴーンと一つ打った。余はヨイショと一歩高く地を踏んで少し仰向いて星のきらきらする空を見上げて明治三十二年といふ老人が大地中に葬むられ、明治卅三年といふ青年が大空から降りて来るこの瞬間の光景を見ようと努めた。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131543/52

資料3.『心扉録』斎藤弔花(明治38年)

「除夜の遊び」

われを載せて、乾坤幾たびか回りめぐりて、さて、今宵一夜を剰して、寺の鐘一つ一つに限られ行くと思へば、旧知も岐路に別れの袂惜しまるゝ習とて、一村の若ものどもは、酒ある家につどひて、爐をめぐり、娘どもは、親しき家に集まりて、互みに髪美しう鏡台の前に坐せり。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889119/55

「除夜の鐘」「百八の鐘」とは言っていないが、内容から考えて除夜の鐘のこととして間違いなかろう。

資料4.『時代小品文』小林鶯里(明治39年)

「除夜」

賃餅の蒸籠に湯気だちて、あら玉の年の飾り物のくさぐさを、市にならべひさぐはいと賑はしく、懸乞の鬼の徘徊も、除夜の鐘の音にくづれて此年もはやふる年となり終りぬ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906967/94

大正・昭和期の除夜の鐘に関する資料

資料5.『浄瑠璃の女』武田寿(大正元年)

「除夜」

ツイ出遅れて、奥には母親とお染とが、思ひは互ひに二筋川、ハラハラしながら気を揉んで立聞いてゐる。
慌し気に逝く年を、名残を惜しんで鐘が鳴る、除夜の鐘が鳴る-

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906967/94

資料6.『現代小品集』小林鶯里(大正2年)

「除夜」

人出も一層多い銀座通りの雑踏は云はずもがな、其他の大通の何れも押返すばかり、イルミネーション、軒並みの提灯に各商の景気をつける。夜は注連飾の負けた負けての声にふけて、流石にうそ寒くなつたが、人脚はいつかな減らぬ。山の手あたりの裏町までも掛乞の手提灯駈け違ひ、滿市様々の光に彩られ人のどよみの内に百八の鐘の第一声を聞いた。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/912089/151

資料7.『冷汗記』大町桂月(大正5年)

「元旦と大晦日」

元日と大晦日との間は一年、即ち十二月、即ち三百六十五日、遠いと云へば、遠いやうなるが、これ一方の見方也。他の一方より見れば、元日の前日は、即ち大晦日なるに非ずや。なほ厳密に云へば、元日と大晦日の界は、百八煩悩の鐘が鳴り出すか、出さぬかの、ほんの一瞬時也。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936248/164

資料8.『目白生活』滝本種子(大正5年)

「除夜の鐘」

十時十一時と夜は段々にふけて、心のあたりも澄みわたり静まりわたる。
その中に上野の杜から除夜の鐘がゴーン、余韻を遠く送る多くの人がこの鐘をどんな心で聞くだろうか。何やら涙ぐましい。
ハラハラと露がこぼれる……。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941375/125

資料9.『学生ロマンス』垣本健三郎(大正6年)

「除夜の鐘」

「実はツイした出来心なのだが、君の監督している男だのに、済まんことをした。除夜の鐘が耳にツイて寝られないだらう。で…」

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906965/25

資料10.『旅人』有本芳水(大正6年)

「除夜」
父も寝ぬ
母も寝ぬ。
しかれども
われは眠らず。
指折りて
わが年数ふ。
かくて夜は
更け行くままに。
まどろみて
眠るとすれば。
百八の
ぞ聞ゆる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/915030/117

資料11.『法悦の下に』藤田東撰(大正11年)

「百八の鐘」

精確にをつかうと、前の日に時計を清海局のと合せた。東遵は元朝の寒風飄々の野天で幾釣瓶かの若水をかぶツた。そして血を搾るやうな声で題目を唱えながらつき居る。(中略)又私自身としての新しい響。何故なら奇態なことに、寺では今まで百八をつかなんだといふ。勿体ない! 折角こんなに大きな鐘が下ツているのに、石のやうに黙らせておかうとは! それにこの土地が旧の正月を使つてゐて新にはホンの申訳の松飾だけの、内容のない正月だけ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969451/63

この文章は大正9年に書かれている。作者の藤田東撰は千葉県勝浦市の日蓮宗本山・妙覚寺の住職。妙覚寺ではこの年まで除夜の鐘を撞いていなかったようだが、藤田東撰はこれは「奇態なこと」と言っている。つまり、日蓮宗でも除夜の鐘を撞くのが当たり前だったことを示している。

また、この文章の後段には、ある檀家の婦人が夜中の鐘の音を聞いて、最初は「狂人でもうつのか知らん」と思ったが、長らく順々に続くので「これは百八の鐘だ」と思って床の中で手を合わせたという話がある。地元で除夜の鐘が撞かれてなくても除夜の鐘のことは知っており、ありがたいものだと認識していたことがわかる。

「除夜の鐘は禅宗寺院のもの」という島田氏の論を明確に否定する資料と言えよう。

資料12.『遠望』前田晁(大正12年)

「除夜」

其の晩わたし達が集つたのはかなりもう遅かつた。それ故一句二句と纏めて行つて、漸く一二首出来た頃には早くも除夜の鐘が鳴り出した。ごうん、ごうんと物悲しげに鳴り出した。ふだんは撞いた事もない方々の寺の鐘が、あちらでもこちらでも鳴り出した。
と、それまでは除夜とはいつても、たゞの冬の夜にしか過ぎなかつたが、始めて本当に除夜らしくなつて来た。一と撞きの鐘の音が消える毎に、何分かの時間が消えて行く。さう思ふと、歳晩の感じも始めてはつきりと生れて来た(であらうと想像する)。兎に角渋茶を啜つてまた苦吟にかゝつたさまが目の前に浮んで来る。さうしてゐるうち、漸く二首か三首か出来たであらう。丁度其の頃になつて百八の鐘の音もひたと止んだであらう。あたりが俄にしいんとなつて来る。寒さがしみじみと身に染みて来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978043/138

大正12年の文章だが、冒頭に20年以上前の思い出と書かれているので、明治30年代のことである。

ここで注目すべきは、「それまでは除夜とはいつても、たゞの冬の夜にしか過ぎなかつたが、始めて本当に除夜らしくなつて来た」という一文であろう。除夜の鐘が鳴り出して、はじめて除夜(大晦日の夜)らしくなった、というのである。除夜の鐘が大晦日の夜の風物詩として定着していたことを示している。

資料13.『新しき年中行事』小林鶯里(大正13年)

「除夜」

大晦日の夜十二時になると寺々で百八の鐘をつき出す。それは仏教では百八煩悩といつて百八種の煩悩即ち眼、耳、鼻、舌、身、意の六根と色、声、香、味、触、法の六境が各々好、悪、平の不同がありそれによつて十八種の煩悩がおこり、更に楽受、苦受、不楽、不苦受により十八種の煩悩が生じ合せて三十六となる。しかも過去、現在、未来に亘つておこるから百八種になるといふ。この夜寺々で百八の鐘をうつのは之等の煩悩をめざめさせる為にうつといふ。
この鐘の響きが消えて後しばらくすれば、もう東天は開け、新しい年は来るのである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977129/66

タイトルの「新しい年中行事」は「新しく始まった」ではなく「現代の」というような意味で、クリスマスのような新しい行事だけではなく、煤払い・餅つき・厄払いといった伝統行事も取り上げられている。「禅宗寺院の行事」などと書かれていないことに注意。

資料14.『白橋の上に』英美子(大正14年)

「除夜讃美」

夢をゆすって
一斉に、除夜の鐘が鳴り渡る
余韻が重なり重なつて
なんといふ
深い喜悦の曲を
齎すことではないか

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018215/13

資料15.『みどりの眉』杉浦翠子(大正14年)

「除夜の鐘」

大いなる都の除夜のよるふけて寺々鐘をつき初めにけり

天現寺のみてらに鐘をつくならむその寺しらず除夜の鐘きく

遠き寺近き寺より鐘なりて除夜の今宵の時たちゆかむ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016827/87

資料16.『噴泉』竹内逸(大正14年)

「大晦日」

愈々千九百二十四年の大晦日も過ぎようとする。然し大晦日が私或は私の仕事に関係の無いのと同様、明けました元旦も矢張り無関係である。煙草を燻らして午後四時半以後の散歩路を回想してみる。最う黒田君も屹度起きたらう。而て私はその回想を書かうとする。ほつりほつりと書かうとする。ペンを動かす。直ぐ除夜の鐘が鳴る。無論除夜の鐘も私には何等の関係もない。たゞ除夜の鐘諸共世の中は森と静まる。その静けさと元気のいゝ朝とは私に関係がある。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018293/136

竹内逸は京都出身の小説家・評論家。この文章も京都でのことである。「除夜の鐘も私には何等の関係はない」というが、元旦も大晦日も無関係、年始状も回礼も雑煮も廃するという、いわば当時の「意識高い系」の人物であり、逆に除夜の鐘が一般の人にとって大晦日の行事として定着していたことを示している。

資料17.『鈴蘭』後藤長春(大正15年)

除夜の鐘
今鳴る鐘は除夜の鐘
私の胸に泣き沈み
暗いみゆきの谷山へ
消へる寂しい山の国

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913349/96

資料18.『文豪大山桂月』田中貢太郎(大正15年)

「除夜の鐘」

大町家で除夜の鐘を聞くのは、私の年中行事の一つであるが、ある年、もう三時比、一杯きげんでかへつてゐると、鼠坂をあがつて茗荷谷の交番の近くへ往つたところで巡査が来てとがめた。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983286/88

除夜の鐘を聞くのが自分の年中行事だという。1年や2年したからといって、年中行事とは言わないだろう。

資料19.『醴泉のほとり』井上江花(昭和2年)

「除夜の鐘」

「ああ、之れでよい」と私はさも大きな善いことをしたかの如くに満足を表し、附添人二人の伽藍とした広い室内を眴はしたが、時計の針は最早十一時近くで、瀬戸焼の輸出花瓶へ無造作に挿した梅と水仙とは其の花の黄白相映じ、馥郁たる香りを放つて居た。「もうは、さつきから鳴つて居ますね」とむら子が云ふ「なるほど小立野は寺の多い所だからな」と私も除夜の鐘に耳を傾けたのである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035316/71

小立野は金沢城下の寺町の一つで、天徳院や経王寺など多数の寺院がある。この書籍は昭和2年4月の刊行で、問題のラジオ放送より前である。

資料20.『鶯里随筆』小林善八(昭和2年)

「除夜の鐘」

ジリジリとローソクの火の燃ゆる如く、夜にいたる大みそかかな……大みそか大みそか--泣いても笑つても年の瀬は暮れてゆく。人の世のあるものは、歎きの胸に、あるものは喜びの耳に、ひとしく告ぐる除夜百八の鐘は、すべての煩悩を打ち砕けよと響く。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223202/147

これも昭和2年3月の刊行で、問題のラジオ放送より早い。

資料21.『井上剣花坊句集』(昭和10年)

「除夜の鐘」

東京に半分鳴らぬ除夜の鐘

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208757/113

昭和10年に出版された句集だが、「除夜の鐘」は大正12・13年の作。関東大震災直後の大晦日の情景を詠んだものであろう。「東京に半分鳴らぬ」というのは、震災以前は東京中の寺院が除夜の鐘を撞いていたことを示しているだろう。

これだけ挙げれば十分であろう。島田氏が「除夜の鐘が広まるきっかけとなった」というラジオ放送以前から、今と同じように除夜の鐘は撞かれていたのである。

3.何故島田氏は間違えたのか?

では、なぜ島田裕巳氏は、「除夜の鐘は昭和になって広まった」などという間違いをしてしまったのだろうか。

実は、島田氏の説には元ネタがある。資料03.と資料04.の引用元である平山昇氏(神奈川大学准教授)の『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社新書)である。

同書の第4章「競争がもたらしたもの(2)-二年参りの定着」に「除夜の鐘」という一項があり、島田氏が孫引きしている大正13年の寛永寺と浅草寺の鐘つきの老人や作家・画家の淡島寒月へのインタビュー、明治44年の『東京年中行事』の記述などを根拠に、明治・大正の東京では「除夜の鐘をつく、あるいは除夜の鐘の音に耳をすませて感慨深くゆく年をおくるという慣習はさほど盛んでなかったようなのである」とする。

そして、「除夜の鐘が現在のように年越の風物詩として人々の意識のなかに定着していったのは、昭和に入ってラジオが年越番組の目玉として除夜の鐘を大きく取り上げるようになったことが大きかった」という。

ただし、ここで平山氏は慎重を期し、昭和になって「年越の風物詩として人々の意識のなかに定着し」たとする。しかし、島田氏はこれを誤読して「除夜の鐘を撞くしきたりが、ラジオ放送をきっかけとして広がった」と断言してしまったようなのだ。

「宗教学者」の肩書きで文章を書くにしては、あまりにも不用意でリサーチ不足と言わざるを得ない。

なお、平山氏の主張も、上に挙げた昭和2年以前の除夜の鐘に触れた資料を見れば疑問とせざるを得ない。

除夜の鐘は決して「新しいしきたり」などではなく、江戸時代から続く日本の伝統行事である、とするのが適切であろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?