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天才を殺したい

 画像は買いたてホヤホヤで信じられない偏りを発揮して友人に牙を剥いたUNO。

 noteを書く度に、これを全部小説に出来たらどんなに良いだろうと思うけれど、そんな考えの方が烏滸がましいだろうか? といった精神的自傷は癖になってしまっているから、最早剃刀を手首の中に収納しているような錯覚を覚える。ともあれ文章中の自己表現の密度が高い人間を見ると妬ましく感じてしまいます。エンタメ的、スポーツ的な話を書こうとしていると特に。
 こんなものはチラシの裏の書き散らしであるので、ここで使った表現なんかも小説に使いまわしてしまえばよいのでしょうね。そういえば最近はnoteに小説を投げていない。

 皆さんもご存知の通り、2003年生まれの人間は遍くアメリカから発信された毒電波によって発達障害を患っているのだが、こと僕の学科においても2003年生まれというのは可哀想な奴らばかりで、僕もその一員だった。
 ただサイトを作りましたっていう一応は形のある実績と呼ぶには少々はずかしい位の活動を残していたので、時折仕事が舞い込んでくる。今回は学校へ訪れるお偉い様と会話でもしろってことだった。
 僕のコミュニケーション能力というのは、一体どうして下方の一途を辿っている。高校生の、二次創作、同人時代はなんというか、突っ込んでは友達にでもなってやれみたいな熱量があったのだけれど、小説にのめり込むにつれて初対面の人間と会話をするのに怠さを感じてしまっている。

 ちょっと横道。
 最近の発見としては、友達との会話において、二種類の人間がいるのを発見した。緩やかに現実を消化する人間と、スイッチを切り替えるようにして虚構に逃げる人間がいるみたいだ。
 友人に会社なんかの愚痴を吐いたりする人間は、緩やかに現実を消化している。寝息のようにゆっくりと苦しみを紛らわせている。
 一方、僕のように虚構へ逃げる人間は、友達と話すときに愚痴を吐かない。そんなことをするくらいなら現実逃避が大事だからだ。社会に向き合ったら死んでしまう。
 と、自虐的に言ってみたが、僕的には苦しみってのは溜めるもので、一種の財産でもあるから、気軽に開放するのを恐れている……という面もある。

 戻るけど。
 会話と言うのは文字に起こすことが出来るのだから、録音されている環境で人と話すということは文芸活動と言えるのかもしれない。だがまあどうして、上手くいかない。上から目線で傲慢だと思うけれど、話していて意外性の無い人間と会話することに対して喜びを感じなくなってきている。どうか、誰も分からせないではくれまいか。僕の為に。
 そも、喋るってのは、そんなに凄いことなのだろうか。僕たち人間だってセキセイインコと変わらないじゃあないか。なんとなく聞いたことのある話を自分の考えみたいに話しているだけ。みんな大して考えていない。立ち上る会話の塵は吹けば飛ぶような輪郭のない軽々しさ!

 僕の中にはことばが轟轟と燃え盛っていて、世間から苦痛を感じるたびに体中の水分が弾けるような発火をみせる。小学生の頃には既に、僕の脳みそは典型的な言語思考タイプと相成っていて、仮想の友人と頭の中でずっと会話をしているのもあって、みちみちと言の葉が詰まっていた。さっきの会話を頭の中でもう一度、もっと面白く……なんてずっとやっていたのだ。フィクションの中でみられる美しい接続に憧れたのも当然だった。と、今になって思うのだ。

 僕の中にある言葉の炎は、それはそれは暑くって苦しくって。発言によって吐き出してみる。でもそれは煙にしかならなくって、宙に消えて行ってしまう。皆が愚痴を吐いたりするのは、これが気持ち良いからなのだと思う。
 他人に煙を吐きつけたりしたくなるのを、熱いのを我慢して我慢して我慢して、自分の中でずっと捏ね繰り回していると、だんだんと体がどろどろに溶けていく。僕の手から離れて自由になった指先は空中で球体となって、紙面に一滴のシミを作る。

 きっと上手い人は美しいシミを作っているのだ。僕もいよいよ大学三年なんて大人っぽい肩書を得てしまって、小説を上手くならなければって焦りを感じたりする。もちろん僕みたいな浅いレベルで言っても仕方がないのは前提として、小説の試行錯誤ってのにイメージはついているし、実践もしている。
 「天才とは勇気ある才能である」なんて言がある。これには、僕が持っている才能なんて小さじ一杯ほどの物だけれど、それでも尚、プレッシャーを受けてしまう。初めて聞いた時、僕は考えた。勇気……勇気とは何だろう? 芸術における勇気とは一体なんだろうか。
 あくまで僕の中での論だけれど、この言葉は至極、恐ろしいものだ。

 芸術、創作における勇気。それは、一切の言い訳をせず、小手先の虚言に頼らず、自分の才を確かめることではないだろうか。作品において何もぼやかさず、何も釈明せず、自分自身で作り上げることではないだろうか。
 自分はなんら特別でもない普通の人間じゃあないか? といった疑問には、強い防衛機制が働いてしまう。そりゃあ、信じたくもない。芸術をやろうってんだから。これを書いている今でさえ、「それに気が付けているだけ僕はまだ才能がある方だ」なんて逃げ道を隠し持っているのかもしれない。
 ともかく初めてそれに向き合ったときは、冷たい夜のプールに足を漬けるような、不安と恐怖に体が震えた。水面を境にして、自らが死体になっていくような感覚があった。僕は思い切って全身を入れた。初めて、少しだけ、勇気を持った瞬間だった。

 冷たい水の中は、意外と快適であった。才能が無いなら無いでも、創作が出来なくなるわけじゃないって気が付けたからだ。優しく残酷なことに、芸術は誰もが参加することが出来た。
 でも、それじゃ足りない、僕は天才を殺したいのだ。
 そう思っていると、水中の僕に齎されたのは一つの剃刀だった。諦めきれないのなら、血を流しなさい。
 僕は考える。芸術に必要な、もう一つの勇気。運命に身を投げる勇気。上手く書けるであろうと分かっている安全な作品ではなく、上手くいくか分からない、受け入れられるかわからない、新しい反射を持つ作品を。
 冷たいプールの中では、もっと、もっと炎を蓄積しないといけない。剃刀で手首を切り、言葉を燃やす。本当に死んでしまうかもしれない。剃刀で手首を切る、体温が奪われる、剃刀で手首を切る……

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