つまらない人間の分際で面白い話が書けるなどと思い上がるな

 というのは自分に対しての戒めで、つまらない人間の皆さんを悪く言う気は一切ないです。
 つい変なことを言ってしまった。本当に誰かを見下す意図があるとかではなくて、自分のことについての戒めです。
 まぁ、そろそろ攻撃的なことが書きたくなったことを、否定はしないけれど。

 面白さというのは絶対だ。面白いということは、即ち不快感が無い。面白いと、人は喜ぶ。
 面白いなら何をやっても許される。やってはいけないことが何故ダメかというと、不快になる人がいるからだ。悪口を言われた人が不快になったら、それは良くないけれど、面白くて不快にならなければ、悪口を言っても良い。だけど、判別が難しいから、法律が用意されている。
 僕は面白くなりたいなと四六時中おもいながら生きている。だって、宿題は出せないし遅刻もするから、許してもらえた方が嬉しい。
 僕は、差別を無くすのは不可能だと思うけれど、差別の不快感を無くすことなら、完全には難しいけれど、可能だと思う。少なくとも、アカデミー賞を取りたければ映画には必ず身障者の方を一人出しましょうってのが賢いやり方だとは思わない。じゃあ僕も出してよ、脳みそ患ってるから。

 生きていて、突然に選択を迫られることがある。貴方はここでおかしな行動をしますか? YES or NOって。毎日、そういった選択肢が目の前に現れる感覚があるんだ。
 手に持っている缶ジュースの中身を全部捨ててみよう、学校の宿題を燃やしてみよう。こういった提案を無視し続けたら、まともな人間になってしまう気がする。どんどんまともな人間になって、いずれは社会の一部に組み込まれる小さな歯車の一つになってしまう気がする。
 無害で健全、それなりに幸せ。ってのは何度も考えたけれど、アイデンティティを失う恐怖があまりにも大きいから、缶ジュースは捨てたし宿題は燃やした。僕は停滞恐怖症だった。
 缶ジュースの中身を捨てても、いいことなんて一つもないし、もったいないし、やらない方が良いにきまってる。でも、ここでトチ狂えないと、つまらない人間になってしまうのではないかと思うと怖くて、何の罪もないアスファルト舗装を汚してしまった。

 文豪の奇行が面白いっていうのを見たことがあるけど、やっぱりなって思った。面白いことを書く人ってのは、本人も面白い。そもそも、作品というのは自己表現の発露であって、作者と作品を切り離そうなんて言っている人は芸術に対する理解が浅い。
 どこにでもいる人間の自己発露なんて何が面白いのだろう、そう思うと焦りが湧いてきて、形だけでも狂ってしまおうかと踊り散らかして、憧れに過ぎなかったのに、やがて本当に狂ってしまう。
 そんな上手に狂えた自分をみて、自己満足に浸って、文字を打ち込み、恍惚とすることが、芸術的だと妄信している。
 或いは、まともな人間のつまらなさというのに、辟易してしまったのかもしれない。
 そういえば、チェンソーマンの岸部隊長は芸術家的だなって思う。狂わないとやってられないから酒で頭のネジを緩めている。彼もまた、まともを恐れている。
  あっ、TLで性癖の話してる、ぼくは美少年が風邪を引いているところを見ると興奮するよ。
 ああ、こういうのがさ、書かないとまともになっちゃってダメかなって。

 

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