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やっと言語化できたもの

今までずっと設計課題の際、思っていて案として実現してはいるけどそれらを説明しようとすると中々言葉にできないことがあった。それが大半だった。

最近、『妹島和世+西沢立衛 読本ー2013』を読んでそれが一部解決した。

それは「経験的」という言葉だ。
フランスの北部に設計されたルーブル美術館の分館、ルーブル・ランスのインタビューで言われていた。

今まで建築の形態の話になると、形態のかっこよさやユニークさをあまり求めてこなかった所がある。
それは形態に寄らず知性の高い建築をつくりたいと思っていたからだ。
形態が~、この形態によって〜、など形態先行による空間の効果等は、初めてみる人からするととても目を引くし個性が出せる部分でもある。
しかしそれ以上の効果があるとは私は思わない。形態↔️空間の1対1しか適応力がないからだ(それ以上のことをなし得ている建築は多々あるが、あくまで自分自身が設計できる範囲でのこと)。

そこで私は菊竹清訓の『代謝建築論 か・かた・かたち』の考え方を借りて、か(概念)▶かた(理論)▶かたち(形態)の流れで建築を設計するべきだと考えた。

あくまでかたちを無視する訳ではなく、それに至るまでの概念や理論を大切にしたいという考えだ。

逸れた話を戻すと、私は か と かた を頭の中では考えられていた。しかし、かたちになった途端、 か や かた が上手く言語化して説明できていなかった。
かたちは自分自身が気持ちの良いように決めているだけ、、、そういった抽象的すぎる考えしか浮かんでこなかった。
ここで「経験的」という言葉が使えると感じた。
経験的というには経験がとても少なくはあるが、そのかたちの気持ちの良さは形態的に考えられたものではなく、経験的に考えられたものだと思った。

正直に言うと私の設計した建築は外観は至って普通なのかもしれない。ただ、その中には建築的知性が埋め込まれていてその結果としてのかたちである。かたちに理論を押し詰めることは私にとっては堅苦しく、建築としての余白を一切排除されるような息苦しさがある。 
そこで少し建築としての余白をかたちによってつくることでゆったりとしたおおらかで皆を包み込めるような愛される建築をつくれるのではないかと考えている。 

これからは卒業設計があり敷地も巨大な敷地を設定している。そこでこれらを活かした設計を行い、私が経験したことを上手く表現できたら良いと考えている。

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