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Dtto交流会に行ってみたら、背中を押してもらえた話。


(元のURL:https://www.dtto.com/f/jp_daily/p/241119409?ref=ios )
20230201

なんだかモヤモヤすると投稿し、
ひたすら料理に没頭して、
寝られるだけ寝たら本を読んで、
たまたま見つけた良さげな漫画に読み耽り。

やることはたくさんあるので、
タイミングの悪い休憩とは分かりながらも
存分に休んで。
「「意味もないこと」をすること」が目的。
「「無駄なこと」をすること」が目的。
そんな時間を過ごしてた1月でした。

そんな1月の最終日、今日。
バイト先の店長にたまたま
「1月の思い出はある?」
と聞かれ、
咄嗟に三ヶ日を答えたのですが、終業後、
「いや、もっと重要なやつがあったよな。」
と思い立ちました。

それが今月、私がずっっっっっっと
考えてたことにアクセントを加えてくれたなと感じているので…
今日の投稿、めちゃくちゃ長いです。
あと、少し専門的な話も。
噛み砕くつもりですが、覚悟してくださいね。


年明けからずっと、
私の頭の中にはあるキーワードが漂っていました。
何をする時も。
ご飯食べててもお風呂入ってても
ヨガしててもテスト勉強してても
バイトしてても友だちと話ししてても。
こんだけ考えてたら必要以上に疲れるわけです。おかげで今月、痩せました。

そのキーワードは、

「対人の暴力性」。


コロナ禍のニューノーマルにもすっかりなれた私たちは、「オンデマンド」や「リモート」のありがたさを知ったと思います。
「人と会うこと」には、
少なからずそれなりのエネルギーを
"どんな人も"要するのです。
外向・内向の程度の違いはあれど、社会的動物だとはいえど、
必ず、消耗します。

しかし、私たちの生活から人と会うことを無くすと、無機質なものになりませんでしたか?
単調で、退屈で、漠然と不安で。
「コロナうつ」も囁かれましたが、覚えてますでしょうか。

この無機質さの背後には、人と対することの「暴力性」の喪失があります。

「背中を押された」「勇気づけられた」と言った表現。あれは、他者なしには成り立たない表現でしょう。このアイデアはある有名な医師によるもので、「暴力性」と称しますが、必ずしも有毒なものではありません。

一方で、「人」そのものは「ブラックボックス」でもあります。
過ごしてきた時間、環境、人間関係が自分とは全く違う、
一つの「歴史」「思想」の集合体で、
そんな「人」と私たちは日々対峙するわけです。
共通項が重なるところもありますが、
総じてみると全く自分とは異なる存在なのです。「他者」である。
共有することができるのは、
いま目の前にある「その瞬間」だけなのですよね。
そんなブラックボックスからは、何が繰り出されるかわからない。人と対することが当たり前だった頃の私たちは、日々この「暴力性」の中に晒されていました。
今では、対面授業がだるくて仕方ないという人も多いと思います。遅刻しないこと、教授を怒らせないこと、友だちと話すことも、ある種「暴力性」があると言えるのです。

しかし、この「暴力性」があってこそ、人は何かを生み出せると言われています。
外から力が加わって初めて、
0が1になることがある。
完全に排除することはできないのはこのためです。

このような両側面を持ち、「人と会うことにおいて、何かを消耗するのは当たり前なのである」ということを、「対人暴力性」という言葉で知りました。


「じゃあこの暴力性と、私はどうやって付き合っていこう?」
「私は1人の時間も大切にしたいタイプだから、暴力性なんてできるなら避けたいかも…」
「でもなしにはできないなら、いっそ武器にしたいよなあ…」


そんな「対人の暴力性」をテーマに悶々と考えてたとき、
Dttoさんが開催してくださった交流会にお声かけいただきました。

「クリエイター」として声をかけて頂けたのが、なんだかいい響きでたまらず、
出向いてみたのですが、
想像以上に面白い、刺激的な、楽しい時間でした。

会ったことない人たちとの間に、意外な共通点を見出す。
予想外のゲストが登場する。
普段話を聞けない人たちの話を聞く。
運営チームの方一人ひとりのお話も聞くことができ。

「個が調和することの心地よさ」を、久しぶりに実感しました。
変化球の連続で、繰り出す球をもっと見たくなる気持ち。

「ああ、そうだ。
私、こーゆー瞬間、大好きなんだよな。」と。

ワクワクしたし、その日限りなのが惜しくなるような、とても心地よい空間でした。


対することの暴力性、強制力が、
「痛み」をポンと押して「希望」に変える。
「過去」をポンと押して「可能性」に変える。
「後悔」をポンと押して「力」に変える。
これらはあくまで個人的な解釈なのですが、
あの時間はそれを目の当たりにしたと感じています。


また、今回の交流会では、Dttoの創始者の方とお話しする機会があったんです。

「Dttoの"D"は、Destiny(運命)の"D"である。」

彼は「運命」という概念に大いに関心をもち、運命を創出する場面に携わりたいと、台湾にてDcard(Dttoの台湾版)を手がけたそうです。

運命もまさに「暴力性」です。
思い切りぶん殴られて
ハッとさせられるような、
そんな力を持っている。
悶々と思考する頭にビビッと電気が走るような、刺激的なお話でした。
ちゃっかりお写真も撮っていただきました。

この交流会に出たおかげで実は、
この春休み、一歩踏み出す勇気を持つことができました。
夢への、将来への一歩です。
つまり私も、「対することの暴力性」に背中を押してもらえたわけです。
こんなふうにDttoに投稿するくらいですから、私もやはり何かを「創造」したいタチでして…。
一歩踏み出したばかりで
方向はまだ定まってませんが、
私は密かに、この春を
実りある春にしようと企んでいます。


踏み出した今、改めて振り返ることとなりました。
交流会を開催してくださったDtto運営チームの方々。
交流会に足を運んでくださったユーザーの方々。
素敵な時間をありがとうございました。💐
見ての通りとっても、有意義な時間でした。

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