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街が家族になる。家族ってなんだろう。

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(元のURL:https://www.dtto.com/f/jp_study/p/241899148?ref=ios )


私が「家族を持ちたいかもしれない」と感じ始めたきっかけ。

それは、
広義の「家族」の存在
を認められるようになったのもあります。


ご近所のおばあちゃんと最近仲良くなりまして、時間があると近場に一緒に飲みに出るんですね(^^)もちろん、ごくたまになのですが。

おばあちゃまは、お子さんたちとは家を別にして暮らしてらっしゃるんですけど、ものすごく活動的なんですね。
それこそ飲みの場にも連れてってくれるし、近所のカフェやらお店やらに頻繁に顔を出されています。

「光ちゃんね、私にとってみれば、この『街が』家族のようなものなのよ。」

「何かあっても、この街の誰かが助けてくれる。今はもうそんな風に感じるわ。」

街が家族。
田舎ならまだ地縁的な繋がりが濃いとしても、東京でこのセリフを聞くとは思ってませんでした。ものすっっっごく、素敵だなと感じました。

思えば私にも、血のつながらない父や兄がいます。父や兄と呼べそうな存在が。
とくに仲のいい友だちらも、お互いがお互いの「ママ」し合ってるようなものです。
このおばあちゃまだって、私と2人並んで歩けば「孫と祖母」と見間違われるわけで。

血縁だけが家族ではありません。
なんだかクサいこと言ってるかも知れませんが、よく考えてみれば、
夫婦は、血のつながらない家族です。
血縁だけが家族を証明するわけではありません。

子どもの発達という観点に立ち戻ると…

必ずしも血の繋がった母によって母乳が与えられることが、子の幸せを約束するとは限らないとも言われます。
家族と、その一員らそれぞれの幸福には、もっと多面的で複合的な観点を要します。よそ者がそう簡単に決めつけられるもんではないようです。

それに、子を、1人で、育てようというのは却って子の世界を狭めることになるのではないのかと感じました。
街で育てる、
地域で育てる、
学校で育てる、
友だち関係から育つ。
子どもだってひとりの人間なんですよね。
学校に行くようになれば、私たちが把握できないような人間関係の構築を始めます。
管理するなんてもってのほかなんですよね。
時に大きな方向づけや、絶対的なルール(人に怪我させないとか)を教え込むことは必要です。
けれど、
「人生における大切なことは全部、幼稚園の砂場で学ぶ」
という言葉も(どこで聞いたか忘れたけど)あるので、頃合いを見てその子がもつ「好き」を尊重してあげることが、
何よりもその子にとっての「幸せ」なのかも知れませんね。

「好き」を外部がコントロールすることは基本的にできません。嫌いなもんはずっと嫌いだったりするし、「好意」は強制するものではない。
どこまでを尊重するのか、
自分自身の「 人 権 観 」が問われるのかも知れませんね。

この、血によらない家族の存在を認知したとき、
「1人で育てようなんて烏滸がましかったなあ。
彼らはもっと、広い世界を知って、
いろんな人によって育てられてほしいな。」
自分の中にある無意識の独占欲に、気づいた気がしました。

まだまだ揺れ動く価値観ではあるものの、
「悪くないかもな」と思えるようになった今回の変化は、
自分の中にある縛りをひとつ解くことになった気がします(^^)

家族って、「家族」とは呼ぶけど(他人ではない)他者の集まりだし、ひとりひとりが別の人間だし、さして特別なものでもないのかしら。
新しい視点を手に入れた気がします。

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