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多様性が価値となる。


最近は、
自分自身が好きだと思う風景や現象、
いいなと思う、人との関係性に、
違和感を感じることが多くて。

「違和感」というのは、不快さではなく、
「違いの認識」という意味での違和感。

その感覚が自分にとってどう作用しているのか、それが良いのか悪いのかなんてことは、
まだ、なにもわからないんだけど、

「あ、なんかこれまでとは違うな。」
という感覚があって。


例えば、好きな現象を見つけた時に、
感動することによって生じる、
エネルギー量の違い。

対象の違い方によっても、
自身の感じ方によっても異なる「感じ方」。


自分が見つける、好き!の中に、
自らで規則性を見出していくことで、
僕の中に、「つまらなさ」が生じていた。


そりゃ俺はそれを好きだと思うわ、、。
こーゆうものを俺は好きだと思うよね。
それは俺はそれを嫌だと言うわけだ。


いつの間にか、僕は僕を想像し、
僕は、僕自身の、僕に対する
予定調和に従うように生きていたのだろう。


自分の感じることに、
自身の思考を巡らせるということは、
僕にとって、自分自身を縁取る行為であり、
自分自身のカタチを決めることでもある。


例えば、仕事で携わる価値観は、
僕の価値観とは、
相容れないことがあっても、
やるべき理由があるから、やるし、

僕自身の価値観に当てはまる物事は、
寝る間を惜しんででも、
やりたいと思うから、やる。




やるべき事とやりたい事に、
時間を費やすことでいっぱいになって、
余裕がなくなってしまう僕は、
やるべき事でも、
やりたい事でもないモノたちの存在を、
忘れてしまうことがある。

好きと、嫌いの間にある、
好きでも、嫌いでもない、物事たち。


そのうち、僕は、それらの存在を、
忘れている事さえも、
忘れてしまっているのかもしれない。


多分、最近の僕は、その事自体に、
つまらなさを感じていたのかもしれない。


だから、
やるべき事でも、やりたい事でもない事を
やってみようと思った。

いつもは、あっても惹かれることのない
セレクトショップに立ち寄ってみたり、

ここ数年は入る事もなかったゲームセンターで、
ぼんやりとぬいぐるみを眺めてみたり、

趣味とは違うインテリアショップで、
そこに置いてあるものを好きな自分に
なりきろうとしてみたり。


そんな時間を過ごしている中で、

自分が居る場所が変われば、
自身の物事の認識の仕方も変わるし、
周囲からの認識のされ方も
変わることを体感した。


そうだ、変わるんだ。
違わなくても変わるんだから、
違えば当然のように変わるんだ!!


すごく嬉しかった。


自分の中にある価値観が、
強くなればなるほど、固く、
変わらないものになっていくことが、

なんだか面白くなくて、
面白くない事が、
すごく怖かったから。



好きでも、
嫌いでもないものとの時間を過ごすこと、
居心地が悪い場所に居続けることが、
正解だとは、思わないけど、

自分にとって、
なんの価値もないことでも、
「誰かにとって価値がある」ということを、
頭で考えるだけではなく体感することは、

僕にとって、
とても価値のある事なのかもしれない。


僕にとって、
モノをつくるということは、
つくり続けるということは、

価値を生み出す行為だから。

どんなカタチでも、
そこに意味があろうと無かろうと、
価値がないと思われていることであろうと、

つくり続けることさえできていれば、
僕にとって、誰かにとって、
何かにとって、価値があるという事を、
具現化できる行為でもある気がしているから。


つくり続ける現象の先に、
何が、ものとして現れるのだろうか。

自己を認識し表現することが、
他者や社会から認識されるということ。

その狭間に存在するものや行為。

つくり続ける現象の先に、
纏うということ、纏われるものが、
どのような価値を持ち、見出していくのか。


つくろう。

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