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國華1545号要旨


【論文】

雪村周継の常陸国における足跡について

橋本慎司

 江戸時代の画史画伝の記述により、佐竹一族とされる雪村については、雪村の若描きである「滝見観音図」が正宗寺から発見され赤澤英二氏によって紹介されると、雪村の禅僧としての出発地および常陸国内の活動の中心は、いつしか常陸太田市の正宗寺周辺と考えられるようになった。しかし、水戸藩の官吏加藤寛斎(1782-1866)による安政2(1855)年の『常陸国北郡里程間数之記』(国立国会図書館)には、地元の官吏ならではの調査に基づく地誌として看過できないものがあり、雪村についての詳細な記述を含んでいる点で大いに注目すべきである。聞き取りを中心としたこの史料からは、幕末期の常陸国下村田村(『本朝画史』では「部垂村田郷」と記載)では、同村で雪村が誕生したこと、雪村屋敷と呼ばれる旧跡があること、そして雪村が画を描くために使った井があることが認識されていたこと、さらには雪村の姓名は不明であること(佐竹氏との関係にも言及なし)が確認できる。このような史料を改めて読み返してみると、雪村の出自と佐竹氏との関係を前提として継続されてきた雪村研究には、今後は常陸大宮市を中心とした中・近世史からのさらなる補完が必須であり、それには廃寺となった寺院、寺院の移動や改宗の状況、さらには什物の移動についても精査する必要性を感じざるを得ない。そこで、常陸大宮市において長年雪村について研究を続けてきた冨山章一氏と、氏が会長を務める「雪村顕彰会」による近年の興味深い研究成果をいくつか紹介しておきたい。
 雪村がどこで得度したのかという点について冨山氏は、鎌倉さらには京都の五山文化が常陸国にも流入し、その一大文化拠点の様相を呈していたと想定される静(静村)地域に位置する弘願寺の可能性を示す。弘願寺什物帳には注目すべき記載として「滝見観音」であり、これは現在も弘願寺が所蔵する筆者不詳の「滝見観音図」(以下、弘願寺本)であると考えられる。また、弘願寺本が収められている箱蓋表の墨書により、弘願寺本とそれを手本として雪村が描いた「滝見観音図」(正宗寺)とは、当初同じ箱に収められていたことが指摘されており、弘願寺本は正宗寺から弘願寺に移ったと考えることができるのである。さらに什物帳には、雪村やその弟子とされる雪閑の作品も散見され、雪村の得度地は弘願寺ではないかとする冨山氏の指摘は有力であろう。雪村は弘願寺を出発地として、その後常陸国内の臨済宗寺院を遍歴した可能性が高いのではないか。今まで正宗寺を中心に考えられてきた雪村の常陸国内の動向については、美術史学のみならず、地域の歴史学的観点からも考えていく時期が来ていると思われる。

司馬江漢の初期花鳥画「鸚哥図」について

樋口一貴

 司馬江漢(1747/48〜1818)筆「鸚哥図」は、この絵師の画業初期の花鳥画である。江漢は江戸時代の洋風画を代表する絵師であるが、若い頃には宋紫石のもとで中国画系統の花鳥画を学んでいる。本稿では、この作品を紹介して江漢の画業に位置づける。また、本図に見られるインコの写生的な表現と、当時長崎に舶載された異国の鳥が日本で図譜に描かれていることとの関連を示唆する。
 本図には円満院祐常門主の賛がある。江漢は1771年頃に宋紫石に入門しており、祐常の没年は1773年であるので、本作品はこの間に制作された江漢最初期の着色花鳥画である。濃彩による写生的な花鳥画、および大気に青い色を与える描き方は、当時最新の中国画法であった沈南蘋の様式であり、日本で流行した。紫石は長崎で南蘋の弟子熊斐と清人画家宋紫岩から学んでおり、本作品に見られる江漢の南蘋画風は紫石から学習したものと理解される。
 画中のインコは実際のショウジョウインコの特徴と一致しているが、江漢はどのようにしてこの鳥のイメージを得たのか、鳥類図譜と比較して考察する。
 長崎の役人高木家は、オランダ船あるいは清船で長崎に舶来した外国の産物を幕府に報告する役目を命じられていた。珍しい鳥獣については絵師に図写させて江戸に送っている。「外国産鳥之図」(国立国会図書館)は高木家が描かせた図譜の写本と推測されるが、その巻頭に背中に黄斑のあるルイチガイショウジョウインコが描かれている。これと一部の図様が重なる「唐紅毛渡鳥写生」(国立国会図書館)は、宋紫石による写本と伝えられている。「唐紅毛渡鳥写生」にショウジョウインコは載録されてはいないが、紫石が長崎で写して持ち帰ったものの中にこれとは別の鳥類図譜が存在した可能性は十分想定できる。このことは、輸入された鳥類と江漢との間に接点があり得たことを示唆している。宋紫石の門人である司馬江漢は、彼の完成した絵画作品とともにこうした図譜を粉本として学びイメージを蓄積していったものと考えられる。

【作品解説】

三千仏図

絹本着色 三幅 阿弥陀幅:縦203.7㎝ 横100.2㎝ 釈迦幅:縦204.0㎝ 横99.7㎝ 弥勒幅:縦203.8㎝ 横100.1㎝

増記隆介

 三千仏図は、本来、宮中において歳末に行われる仏名会の折に用いられる画像であり、日本においては、平安時代、仁明天皇の承和5年(838)にその催行方式が整備されたと言われる。仏名会は、過去、現在、未来の多数の仏たちの名号を唱えることにより、その年に起こした罪障を懺悔するものである。三千仏図の現存作例としては、平安時代、12世紀の作とみられる広隆寺本を最古のものとし、その後、海住山寺本、須磨寺本など、南北朝時代初期に制作年の明らかな複数の基準作例が残されている。本図は、それらより遡る鎌倉時代後半の制作とみられ、平安から南北朝への三千仏図の様式的な展開を知る上で貴重な作例である。また図像的には三千仏図に金剛界曼荼羅の諸菩薩を配する珍しいものであり、その使用方法も、従来の仏名会のあり方とは異なる可能性があり、仏名会の変遷を知る上でも重要な作品と目される。

康俊・康成作 地蔵菩薩像

奈良県 圓照寺 木造彩色 玉眼 一軀 像高80.6㎝

山口隆介

 中宮寺・法華寺と並ぶ大和三門跡のひとつとして知られる圓照寺に伝来した像で、表面の彩色・切金文様がよく残る美作である。近年の調査で像内頭部に墨書が発見され、正中3年(1326)に仏師康俊・康成父子が「中御門逆修」のために造ったことが判明した。中御門逆修とは中御門郷(現在の奈良市中御門町・西笹鉾町)に存した興福寺子院の逆修坊において、人びとが死後の救済と身近な故人の冥福を祈る年中行事的な仏事で、日程は3月8日から15日までの8日間、地蔵像を毎年造ることを恒例とした。本像は康俊ないし康成、あるいは両者による中御門逆修のための地蔵像の3例目であるとともに、この仏事のための造像を康俊・康成父子が継続的に担っていたことが明らかになった。像内からは地蔵菩薩像の印仏をはじめ多数の納入品が見出されており、今後の保存修理でこれら納入品の全容が把握されれば本像の制作事情がいっそう明らかになるだろう。

五彩松下高士図洗 景徳鎮窯 「大明萬暦年製」銘

大阪府 大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈/安宅コレクション)磁製 一口 高9.4㎝ 口径37.4㎝ 底径26.0㎝ 

守屋雅史

 大阪市立東洋陶磁美術館所蔵(住友グループ寄贈・安宅コレクション)の「五彩 松下高士図洗」(登録番号00496)に関する作品概要を解説した。本器は、平面の形状は八角入隅の稜花形。製作技法は内型と外型による型作り成形で製作され、底部は露胎に削られて典型的な「大明万暦年製」の青花銘が記されており、砂粒の少ない胎土の状態などからも、江西・景徳鎮窯の官窯の所産と考えられる。文様は黒による輪郭線内に緑・黄・赤の釉薬を充填した色釉と青花によって施文されており、内底部は椅子に腰掛けた高士が左手の人差指で指さしながら、細頸瓶を持った侍童と問答をしている情景が表されており、同様の情景が内側面と平縁上面にも形を変えながら繰り返され、外側面は宝相華と霊芝の花卉折枝文様が交互に描かれ、平縁下面には蔓唐草文が施文され、総体として吉祥表現が多いことを指摘した。そして、先学の論考の検討などから本器が16世紀の70年代から80年代初め頃の作例であることを説明した。



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