見出し画像

中国で最も有名な日本人、加藤嘉一との出会い

あれはちょうど中国出身の妻に出逢った10年ほど前のこと。「この日本人は中国人より中国語が上手いよ」と彼女は中国版のTwitter『微博』の画面を見せてきたのを覚えている。名前は加藤 嘉一(かとう よしかず)!高校卒業後、独りで北京大学に渡り中国語をゼロからネイティブレベルまで身に付けたという信じ難い話であった。

当時僕は彼女に一目惚れしたことから「中国語を勉強し始めた」という口実を作り、幾度となくデートに誘っていた。こんな風に日本人でも中国語をマスター出来るんだということを彼女は僕にただただ見せたかっただけなのかもしれない。このやりとりが僕の人生に大きく影響することとなる。

当時彼女は中国語の先生として中国語教育の権威である相原茂先生やタレントのローラチャンと共に仕事をしていたので中国語関連のメディアには敏感であった。そんな時に中国語学習者の必須雑誌『中国語ジャーナル』で表紙を飾ったのも加藤嘉一さんであった。その時はまだ「ああ、この人は凄い人なんだ、語学の天才なんだな〜」という感覚でしかなかった。

加藤嘉一は中国だけでなくロンドンブーツや爆笑問題の番組など日本のメディアにもどんどん出演するようになった。中国メディアではこの人気ぶりを『加藤現象』と呼び、当時の中国で学ぶ大学生は日本と言ったら加藤嘉一という感じになっていたらしい。この映像が当時北京大学院生だった加藤嘉一を要約してくれています。

そんな加藤嘉一の初冠番組、BS-TBS「加藤嘉一流 ~日本の若者たちへ、こもるな! 飛び出せ世界へ!!~」で衝撃的なシーンがテレビに映った。それは加藤嘉一、9年ぶりに原点である母校へ帰るというシーンで、開いた口が塞がらない。なんと僕の出身高校でもある山梨学院高校で僕の恩師でもあり部活の顧問であった吉田先生と抱き合うシーン、そしてまたまた僕の恩師でもある英語教師の勝村先生を訪問する様子が映し出されていた。まさかの同じ高校出身の先輩であったのです。

そんな加藤嘉一に対する親近感が高まり彼の書籍を買い漁り一気に読破し、完全に虜となった。読めば読むほど吸い込まれていく感覚。閉塞的な山梨から飛び出し世界で闘う生き様と常に本気で当たり前、努力して当たり前という精神。ネット上にある動画を端から視聴し、インタビュー記事などを貪るように読み返し、「自分もこんな人間になりたい!」と悶々とした迷える大学生活を送っていた僕はこの人に感化され、世界に向けて動き出したのです。

2012年母校で講演する加藤嘉一さんの様子が記事になった。この時にはもう僕もエンジン全開で動き出していた。地元に留まって微温湯に浸かっていてはいけない、山梨から世界へ飛び出して自分の価値を最大限高めてまた故郷に貢献しよう。という意識にさせてくれるのが加藤嘉一だったのです。

次に続くしかない。加藤嘉一さんの記事や本からエネルギーをもらっていた僕は自分だからできることに専念し、狂ったようにIELTS対策をして、受験期にも関わらず本を出版して、ロンドン大学院に合格し、常に自分の想いと行動を発信していた。1年後には母校の山梨学院で講演をさせて頂き、加藤嘉一さんが見た同じ光景を手に入れることができた。この時、故郷である山梨と育ててくれた母校山梨学院に恩返しをしたいという目標が定まり、さらに加速して自分を追い込んでいたのでした。

加藤嘉一が18歳から中国語を始めてゼロからネイティブレベル以上に這い上がったという事実から自分もネイティブに間違えられるくらい英語を勉強して使いこなそうと意気込んでいた。今思えばあの時、加藤嘉一という生き様に出会っていなければ井の中の蛙で世界へ出て挑戦しようとは思っていなかったかもしれない。中国で最も有名な日本人とまで称されると批判は付き物だと承知ではいるが「だったらお前がやれ」とまで週刊プレイボーイの連載で加藤嘉一は言い放っている。僕自身の批判中傷とは比べものにはならないかもしれないが、彼はそれらを「だったらお前がやれ」の精神で突き進んできたのかもしれない。そんな加藤嘉一さんから数ヶ月前、突然メッセージが届いた夜は興奮して眠れなかった。

「出版おめでとう!」

6月に発売した拙著『アジアNo.1英語教師の超勉強法(DHC)』の表紙に書いてあるLEARNING BY TEACHING(教えることで学ぶ)がSNSで加藤嘉一の目に止まったらしい。僕は「直接お会いして本を渡したいです!」と伝えると快く承諾してくれた。そしてメールでのやりとりで恩師の吉田先生や勝村先生の話で盛り上がり、日本に帰国したタイミングで直接会ってもらえることになった。普段緊張しない僕ですが、ド緊張して迎えた当日、身長180を超えるオーラを放った加藤嘉一さんに熱い握手と「宜しくね!」という言葉を頂き感無量。現在香港大学の准教授でありながら、アカデミアの世界に入り浸ることなく、個として発信を続けて、学術的にも商業的にも実績を積み上げている。僕が目指すべき姿はこれだ!と再確認し、30歳を過ぎて安定に走っていた自分に気合を入れ直しました。

加藤嘉一さんの処女作「われ日本海の橋とならん(ダイヤモンド社)」に熱いサインをもらい2ショットを撮って頂きました。その日は圧倒されて思考停止。マシンガントークでよく喋ると言われる嶋津も頭が混乱してしまったわけです。

落ち着きを取り戻した後日、都内の出版社で再会を果たし、加藤嘉一と嶋津幸樹で地元山梨から教育を盛り上げ、日本の未来を作っていこう!というプロジェクトが始動しました。加藤嘉一という1人の人間に感化され人生が変わる人がいるように、人との出会いやストーリーから圧倒的な原体験を生み出す仕組みを作っていきます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?