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消費される読書の致命的欠陥、趣味としての読書の創造性。小林秀雄『読書について』

文字数:約8,500

これは、小林秀雄の『読書について』を読み、私の頭に浮かんできたことを乱暴にまとめたものです。書評ではございません。





1: 小林秀雄は難しいか?

今は、小林秀雄の『考えるヒント』に取り組んでいる。

が、なんだか腰が異様に重たい。

『考えるヒント』は、文藝春秋とか朝日新聞とかに掲載された小林秀雄のエッセイがまとめられた本だ。

それはあくまでもエッセイ集であり、一つ一つのエッセイは独立しているから、相互間の関係性はほとんどない。比較的に読みやすい随筆もあれば、何が何だかというような、いわゆる難解な随筆もある。

その中から、割りかし読みやすいものだけを恣意的に選択しながら読んでいれさえすればよいのだろうか。もちろん、読書とはいわば趣味趣向、各自が自由に読み進めても何ら問題はないとは私は思うのだが、難解さに覆い隠されたエッセンスを見逃すのもなんだかなあ、と欲張りな気持ちもあるにはあるのである。

ひとまず、第1巻(『考えるヒント』は全4巻ある)には目を通してみたはいいものの、途中から飛ばし飛ばしで、この読書備忘録にまとめようにも、どうにもまとまりがつきそうにない。

それはまるで、知識の波が、どっと押し寄せて来るような、そんな読書体験である。それでいて、時折、凪のような静かさが訪れ、そこに光り輝く箴言の数々が眼前に開けるのである。

とはいえ、難解なものは難解であり、少しばかり休憩を挟んでのち、再度、『考えるヒント』にはポツポツとでよいから取り組んでみようと思うわけなのだ。


2: ところで、「難しい」って何だろう?

ところで、文章の難解さについては、少々考えておくことがある。私が小林秀雄に取り組んでみようと思ったきっかけは、池田晶子なのだが、彼女はこのように言っていた。

哲学書を読むコツは、表わされた言葉は、表わされた言葉にすぎないということを忘れないこと。言葉の側から考えに入ろうとするのは、むしろ逆。言葉を表わした彼らが何に驚いたのかということに、まず気づくことが大切です。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)池田晶子・選
「大人のための哲学書案内」より引用

難解さとは、なんだろう。難解さには色々な形があるが、一度、それらを分解して考えてみるために、いくつか、その要因を分析してみよう。

・使用されている単語、用語、概念そのものを知らない
・主語、述語、目的語等、文章構造が捉えづらい
・論理構造が複雑に入り組んでいて、掴みづらい
・著者の考えというより、事実が淡々と述べられている場合(=学術書的で、退屈になりやすい)

大抵の場合、使われている字面が普段見慣れない言葉であり、そのような未知の言葉がずらっと並んでいることが難しさを生み出す大きな要因となる。そのような言葉が並んでいるからこそ、その段落や文脈、構成を捉えるのに苦労するのであり、ひいては、その論理構造も、著者の主義主張も見えづらいのである。

では仮に、使われている言葉が普段見慣れている言葉にすり替えられていたり、あるいは知らなかった言葉をGoogle等で調べて学んだ後であったりした場合には、その文章はまだ難解なものであるだろうか?

おそらくは、多くの場合、その難解さは、大きくその難解さの加減を下げるのだろう。使われている言葉の意味さえ把握できれば、その後の文法構造、論理構造、著者の考えまでの道筋は自ずと見えてくるはずである。

そうすると、私たちが難解さを取り除くのに大事なことは、その言葉の意味の把握ということになる。

ということはつまり、知識さえあれば、難解なものが難解なものではなくなる、ということになるのだろうか?

つまりそれは、物知りにとっては、難解ではない、そう言えるものが、難解なものの正体なのだろうか。

例えば、カラマーゾフの兄弟を読んだことがない人が、小林秀雄が何気なく語るドストエフスキー論を見たとき、それは難解であるとその人には映るのだろうか、あるいはまた別の印象を、その人に与えるのだろうか。

私の考えでは、それは難解というよりも単なる苦行である。それは単に専門分野が違うだけなのだ。例えば、IT企業に務める人々が話すことを、また別の分野で働く人々が分からないのは、当然の話ではないか。

とはいえ、あなたがそれを専門的に取り組みたい以上、やはり事前情報や知識というものは、難解さを解きほぐすためには必要なものである。だからこそ、世の中には、難解そうな書物の読み解き本が出版されているのであり、Google上にも、YouTube上にも、テレビ番組上にも、そのような解説需要は存在するのである。

例えば、巷に溢れる哲学の入門書なんかは、そのような需要をさらっているのだし、それらは難解そうな書物の難解さ加減を下げられることには違いがないだろう。私なんかは、いわゆる入門書や解説書の類にお世話になりっぱなしである。

特に、私はNHKの『100分de名著』愛好家であり、ちょうど100分で読めるくらいの分量の学者さん等による解説本には、とても助けられている。古今東西のとっつきにくい名著を、素人にも分かりやすく解説してくれるし、その解説をしている方の「考え」というものも記されているから、どうやってその書物と向き合えばよいかという心構えが整えられる。

むしろ、その解説本だけ読めば、実際にその名著を読まなくてもよいのではないか、そう思わせてくれるほどに、『100分de名著』はすぐれたプロジェクトなのだと私は思う。


3: 「難しい」は、乗り越えられる!

さて、入門書や解説書の最大の効用は、その名著の難解さを解きほぐすことにある。つまりそれは、読者に言葉の意味の把握を促すということだ。そのために、入門書や解説書は、必要な専門知識や時代背景を分かりやすく丁寧に述べるのである。

そして、各自は、自分自身の言葉で、その名著に記された言葉の意味を把握する。すると、難解さというものは、自身のぼんやりとした印象にすぎなかったのだと知る。

頭の中の考えを言語化するということは、想像以上に重大である。私たちは、何もしていなくても、色々な考えを頭に思い浮かべるが、その多くは言葉として整理されることなく、その姿を隠す。いわば、言葉になる前の言葉が、次々に現れては、どこへともなく消えてゆく。

それらの言葉になる前の言葉は、まるで霧がかかる道に対峙しているように、決まってぼんやりとしている。「これは難解だ」、ほとんどの場合、これほど曖昧なセリフはない。難解という各々のイメージそのものは鮮明だが、その鮮明そうに映るイメージの奥を覗けば、あまりにも不鮮明な未発達の考えが溢れているだけなのである。

クリアなロジックで、難解さそのものを説明するのは至難の業なのかもしれない。「これは難解である、なぜなら、かくかくしかじかで…」、私たちは普通、難解という言葉をこのようには使用しない。「なんだか、何となく、それは難解だと思う…」、私たちは普通、難解という言葉をこうやって曖昧さの中に消費しているだけである。

あえて難しいという印象を言葉にのせて世間に公表することは、墓穴を掘ることに等しいのかもしれない。なぜなら、それは各自の曖昧さの公表にすぎず、外部の人間からしてみれば、そのような曖昧さはいかようにも調理可能だからである。

また、この曖昧さというのは、感情と仲良しであるということにも触れておくべきだろう。難しいというのは、もはや感情であるといっても過言ではない。それは考えというよりも、単なる印象である。つまりは、難解さというのは、安直な感情表現にすぎない。

池田晶子は、著者によって記された字句にとらわれすぎず、その先の著者の考えそのものを読み取りましょうと私たちの背中を押してくれる。彼らの考えというものは、決して難解かつ理解不可能なものではない、そうやって私たちを勇気づけてくれるように。

(ソクラテス) ヘーゲルやデリダに訊いてごらん。俺は今難解なことを考えとるぞ、なんて言わないと思うぜ。
(新・旧学者) そうでしょうか−−−。
(ソクラテス) そうさ。何かを考えるということは、いつだってその人自身には明らかなことなんだよ。難解だってのは、言葉で表現される以前のその人の考えを、自分のものにできない他人の意見だ。しかし、僕たちはいったい何だって、他人の考えについて、わからん、難しいと考え込んでやる必要があるんだろうね。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第1章 『帰ってきたソクラテス』「誰が学者だ」より引用

(ソクラテス) そしてなお困ったことには、それを文章で表現するときに、該当する言葉が、この世にないのだよ。しかし、カントもヘーゲルもそれをやった。言葉のない「考え」を、何とか言葉にしてみせた。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第2章 『悪妻に訊け』「あたしの岩波物語」より引用

彼らが抱いた概念のようなものは、言葉として語られることによって、概念となる。したがって、初めは言語化されていない曖昧なものだったのであり、それらを論理的に整理し、書物に書き残し、この世に公表することで、彼らの考えは、ある普遍性へと昇華するのである。

池田晶子は、小林秀雄の『考えるヒント』について、このように述べていた。

これまた「考える」と「書く」との見事な一致。それは他でもない人生の覚悟である。文体とは肉体である。ゆえに文体の所有とは覚悟の所有なのである。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
池田晶子・選「大人のための哲学書案内」より引用
※小林秀雄『考えるヒント』への池田晶子による案内文


4: 小林秀雄入門としての『読書について』

とはいえ、やはりまだ私には、小林秀雄の文章はとっつきにくそうだ。それは私の知識が足りないからだろうし、小林秀雄の残した言葉の、私なりの意味の把握とその心構えが、まだまだ足りないからだろうと思う。

そこで、『考えるヒント』ではなく、代わりに小林秀雄の『読書について』を手に取ってみたら、これはすんなりと読むことができた。『読書について』は、小林秀雄が没後40年を記念して出版された彼の読書に関するエッセイがまとめられた書物である。

これは、とても読みやすい。特に小林秀雄特有の膨大な知識の波がわりかし静かであることがその要因だ。情報の波が少ない分、小林秀雄の「考え」というものが、比較的に考えやすいのである。

『考えるヒント』についても、まずは記事を恣意的にで構わないから、選別して読んでみることが賢明なのかもしれない。読書とは、強制されるべきものであってはならないし、それは、各自が各自で、調節すべき事柄であって、他人が他人へと押しつけるべきものでは決してない。

私は、読みづらいものを無理をしてまで追いかけることは、あまりしたくないのである。さっと目を通すだけで、一向に構わない。

別に、何かに試されるわけでもないし、コーヒーを片手に、リラックスできる音楽に耳を傾けながら、ゆっくりと本を読み、ゆっくりと考えていくような作業を私は好む。眉間にしわなんか寄せてないで、にっこりと微笑んで、まるで対話をしているような、そんな読書を私は好きでいたい。


5: 楽しくなければ、読書じゃない。では、「楽しさ」って何だろう?

読者とは、楽しむものである。別にこれは読書に限らないが、楽しくないと思うものをあえて続けるのは、苦行以外のなにものでもないのだろう。もちろん「楽しさ」とは何か、という各々の各々による省察は必要だろうとは思うものの、ひとまずは、心が窮屈に感じることは、避けておくことが健全たる判断だと私は思うのである。

ところで、「楽しさ」というものについては、以下の小林秀雄の言葉を参考にしたい。少し長くなるが、『読書について』より引用する。

読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆に良い書物は、いつもそういう技術を、読者に目覚めさせるもので、読者は、途中で度々立ち止り、自分がぼんやりしていないかどうか確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一っぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかも知れない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。

小林秀雄『読書について』(中央公論新社)
「読書について」より引用

読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が眼覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。いろいろな思想を本で学ぶという事も、同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、思想を学ぶ事ではない。恋愛小説により、自分を失い他人の恋愛を装う術を覚える様に、他人の思想を装う術を覚えては駄目だと思う。

小林秀雄『読書について』(中央公論新社)
「読書の工夫」より引用

「はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである」、「読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う」。

はっきりと目覚めていること、鑑賞者としてのみでなく、能動的に書物と関わること。

「楽しさ」というものを考えたとき、そこに創造性があるかどうかが極めて重要であると私は思う。岡本太郎は彼が青年の時に、ルーブル美術館でピカソの絵を観て涙を流したが、彼はその時流した涙について、このように語る。それは鑑賞者としての感動ではなく、創作者としての涙であったのだ、と。

それは、受動的な態度に留まらない。というかむしろ、受動的な態度に留まることができない。能動性がほとばしるからである。

「楽しい」ということを思い浮かべるとき、私の頭にパッとゲームという媒体が出てきたのだが、ゲームのガチ勢のプレイは、もはや芸術と言っても過言ではない。例えば、梅原大吾(プロゲーマー)のストリートファイターのプレイはとても美しいと私は思う。

スポーツの世界は、この能動性をより感受しやすい。だからこそ、多くの人々は、彼らの趣味にスポーツを取り入れているのかもしれない。それはいわば、身体と精神とのハーモニーであり、考えと行動との一致である。

他の趣味でも、何でもそうだ。人はそこに、能動的態度を創造することによって、何かに夢中になるのである。小説や映画やアニメなんかは、その登場人物に自分自身を重ね、感情移入することで、その創造的芸術の中に没頭をする。

旅に出ることも、立派な趣味の一つである。新しい景色を眺めること、経験したことのないような文化を経験すること、自身の外にある様々な価値観に触れること、これらを行為する自分自身の行為そのものは創造的だと言えるのではないか。

むろん、読書についても、同じことが当てはまる。その読書に創造性があるかどうか、そのように私たちは私たち自身に問いかけねばならないのかもしれない。


6: 人間の「楽しい」という感情は操作可能か?

もちろん、楽しいというものは、人それぞれであり、それは他者がとやかく言うことなどではない。しかし、他者にとやかく言うものではないものの、では自分自身にも問いかけるべきものではないのかと言えば、それは違うだろうとも思うわけなのだ。

現代社会は文明が高度に発達し、人間の感情なるものは科学的に捕えることができるようになってきている。押し並べて、世の中でカネを生むのは、人々の感情であって精神ではない。

私たちは、自身の感情を消費しがちだが、その自身の感情がどのような動き方をしているのかという風には、中々思い当たらないとしたものである。感情はほとんど自動的にその感情を消費する。その感情の作用こそが、もっともカネを生むのである。

あれがしたい、これがしたい、と人々は欲望するが、なぜあれがしたくて、これがしたいのか、という自身の内面の省察を人々は嫌悪しがちである。何々をしたいというのは、自分自身の傾向性であり、それは理性の意図ではない。

創造性は精神とは切り離せない。人が能動性を発揮するとき、人の考えなる精神はあまりにも鮮明である。考えすなわち行動であり、行動すなわち考えである、そのように見事な心と行為との一致。

趣味というものは、私たちの想像以上に重要なものである。没頭できる事柄というものは、その行為自体が、程度の差こそあれ、ある芸術性を発揮しているからである。

私たちの少なくない人々は、仕事から帰宅すれば、何となく、ぼんやりと時間を過ごす。だが、とはいえ、四六時中、考えを尽くしているような性格は、それはそれで疲れるものだろうし、決まって彼らの言葉には他者を傷つけるような刺々しさが隠しきれていないとしたものである。

その行為に、能動性が発揮されているかどうか。この一点にすべてはかかっているように思えてならない。人々はお金にはケチなくせに、時間のこととなれば、まるでそれが無限に湧き出てくるかのように消費をする。これはセネカのセリフである。

人々の多くは、「楽しさ」とは、即感情であると思い込む。「楽しい」とは確かに、喜怒哀楽を示す言葉ではあるものの、それは単に感情の動きを示しているにすぎず、原因というよりはむしろ結果に近い概念である。つまり、楽しいから行為するというよりも、行為しているうちに楽しくなる、という方がより正しい。

しかし、行為しているうちに楽しくなるのでは、楽しさを感じるまでの道のりは非常に長いのも事実。であれば、人々の楽しいという感情にダイレクトに響くような娯楽があれば、そっちの方が儲かるはずである。だから、世の中の多くの広告は、人々の感情こそにフォーカスをしているのであり、決して精神には的を絞っていないのである。

「これこれをすれば楽しいですよ!」、このようなニュアンスの広告には、特に注意をしなければならない。なぜなら、それは感情の扇動にすぎないからである。そもそも、感情なるものは、他者が他者に対して、とやかく言えるような下品なものなどではないが、それでもビジネスはそんなことをお構いなしに、私たちの感情へと土足で踏み込んでくる。

「それって楽しいの?」、このような問いかけほど、的を得ていないセリフはない。楽しいかどうか、というものは、それをやってみたいことには、分かりっこないからである。だが、私たちの多くは、その肝心の一歩を踏み出せずにいることが多い。

楽しいか、楽しくないか、そのような安直な感情表現に焦点を当てているだけでは、その一歩は硬直し続けるに違いがない。これもまた、上述したような「難解さ」と同様に、感情を曖昧さの中に消費しているだけなのである。難しいか、難しくないか、正直言って、そんなものは読んでみないことにはわからないし、読んだところで、それを難しいか難しくないかと判断することには匠の技が必要である。

何かが私たちの感情を揺さぶるとき、私たちは警戒しなければならない。考えなき感情も、感情なき考えも、どちらも足りていない。私たちの感情は、無理して、そんな容易に消費されるべきものでもないだろう。それを判断するのは、あなた自身以外にはあり得ない。

そういえば、ショーペンハウアーはこんなことを言っていた。自ら考えることと、読書をすることとでは、その精神的影響の差は、比較するまでもなく大きいのだ、と。


7: 読書とは消費するものではなく、創造するものである

ああ、結局、冗長になり何が言いたかったのか、迷子になりそうなのでここら辺で締めくくりたい。

私の考えでは、受け身な読書はときに苦痛であり、苦しむ為に時間を費やすことを私はごめんこうむる。

しかし、自らが働きかけるような読書は喜びを生む。彼らにしてみれば、労苦でさえも喜びである。いやむしろ、労苦こそが喜びでもある。

人はこのことを読書百遍と言い表す。

私にとって小林秀雄の『考えるヒント』は、まだ苦痛ではあるが、その苦痛は苦痛のままであり続けるのか、あるいはその壁を突き抜け、そこに喜びを見出すことができるのかどうか、それはまだ分からない。

しかし、できれば私は、読書を消費するのではなく、創造する為に行為していきたい。そう思います。



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2024/5/16



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