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考えるためのヒントくらいは書いてあるだろう。小林秀雄『考えるヒント』

文字数:約10,080

小林秀雄を読んでいると、「ああ、そうだよなあ」と妙に納得する自分がいる。僕が読書に対して、求めているものは、この「ああ、そうだよなあ」的な感覚なのかもしれない。「ああ、そうだよなあ」、「ああ、そうだったよなあ」、と。初めて出会う文章でも、なんだか懐かしさを感じるのは、僕の気のせいではないのでしょう。


いくつか小林秀雄の『考えるヒント』から、彼のそのようないくつかの箴言を引用して、それについて少しばかり、僕なりに考え、書き出してみようと思います。



1: 考えるとは、合理的に考えることである

考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が至る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント1」「良心」

「能率的に考える」とは、文字通り、効率的に物事を推し量るということだ。そもそも「考える」という動詞は、非常に曖昧で広大なニュアンスにおいて使用されがちだから、まずは「考える」という意味そのものを復習しなければならないだろう。辞書にはこう書いてある。合理的にかつ論理的に物事の道筋を辿り、答えを出すというプロセスのことを「考える」というのである。「能率的に考える」という「能率的に」は「考える」の副詞でしかない。そういう意味では「能率的に考える」ことは理論上可能ではあるが、「考える」こと、即ち「能率的」であるとは言えないでしょう。

「能率的」というのは、辞書を引けば、物事を無駄なく処理することを示す。要するに、効率を重視して、タイムパフォーマンスを求めるメソッドである。「合理的」と「効率的」とは相容れないのだろうか。論理的に物事を辿るということと、そのロジックをできるだけ時間をかけずに求めるということとは、矛盾することであり、それらが互いに両立することはないのでしょうか。

ロジックをなるたけ早く処理するということは、その処理スピードを上げるということだ。仮に「考える」がロジカルに答えを求める行為のみを指し示す言葉であるのだとすれば、それは可能である。現代テクノロジーが証明しているように、人工知能の情報処理速度は人間のそれを大いに上回る。しかしながら、「考える」という動詞の意味をそのように決めつけることで、僕らは「考える」ことを考えることから逃れている。それが即ち、小林秀雄が述べているような「能率的に考える」ということなのでしょう。

問題は、「考える」という言葉の意味にあるのではなく、「考える」という行為そのものにある。「考える」という言葉の意味そのものは、ロジカルに答えを求めることという定義に間違いはないものの、それを「考える」ということは、さらにその言葉の定義から一歩踏み込んでみるということだ。「能率的に考える」人にとって、何らかの答えは必ずそこに存在すると考えられている。だからこそ、彼らは「考える」のであって、もし仮にそこに答えがないのだとすれば、彼らはそんなことは無駄であるとして切り捨てるはずだ。

しかし、僕たちが生きている社会において、本当の意味で答えなどあるものでしょうか?そんな絶対的なものなど、どこにあるというのでしょうか?商売人たちは、そのような考え方を嫌がる。彼らには株主に応えるための材料が必要だからである。それらしい"答え"という材料を、彼らは探し求めるために「考える」だけだ。だが、絶対的に正しい答えなど、この世界には果たして存在するのだろうか。

僕らにできることは、限りない正しさを求めて、"答えを探す"ことでしかないのではないでしょうか。答えに絶対性を付与する「考える」行為を小林秀雄は「能率的」と表現したのである。それは違うでしょう。僕たちは答えを探すために考えるのであって、その答えがゆるぎのないのもであるとするのは、僕らの理性というよりも、僕らの思い込みの仕事なのではないでしょうか。

小林秀雄のこの文章の続きはこうである。小林秀雄は、絶対的な正義を否定したいのである。

この事は、道徳の問題の上にもはっきり現れている。みんな考える手間を省きたがるから、道徳の命が脱落して了う、そんな風に見える。良心というような、個人的なもの、主観的なもの、曖昧なもの、敢えて言えば何やら全く得体の知れぬもの、そんなものにかかずらっていて、どうして道徳問題で能率があげられよう。そんなものは除外すればよい。わけはない話だ。これに代るものとして、国家の、社会の、或る階級の要請している、誰の眼にもはっきりした正義がある。これらの正義の観念は、その根拠を、外部現実の動きのうちに持っているのだから、歴史や場所の変化とともに変化するのは、わかり切った事である。何故、道徳の相対性に文句など附けるのか。道徳の相対性は、道徳原理の客観性の必然の帰結ではないか。現実を直視せよ。良心の朦朧性などを信じているのは、現実逃避である。そんな事を言っている。よく出来た嘘をつくものだ。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント1」「良心」

道徳とは、相対的なものである。しかしながら、とある一つの小さな社会に生きるある者たちは、それを相対的なものであるとは思わない。彼らはそれを絶対的なものであると思うことで安心をする。思い込みは、人々を安全な場所に連れて行ってくれる。断固として動かない意思は、理性の働きというよりも、もはや単なる意固地な精神でしかない。

"答え"なるイデアは、プラトンが『国家』の中で描く、太陽の比喩のように、確かにどこかにはあるのだろうとは思います。しかし、どこかにあろうとは思うものの、それが何かということは僕には分からない。決定的にこれだという答えを、僕は知らない。僕はそれを知りようがないものの、それを何とかかんとか知ろうとする行為は許されている。小林秀雄は、僕らのそのような泥臭い行為のことこそを、「考えるとは、合理的に考える事だ」と表現したのだと、僕は納得しているのです。


2: 「変人」という言葉に隠されたニュアンス

変り者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由が何処にあるか、と。そこで、世人は、体裁上、変り者という微妙な言葉を発明したのである。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント1」「歴史」

「変人」という言葉は、世間的にみればネガティブなニュアンスの概念だろう。世間は彼らをネガティブな存在として認識したいのだからこそ、彼らを「変人」と形容しているだけだ。とはいえ、彼が変わっているというのは、一体全体、誰と比較して変わっているというのでしょう。また、僕たちは、僕たちがみんなと同じであると言うとき、そのみんなとは具体的にはどこの誰を指し示しているというのでしょう。

そんなものは実際には無いのである。僕らがそのような比較検討をしている時、僕らの頭に浮かぶのは、自分が勝手に作り出したイメージにすぎない。それは漠然とした集団の印象だからこそ意味があるのであり、その漠然とした集団の正体を暴こうとする行為は、タブー視されているのである。人間には承認欲求というものがある。僕はお金持ちになりたい、有名になりたい、ちやほやされたい、モテたい、頭がいいと思われたい、かっこいいと思われたい、可愛いと思われたい、礼儀が正しいと思われたい、いい人であると思われたい、羨ましいと思われたい。

このような欲求は、漠然とした他者のイメージとの比較検討においてのみ成り立つ。比べる他者のイメージがなければ、そのような欲求を満たすことはできないのである。逆に言えば、比べる他者のイメージさえ作り出してしまえば、僕らのその欲求は自己充足することを覚えるだろう。しかも、そのイメージというものはなんでもよいのだ。自惚れたいと思うのであれば、自分よりも低い位置にいるように見える人々のイメージを思い浮かべればよく、嫉妬したいと思うのであれば、自分よりも高い位置にいるように見える人々のぼんやりとした影を作り出せばよいのである。

要するにこれらはキリの無いことだ。そんなことは、みんな頭ではわかっている。頭ではわかってはいるものの、どこかそうではなく、自分は自分はという意識を、大勢の変人ではない"普通"の人々は持っているに違いない。「普通」という言葉ほど、曖昧な概念はないでしょう。それは何と比較して普通なのか?普通とは、何と比べて特別ではないのか。では特別とは、何と比較して特別なのか。

世の中にある一定の確率で存在する「変な人たち」は、このようなイメージを許すことができない。そのような曖昧なものでは、満足できないからこそ、彼らは戦っているのである。彼らは自分自身がイメージに屈しないように、己自身と戦っているのである。僕らは、実際のところ、「変人」たちを羨ましいと思っているのかもしれない。「僕も、私も、ああいう風に自由に生きられたらなあ」、心のうちに秘めながら、そんな風に彼らを羨望しているのかもしれない。

しかし、密かに隠し持つ羨ましいというその気持ちは、軽蔑へと変容しがちである。とはいえ、小林秀雄が語るように、みんな心の底ではそんなことは間違っていると思っているのでしょう。僕たちは、簡単にイメージに屈する。要するに、勇気が足りていないだけです。変人だろうが、変人でなかろうが、そんなことはもはやどうでもよい。そう思うことが、「変人」への第一歩なのではないでしょうか。


3: 人の気持ちは、わからないが、わかろうとすることはできる

未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意を含んではいない。これにははっきりした別の含意があって、それがこの言葉に、何か知らぬ目方を感じさせているのである。それは人の心が、お互いに自他共に全く見通しのような、そんな化物染みた世間に、誰が住めるか、と言っているのだ。常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮屈的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてかなわぬ条件を成している、と。私は、わかり切った事実を言っている。あまりわかり切った事実で、これを承知している事が、生きるというその事になっている。従って、この事実への反省は稀れにしか行われない、と言っているのだ。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント2」「忠臣蔵1」

極論だが、人の気持ちというものはわからないものであると僕は思っている。人の気持ちを完全に理解することは不可能である。しかし、僕らはそのような考え方に対して否定的な意見を抱きがちだ。「いやいや、もっとその人の気持ちを考えましょうよ」、そのように誰もが口を揃えている。僕はそれに異を唱えたいわけではない。人の気持ちを考えることには意義があると僕も賛成している。そんなことは、いちいち考えるまでもなく、それが正しいと僕も思う。

問題は、人の気持ちを考えるという努力ではなく、その人の気持ちはこうに違いないという決めつけである。あるいは、僕ら、私たちの気持ちはこうに違いないという決めつけである。想像してみてほしい。自分が苦しんでいるときに、そのことを何とか外には出すまいと自分は勇気を振り絞っているのに、外の世界にいる他者から、「君は苦しんでいるね」と決めつけられたとしたら、どうだろう。僕は間違いなくムッとする。「俺をそんな風に決めつけるな、君に何がわかるのか」と、それを表に出すにせよ、出さないにせよ、僕は少なからず感情的になるに違いがない。

人様の気持ちなど、完全に把握することは不可能である。では、なぜそれは不可能なのでしょうか。僕は、そのような疑問は聞きたくはない。僕は僕であり、君は君である。それ以上の答えを僕は知らない。人は、一日のうちで色々なことを思い浮かべる。それこそ、言葉になる前の言葉として、考えになる前の考えとして、排水のようにみんなの頭の中を流れ続けている。人様の気持ちを完全に理解するとは、そのような流れの全てを把握するということなのだが、それは何度も申し上げているように、無理な話でしょう。

僕たちは、そんなに単純な感情を持っていません。悲しいから悲しい、苦しいから苦しい、嬉しいから嬉しい、悔しいから悔しい、そのような単純な思考回路は持っていません。実際には、僕たちの感情はもっと複雑に絡み合っている。悲しみから勇気を生み出したり、苦しさから希望を生み出したりする。僕たちは定義付けされることを拒否する。僕たちは複雑な存在として存在しているのである。そのようなことは、自分でもわからないのに、ましてや他人にわかるはずがありません。

これはつまりは、自己反省にほかならない。そのような意味で、小林秀雄はこのような反省は稀なのだと言っているのである。自己反省をする人々が稀な存在であるかどうかを僕は知らない。他人の機微は、究極的には知り得ないのだから、そんな風に僕は他人を判断することはできない。判断することはできないが、当たり前のことというものは、それが当たり前であるがゆえに省みられることが少ないという原理には賛成である。当たり前であることをあえて掘り返すようなことは、その当たり前に疑問を投げかけるような稀有な人々にしか訪れないのであり、要するに当たり前を当たり前だと思っていない人々がそう思っているだけなのであって、当たり前を当たり前だと思っている人々にとっては、そのようなことを思うことすら少ないはずなのである。

人の気持ちはわからない。それは、僕が僕自身を反省することによって昇華されるべき疑問だ。その試行錯誤が、友愛の生命線である。僕はそう思います。


4: 飽和した道徳は、不道徳の烙印を押される

言語が荒廃しているとは即ち精神が荒廃している事だ。何故、現代的教養には言語の問題は、全く精神的問題だ、という率直な、又正当な考え方が出来ないのか、この教養社会に於いてはただ、精神という言葉が、タブーだからだ。野蛮人並みである。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント2」「弁名」

道徳をクソ真面目に語る人々は、現代社会においては、「なんだかヤバそうな人」という烙印を押される。正義や倫理を語る人々というのも同じニュアンスである。僕たちは、すでに道徳が飽和した世界に生きていると言っていい。もしも仮に、道徳が飽和していなければ、僕たちはもっとしきりに、正義について、公の場所で語り合っているに違いがない。戦後の日本というものはそうだったに違いないと、僕は勝手に妄想している。

価値観が揺らぎ、文化が揺らぐ。社会的通念がその断固たる足場を緩める時、正義が正義として君臨する。それぞれの正義は競い合い、優勢な正義と劣勢な正義とに区分される。大勢の賛同を得た正義は正義となり、脇に追いやられた正義は悪と見なされる。そのような世界、僕なんかは素敵な世界だなあと思ってしまうのですが、みなさんはどうでしょうか。

とはいえ、劇的な社会での生き方というものもまた、劇的なものになってしまうのでしょう。モーレツな昭和的社会など、まさに劇的と言わず、なんと言えばよいというのでしょうか。しかし、当時が劇的であったかそうでないかということを僕は知らない。そう感じるのは、人それぞれなのかもしれないし、時代背景がそのような要因となる可能性もあろうとは思うが、僕はいま生きているこの社会で生きるしかないのだし、そんなことは別に反省しなくても分かり切ったことである。

飽和するということは、もう十分に満たされたということです。道徳が飽和しているというのは、道徳とはもはや何も語られなくても、人々のうちに植え付けられていて、当たり前のことになった、ということです。それは無意識において達成されるべきものであり、それらをあえて掘り返すことはタブー視されているということです。ちょっと想像しただけでも、わかるでしょう。会社や学校で、倫理を説く人のイタさを。彼らは、実際には、とても真面目で誠実で、僕なんかはもしそのような人がいれば、彼らのことをとても気にいると思うのですが、残念ながら世間はそのようには人間を判断しないことが多い。

分かり切ったことを言う人々のことをなんと言うか知っていますか?彼らは、説教くさいと言うのです。彼らは煩わしい存在だ。なぜなら、彼らは僕たちに彼らの一方的な価値観を押し付けてくるからである。僕の考えでは、彼らもまた、道徳的とは程遠い存在、つまり不道徳的であると表現するのがふさわしいのである。道徳とは、押し付けるものではない。そんなものは、ナチズムとなんの差異もないからである。

正義とは押し付けるものではありません。しかし、そんなことを言うと、世間は僕のことを「イタい」人であると表現してしまうのだろうと感じています。村上春樹は、人間の心の混沌は、人様に見せつけるものではなく、うちで秘めておくもの、というようなことを言っていました。道徳とは、そのようなものではないでしょうか。故に、それは反省されることが稀なのである。


5: 人は労苦を求める

思想のモデルを、決して外部に求めまいと自分自身に誓った人。平和というような空漠たる観念の為に働くのではない、働く事が平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人。そういう風に働いて見て、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人。そういう人々は隠れてはいるが到る処にいるに違いない。私はそれを信じます。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント3」「私の人生観」

人は労苦を求める、というようなことをアランは言った。行動することに意味は宿る。妄想に意味が宿るのではない。行動することによって、意味が生まれてくるということだ。生きることに意味はあるのかと問う人がいるが、生きることには意味などないのかもしれない。本田圭佑は、僕たちは意味を見出すために生きているのだから、生きていること自体には意味はない、というようなことを言っていた。実に彼らしい格言だと僕は思う。格言というものは、ちょっとむず痒くなるとしたものだ。

創造するということは、行動するということである。僕にとっては、文章を書くということが創造にほかなりません。しかし、もっと広く、創造という意味を拡げても構わないとも僕は思う。僕たちの多くは、会社で働いている。会社で働いて給料をもらう。給料をもらうために働いている。しかし、給料をもらえるのであれば、どこでもいいわけではない。自分が働きたいと思う会社で働いてる。自分がそこで働きたいと思うということは、そのことを自分はしたいからこそしているのである。

確かに、仕事はつまらなく、退屈なことが多い。怒られることもあるし、納期に追い立てられることもある。仕事とは、のほほんとしていれば、勝手に過ぎ行くような簡単なものではない。そこには厳しさが溢れている。厳しさが溢れているものの、だから嫌だ、というわけでもない。不思議とその仕事に没頭している自分がいる。没頭している時、僕たちはいわば無私の状態となる。フロー状態というものは、気持ちのよいものです。

本田圭佑的に表現すれば、仕事とは楽しいから仕事をするのではなく、仕事をしているうちにそこに楽しさが立ち現れてくるからこそ、それは楽しいのであり、仕事をしているのである。楽しいという概念は先には存在しない。そもそも、楽しいという概念は行為と分裂しては存在していない。行為と情熱とは、一致しているということだ。仕事はつまらないことでもなければ、楽しいものでもない。仕事は仕事であって、仕事という行為そのものに楽しさは宿るのである。

つまらないという感情は、行為しているときには思い浮かべない。つまらないという感情は、ふっと仕事から自我を取り戻したときに思い浮かべるものであって、仕事に没頭しているときには、僕たちは、その仕事について、何らかの意見を持つことはないのである。自ら動いているわけでもないのに、動いている人々を批判する人たち、小林秀雄は、そのような者を否定しているのである。彼らは、そうすることによって、自らの創造性という脅威から、逃避しているだけなのである。


6: 考えることと書くこととの見事な一致

文章というものは、先ず形のない或る考えがあり、それを写す、上手にせよ、下手にせよ、ともかく、それを文字に現すものだ、そういう考え方から逃れるのは、なかなか難しいものです、そのくらいな事は誰でも考えている、ただ文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります。併し文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何んの区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。

小林秀雄『合本 考えるヒント(1)〜(4)』(文春e-Books) 「考えるヒント3 」「文学と自分」

池田晶子は、小林秀雄の文章を、考えることと書くこととの見事な一致であるというように表現した。書くという行為は、僕たちの考えを整理整頓してくれる。書くことによって、僕らは僕らが考えている考えを研磨することができる。読み書きソロバンとは、教育の基本でしょう。ソロバンはひとまずおいておいて、読み書きの効用は、強調してもしすぎることはないほど、強力なものであると僕は実感しています。

僕たちは書くことによって、思考力を高める。僕の考えでは、読むことよりも、書くことの方が、自分の思考を整理するには役立つと思います。もちろん人それぞれですし、本を読むことによって、自身の考えを強化することができる人もいれば、何も読まなくても書かなくても、頭のよい人たちはいっぱいいることでしょう。僕の場合は、書いて、たまに読むくらいのペースが、ちょうどよい。

書くというのは、いち社会人にとっては、非常に特殊な行為である。仕事では文字こそ書いてはいるが、それは自身の意見を削ぎ落とした、良い意味でも悪い意味でも無機質なものであるべき文章だ。書くというのは、自身の考えを書く、ということだ。自身の考えを書く機会というのは、自分で意識して作らなければ、なかなか訪れない時間なのではないでしょうか。

言語化できない考えは、考えとは言い難い。考えとは、言語化されなければ、考えとは言えない。確かにその説明は難しいだろう。なんと言えばよいのか、その考えを表現することは難しいことも多いだろう。だが、その難しさに挫けてはいけない。それは実際には、難しいことなんかではない。自身が抱える曖昧な考えの中身を説明するという行為は難しくても、その曖昧な考えの様相そのものには、難しいという形容詞は使用できない。その考えは、考えそのものである。難しいでもなく、簡単でもない。ただ、それは考えであるから、考えなのである。

それは答えを探す旅のようなものだ。書くとは、答えを探す旅のようなものです。そして、それは極めて合理的な旅である。わからないから書いている。わからないから、わかるまで自身の考えを言葉に込める。その結果、わかるかもしれないし、わからないままなのかもしれない。ということを探したいから、僕もせっせと書いているのだと、自省しているのである。


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2024/06/16


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