「考え」ないことの危険性、「考える」ことのもたらす希望。池田晶子『14歳からの哲学』
文字数:約10,630
池田晶子は、昭和から平成にかけての作家で、もしもご存命でいらっしゃれば今年で64歳。
池田晶子の公式ページには、こう書いてあります。
以下は、池田晶子『14歳からの哲学』を読んでいるとき、私の頭に浮かんできたことを乱暴にまとめたものです。書評ではございません。
1: 哲学するのは「イタい」こと?
残念ながら、私たちの大多数は「哲学」という言葉に対して、ネガティブなイメージを持っている。
・なんだか難しそうだなあ
・意味不明だよね
・中二病かな?
・こじらせてるのかな?
・病んでるの?
・食べていくためには役に立ちそうもない
・ああ言えばこう言うよね
・めんどうくさそう
・理屈っぽい
・そんなんじゃあ、モテないよ!
哲学には、とても敷居が高そうなイメージもある。まるで学者ぶっているようで、権威があるようで、むやみやたらにふれれば、速攻で批判されて言い負かされそうな。大多数の人々にとって、哲学とは、どちらかといえばネガティブなニュアンスの言葉なのだろう。
それが良いか悪いかということではない。あえて一般論として哲学という言葉を観察するとすればそうなのだろうというだけである。
「倫理」「道徳」「正義」「善悪」「自由」「思想」
これらの言葉のイメージは、もっと悲惨だ。
断言しよう。
もしも仮に何かの宴会の席で、あなたがこれらの言葉やこれらの概念に関する事柄を、大真面目に意気揚々と語ろうものなら、大勢の人々はあなたのことを避けるようになるのだろう。
「なんかヤバそう」。そんなレッテルが貼られることほぼ間違いなしだ。
これが例えば、1960年代、学生運動の時代など、大きな文化的転換地点であれば、これらを語ることはまったく違和感のないことだったはずである。むしろこれらについて議論を交わすこと自体が好ましかったとも言えそうだ。
この点について、ダイヤモンド社書籍編集局の公式noteで、『正義の教室』の著者である飲茶はこう述べている。
「基本的に正義って、今の社会においては正しくないことを正しいと主張する要素、反社会的な危険要素がどうしても入ってきてしまうからです。」
「今の社会においては正しくないことを正しいと主張する」ということはつまり、今の社会においては正しくないことの多くは正しくないことであると人々にすでに認識されているということである。それらは自明のことなのだ。自明のことなのだから、人々はあえてそれらについては語らない。
語りたくないから語らないのではなく、語る必要がないからこそ語らないのである。わかりきったことを語るのは、うるさい説教以外の何物でもない。
大人が誰かからそのような説教をされれば、なんだか自分が小馬鹿にされているような気分になる。子供も同様である。そのような「当たり前」のことを言われれば、「そんなことわかりきっているよ!」と反抗心が芽生えてくる。
現代社会において、「道徳」とは飽和しきっている。もはや新しく付け加えるまでもなく、それらは出来上がっている。それらはすでに出来上がっているがゆえに、何も付け加えてはならないのだ。「道徳」を語ることは、なんだか「不道徳」に聞こえないか。その感覚こそが、そのことの証明である。
2: 読書が少年少女を堕落させる
私の考えでは、池田晶子の『14歳の哲学』は不道徳教育に陥る危険性を抱えている。
例えば善と悪についての以下の文章を少年少女が読んだとき、彼らの心に大いなる勘違いが生まれる可能性を私は否定できない。
大いなる勘違いとはつまり、「良いことと悪いこととの判断は自分が決めてもよいのだから、私が良いと思ったことは他者がどうなろうと何をしても問題はないはずだ」、そのような自分勝手な主張に陥ることである。
ダメだと言われていることでも、自分が良いと思えばそれで良い。勉強しなさいと親に言われたところで、別に勉強などしなくても良い。そのように自分が思っているから、別に勉強はしないで良い。なんとも単純な思考回路である。
ここには読書そのものの危険性が隠されている。つまり、言葉を鵜呑みにする危険性である。それらをまるっと鵜呑みにし、まるで自分の言葉のように、書物の言葉を語ることの危険性である。
特に学生の時代には(あるいは年齢をいくつ重ねても、そのような人々は確実に存在する)、批判的精神もまだ未熟な状態であり、そのために見栄を張りたい気持ちに負けてしまうことも多くあるのだろう。本に書いてあったからという理由は、理由としてはあまりにも非常に貧弱であると言わざるを得ない。なぜなら、そこには自分自身の考えのカケラもないからである。
「いいや、あの人が正しいと言っていたから、正しいんだ」。そのような理由は、もはや論理的でもなんでもない。意固地な感情がなせる技以外の何物でもない。
批判的精神とは、その論理性が正しいのかどうかを自分自身の頭脳で検討することにほかならない。要するに「考える」ことである。
3: 善悪の基準のありかを探す
「なぜ私はこれこれを正しいと思うのか?」
それは自分が正しいと思うから正しいのではない。いや、そうなのかもしれないが、そうではない。微妙なニュアンスである。それは自分が色々と検討して、より正しいと考えるからこそ、それらはより正しいのだと考えることである。
なぜ、善悪の基準は自分にあると言えるのか?
良いことと悪いこととは、何をもってそれらは良いこととなり悪いこととなるのか?
例えばテーブルマナーに関して。お椀を手で支えることが日本人的には正しいマナーであり、正しいということはつまりそれは良いことである。一方で、例えば韓国では、お椀は手で支えないことが正しいマナーであり、良いことであるとされている。
他にもこのような例は無数にある。もしも、善悪の基準が自分の外にあるのだとすれば、それは自分が暮らす国や地域によって変わるものなのか。この国では良いとされていることでも、あの国では悪いとされていることがある。では、それらのどちらがより正しいのだろうか。
良いことと悪いこととは、あるときには良いこととなり、あるときには悪いこととなるのだろうか。だとすれば、善と悪とは、両方の意味を持つものなのだろうか。それらは良いものでもあり、かつ悪いものでもある。そう言えるものなのだろうか。
そもそも、良いこととはどんなことで、悪いこととはどんなことなのだろう。良いこととは好ましくて望ましいことであり、悪いこととは好ましくなくて望ましくないことである。善と悪とが両方の意味を持つということはつまり、好ましいことと、好ましくないこととが両立する、そう言えるものなのだろうか。
例えば、あなたが空腹であるとする。腹が減っている者にとって、食事とは良いことである。腹を満たすということは良いことである。そのような意味では良いこととは満たされること、とも言ってよいかもしれない。この場合、満たされるのはその空っぽのお腹であり、あなた自身の食欲という意欲である。
一方で、あなたは腹が減ってはいるが、ファスティング中だとしよう。この場合、食事を取ることははたして良いことだろうか。断食をしている人々にとっては、たとえ腹が減っていたとしても、食欲に打ち勝つことこそが良いことであり、そうすることで自分自身の禁欲という意欲を満たすことこそが良いことではないか。
二人とも腹は減っているという状態は同じである。どちらも空腹ではあるが、一方は食事を意欲し、もう一方は食事を意欲しない。ということはつまり、意欲を満たすということが良いことと悪いこととの違いなのではないだろうか。
であれば、もしも善悪の基準が自分の外にあるのだとすれば、自分自身の意欲というもの自体も、自分自身の外にあるというわけか。では、意欲とは、自分の外からも観察できて、操作可能な代物なのだろうか。もしそうであれば、私たちの感情や精神は、外から誰でも見ることができて、管理者は彼らが望むがままに私たちをコントロールすることができるというわけか。
だが、誰がそのような社会を望むのか!
それはディストピア以外になんと形容すればよいのか。私たちの感情さえ気持ちがよければ、欲望さえ満たされていれば、ただそれでよいというのか。もしそれでよいというのであれば、私たちの個は消滅する。たぶん、何かしらの信号や化学物質を脳に投与すれば、全人類は幸福となる。
しかし、それでも良いという人は誰もいないだろう。個がなくなるということはつまり、私たちが意欲していることを意欲するというこの意思もなくなるからである。その場合、"それでも良いと思う"こと自体が矛盾する。なぜなら個がなく意思がないのだから"それでも良いと思う"こと自体が、そもそもできないからである。
「ああ、俺は腹が減っているな」。そのような自身の意欲を意識する意欲がなければ、自分は腹が減っているのだなということ自体も知り得ない。その上で、食べたいなと意欲するからこそ食事をするのだし、でも食べてはいけないなと意欲するからこそ断食するのである。
つまり、意欲とは意志であり、各自に固有のものである。自分の意志が自分にあるのであれば、それを満たすことこそが善であり、それを満たしてあげなかったり、逆に欠乏させたりすることこそが悪ではないか。
実際問題として、それが満たされるか満たされないかということは置いておいて(なぜならそこには外部的要因もあるはずだから。例えば腹は減っているがカネがないなど)、それらを満たされるように志向することによって、私たちはそれらを良いことであったり、悪いことであったりと判断するのではないか。
4: 考えない人は暴力に頼る
さて、このように考えていけば、池田晶子の(も)言うように「善悪を正しく判断する基準は、自分にある」ということは、論理的にはより正しそうではある。
私の考えでは、考えるとはすなわち(というか、文字通りなのだが)自分の頭でその論理性を考え抜くことである。それらが完全に正しいことであるか、あるいはそうでないか、ということはひとまず置いておいて、とりあえず考え抜くことである。
考えることさえできれば、あるいはその手間を省かないだけの忍耐力さえあれば、「善悪を正しく判断する基準は、自分にある。だから私が良いと思ったことは他者がどうなろうと何をしても問題はないはずだ」、そのような拡大解釈は間違っているのだと気がつくことができるだろう。
例えば、ここにケーキが一つあるとしよう。カットされたショートケーキが一つ。あなたはとても空腹である。このケーキを食べることで、あなたの食欲は満たされるのだから、あなたはこのケーキを食べることを良いこととして欲している。
ただし、あなたの目の前にももう一人、あなたと同じように空腹な人がいるとしよう。あなたとあなたの目の前の人は、二人とも無言の状態で、ともにショートケーキを見つめている。
もし「私が良いと思ったことは他者がどうなろうと何をしても問題はない」のであるとすれば、目の前の人を差し置いて、そのショートケーキを食べることが良いことなのだろう。ショートケーキを食べることは、自分の食欲を満たすことであるから、それは確かに自分にとっては良いことだからである。
しかし、今回の場合、目の前にはあなたと同じように食欲を満たすべき人がいるのである。ショートケーキを食べることは私にとっては良いことではあるが、もし私がそのショートケーキを食べてしまえば、それは目の前の人にとっては悪いことになる。それでは目の前の人の食欲は満たされないからである。
同じ状況の人がいたとして、あなたが他者よりも優先される理由はなんだろう。あなたにとってはショートケーキを食べることが良いことであるが、その人にとっても同じようにショートケーキを食べることが良いことなのである。
たしかに、目の前の人がショートケーキを食べることを良いこととして意欲しているかどうかは、今の段階ではわかり得ない。会話を交わしていない状態であれば、相手の本当の意欲は知り得ない。例えば、目の前の人はあなたと同じように空腹ではあるものの、断食中かもしれないし、ショートケーキアレルギーなのかもしれないし、甘いものが苦手なのかもしれない。
とはいえ、あなたにとっての良いことは、目の前の人にとっても良いこととなる可能性は残されているのではないか。もしも目の前の人がショートケーキを食べることを意欲しているのにも関わらず、あなたは目の前の人はそのようなことは意欲していないのだろうと思い込み、自分の方が優先されると勘違いをして、そのショートケーキを食べてしまえば、あなたが目の前の人と何かしらのいざこざを引き起こす可能性は非常に高い。
あなたが欲することは、他者も欲するのだと考える方が健全である。あるいはもっと健全な形は双方による論理的で建設的な対話である。感情的にののしり合うことは、もっとも効率的なコミュニケーションである。いや、暴力の方がもっと効率的なコミュニケーションなのかもしれない。
あなたが望むものを、手っ取り早く手に入れるには、ゆっくりと話している暇などもったいないのである。あなたは一刻も早く、それが食べたい。するとあなたはどうするか。あなたは、目の前の人をあなたの拳でねじ伏せるのである。だが、それはそもそもコミュニケーションなんかではない。憎むべき争いである。
5: 思いやりの形をした暴力
「あなたが欲することは、他者も欲するのだと考える」ことは私は健全だと思う。しかしながら、それをそうだと決めつけることは、これもまた一つの暴力を生み出すのではないか。暴力というよりも押し付けと言ったほうがよいのかもしれないが、とにかく、あなたのその思い込みは、他者にとっては重荷になる可能性がある。
たしかに自分にとっての良いことは相手にとっても良いことである可能性はあるものの、まだこの段階では自分にとっての良いことが相手にとっては悪いことであるという可能性も残っているのである。もちろん、その逆も然り。
ショートケーキを前にして、何も言わずに相手に一方的にそれを譲ることは、はたして良いことなのだろうか。あなたはいい人には違いないのだが、相手はそれを良いことであると本当に思うだろうか。相手は実はショートケーキを食べると全身がかゆくなって仕方がないのだが、あなたがいい人なばかりに、相手はあなたから押し付けられたショートケーキを食べ、案の定、アレルギー反応を起こしてしまった。
その場合、「何も言わずに相手に、一方的にそれを譲る」ことは、相手に苦痛をもたらしたのだからあなたにとっても悪いことではないか。なぜなら、相手にとって苦痛とは悪いことであり、相手にとっての悪いことはあなたにとっても悪いことなのである。まさか自分にとっての苦痛は悪いことではないとあなたは言い切れるだろうか。
もちろん、相手にとっての苦痛が実際には良いことである可能性もないことはないが、それでも対話なき状態では、それがどちらであるかなど判断のしようがないじゃないか。
そうすると対話なき状態では、私たちは何もわからない状態になってしまう。自分にとっての良いことと悪いこととの判断は自分にあるので、そうなのだとわかるが、他者にとっての良いことと悪いこととの判断は自分ではなく、他者にあるからこそ、それが良いことであるのか悪いことであるのか、その他者以外の者にとってはわからないのである。
6: 規則の存在意義
ところで、これってとても面倒ではないか。いちいち、会話をしていかなければ、相手にとっての良いことと悪いこととがわからないなんて、面倒くさくて仕方がないではないか。「私はお腹が空いていて、ショートケーキが食べたいのですが、あなたもお腹を空かせているようですね。ショートケーキを食べたいですか?では、半分に分けますか?」なんて、いちいち聞いていたらキリがない。
だいいち、その後も会話は続くのだ。「いやいや、私は構いませんので、どうぞ私の代わりに食べてくださいな」。そのように目の前の人は言うのかもしれないし、そうではない回答が来るのかもしれない。それはあなたが知るよしもない。会話がどう運ぶのかも、実際に会話しないことには分かり得ない。
規則というものは、社会に秩序をもたらすためのルールである。いちいち会話していては面倒くさいから、あらかじめその地域に暮らす大勢の人々にとっての良いことと悪いこととを規定したもの。それがルールである。
ルールとは大多数の人々にとっての良いことと悪いこととを規定しているため、当然のことながら、そこから漏れる人々も存在する。しかしながら、それらは特例であり、注目すべきは大多数の人々である。かつ、秩序を守るという目的のために規則は制定されているので、良いことを規定しておくというよりは悪いことを規定しておくものである。
これは悪いことなのだから、〇〇してはいけない。なぜ、〇〇してはいけないかと言えば、それが大多数の人々にとって悪いことであると正式に制定したからである。だから〇〇してはならない。それは規則だからである。
7: 髪を染めることは悪いことなのか?
例えば、なぜ学校では髪を染めてはいけないのか、疑問に思う高校生は多い。なぜ髪を染めてはいけないのか。まず第一に、それはその学校の一番えらい人である校長先生によって制定された校則だから。その制定理由は、その規則を制定した張本人に聞かないことには正確にはわからないが、おおよそ以下のようなことなのだろう。
・おしゃれに気を取られれば、学問がないがしろになる懸念がある
・ずっと昔から、そのように校則に書かれていて、変えるのがめんどう
・学生身分では髪は染めてはいけないという根拠のない思い込み
・学生の統一感向上のため
・髪を染めるのにはお金がかかる=親への負担増加
・髪を染めていない子が仲間外れにされる可能性がある=染髪の強制
・髪へのダメージの懸念
ほかにもあるのかもしれないが、こんなところだろう。とにかく、髪を染めることが、大多数の人々にとって悪いことであると校長先生が決めたことなのだから、それは校則であり、校則であるがゆえに、それは守られるべきものなのである。「そんなのおかしい」。たしかにそう思う高校生は多い。しかしながら、大多数にとってそれは悪いことである可能性の方が高いからこそ、それは校則として制限されているのである。
もし髪を染めることが大多数の人々にとって良いことであると何らかの形で判断することができれば、髪を染めてはならないという校則はなくなるだろう。例えば、地毛が黒色ではない高校生にとっては、逆に黒に染めなければならないのである。染めてはいけないというのは、黒色の地毛が前提だろう。100人いれば恐らくはそのうちの99人は「黒色に染めるなんてバカバカしい!」、そのように言うと私は信じているが、どうだろう。
これは私の持論だが、高校生が髪を染めたいと思うもっとも大きな要因は、髪を染めることが禁じられているからである。禁じられているからこそ、それを破りたいし、破壊したいし、そこに新しい価値観を創造したい。安部公房は『砂の女』という小説の中で、自由に関するこの感覚を鋭く以下のように表現した。
罪がなければ、逃げるたのしみもない
開成高校には、二つの校則しかないらしい。制服を着ることと、授業中に外出する際は届出を出すことの二つである。実際、もし髪を染めてはいけないという校則がなかった場合、どれだけの生徒が髪を染めたいと思うのだろう。
染めたいと思えば染めればよいし、染めなくてもよいと思えば染めなければよい。良いことと悪いこととの判断は自分にあるのだから、どちらでも構わない。自分が良いと思った方を選択すればよいだけの話である。
しかし、それが規則である以上、守らなければならないのである。だが、それは単に規則であるがゆえに守るのである。もしも、その規則があまりにもおかしいのだと意欲すれば、しかるべき手順を踏んで、その規則を打ち破ればよい。例えば、生徒会などで学生の意見を集め、学校の役員と話し合えば、その試みが成功するにせよ成功しないにせよ、学校と生徒との関係性はその建設性を増すに違いがない。
規則は規則。あくまでも良いことと悪いこととの判断は自分にある。それに気がつくことこそが自由なのだ。
池田晶子はそのように語る。
8: 「哲学」することは「イタい」ことなどではなく、むしろその逆である
繰り返すが、「読書」とはある意味では毒であると私は思う。また、「哲学」だとか「道徳」だとか「倫理」だとか、そのような概念もある意味では毒なのである。
大いなる勘違いは、非常に気持ちのよいものなのだ。ここでの気持ちがよいとは、単に感情的に気持ちがよいというだけであって、精神的で論理的な気持ちのよさではないことに注意しよう。
思い込みは、感情に迎合する。「私こそが正しいのだ!」。思い込みは他者を批判することに気持ちよさを見出す。それによって、自己を正当化できる(実際には、そんなことはないが、少なくともそうした気にはなれる)からである。
批判は批判を呼び、人々の感情はエスカレートしてゆく。感情の力を甘く見るべきではない。その力は強大である。感情に流されることは容易でも、感情を抑えつけることは困難である。
感情を放っておくと、彼らは何にでもちょっかいと出す。私たちが本などで学んだこの知識を利用して、自分が気持ちよくなる方法を模索する。自分にとって気持ちがよくない現実があれば、それらを単に自分が気に食わないというだけの理由で批判し始める。
感情が言葉を話し始めるとき、私たちの論理性と建設性の盾は、はかないかなその鋭い剣に貫かれるのである。感情が意見を述べるとき、私たちにできることは、黙って受け入れることしかできやしない。いつだって、感情が議論に勝利をおさめるのである。
そのために私たちは考えなければならない。「考える」ということはつまり、思い込みに迎合しがちな感情をぐっとこらえるということである。そこには感情は必要ない。そう書けば、色々と批判の的にはなるのかもしれないが、「考える」という行為には感情はふさわしくない。
とくに怒りの感情は、議論の場にはもっとも不適切なものである。なぜなら、怒りという手段を出した瞬間に、その議論はもはや議論ではなく、生死を賭けた決闘となるからである。「怒り」は「考える」よりも強い。
人は、怒っているとき、その思考力が著しく鈍ることを実感する。「怒り」に対する処方箋は、そっとその口を閉じ、時間が癒してくれるのを待つしかない。それほどに「怒り」は強烈なのである。
しかし、私たちは「怒り」が発生する前に、その「怒り」に対処することができる。自身の「感情」が制御できなくなる前に、その「感情」に予防線を張っておくことができる。
「思慮深い」とは、物事を慎重に判断する態度を意味する。「考える」とは物事を慎重に判断することである。「感情」が判断を急いでいるときに、彼らに先回りして、判断の根拠を模索することである。
「哲学」という知恵の実を少しでもかじった人々は、冒頭で述べたような「哲学」に対する世間的批判に反抗心を芽生えさせる。世間を説き伏せようと感情が動き出す。
「道徳」や「倫理」などの概念も同様である。「自分はものがわかっているんだ」と思い込んでいる人々によってなされる言論には、学生特有の微笑ましい青葉のにおいが立ち込めている。
「考える」ことができさえすれば、またその手間を省かないだけの忍耐力さえあれば、私たちは極端な意見に傾くことなく、クリアに世界を見渡すことができよう。
私はどうせなら、自分自身の感情でこの青空を曇らせるのではなく、純粋にこの青空を楽しみたいのである。
「考える」とは気持ちのよいことなのだ。
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2024/04/10
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