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カネという動機のむなしさ、スキという動機のよろこび。池田晶子『14歳からの哲学』

文字数:約6,620


池田晶子は、昭和から平成にかけての作家で、もしもご存命でいらっしゃれば今年で64歳。

池田晶子の公式ページには、こう書いてあります。

専門用語による「哲学」から哲学を解放する一方で、驚き、そして知りたいと欲してただひたすら考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表わすこと──すなわち、考えるとはどういうことであるかを、そこに現われてくる果てしない自由の味わいとともに、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」を確立し、多くの読者を得る。

池田晶子公式ページより引用

以下は、池田晶子『14歳からの哲学』を読んでいるとき、私の頭に浮かんできたことを乱暴にまとめたものです。書評ではございません。





1: 読書はカネにならぬ

『14歳からの哲学』を読んだきっかけは、私自身も哲学的なエッセイを書いてみたいなあ、と思ったからなのだが、とはいえ、私は4年前にnoteを始めてから、ほぼ継続的に読者感想文のようなエッセイのような何かを執筆し続けてきた。

本音では、誰かに読んで欲しいし、これが誰かにとって役立つような記事になればよいなあと、そんなことを思い続けてきた。承認欲求は人間の普遍的な欲求であるはずで、たしかにそれらに重きを置きすぎるのは偏った性向を生み出すのかもしれないが、それでも私は自分自身の中に「世間から認められたいなあ」という欲望があることを認めるのである。

それこそ、noteで「スキ」が押されればとても嬉しいし、私にとっては読書の備忘録を継続するモチベーションになっていることには間違いがない。この点に関しては、noteの仕組みが非常に秀逸なのだ。

たとえ、仮にその「スキ」が形だけのものだとしても(なんだか、斜に構えたような言い方で申し訳ございません)、「こんな文章でも誰かが読んでくれているのだなあ」と思えるきっかけには十分であり、それが実際問題として自己満足であり自慰のような代物でしかないのだとしても、「自分の行為は虚しいものではないのだなあ」と自己を肯定的に捉えるのには十分な反応である。

それでも、私の欲望はとめどなく溢れてくる。例えば、「いつかnoteの中の人が記事を取り上げてくれないかなあ」だとか、「あわよくば何かしらのきっかけで今までまとめてきた私のエッセイ的な何かが書籍化されないかなあ」だとか、「それでちょっとでもいいからお金が入ってこれば嬉しいなあ」だとか。ようするに金儲けがしたいという下心が丸出しである(それも、図々しくも他力本願に、あまりにも受け身の姿勢で)。

せっかく継続していることがあるのであれば、それをお金に変えたいと思う気持ちは皆が同じく抱える欲求なのだろうか、あるいは私の個人的な性格の問題でしかないのだろうか。

例えば、私のこのnoteをマネタイズしようとすれば、書評ブログを書いたりして、アフィリエイトで収益を得たり、noteでエッセイを有料記事として販売したり、だとか。

もしくは何かしらのコンクールに投稿し続けることも夢があって素敵なことなのだろう(これは書き物をしたいものにとっては正攻法かと私は思いますので、以下ではこれ以外で、読書という趣味をマネタイズしたいと目論む欲張りさんの感情を深掘りしたいと思います)。

なお、はじめに断っておけば、これは私的なエッセイあるいは書評に限った話であり、他のジャンルのことは度外視で申し上げている。

noteで私的なエッセイなどの記事を収益化したい場合、それには、本業が作家や学者であること、ある程度認知度があること、などが売れるための基本的な前提条件のように感じられて仕方がない。すでに多くのフォロワーがいて「ファン」を獲得していれば、そのエッセイは売れるのだろう。なぜなら、それはほかでもない「あの人」が書いたものなのだから。

要するに売れるには「実績」あるいは「ファン」が必要なのである。「これはあの人が書いたものだ」というのは、商業的には極めて重要なファクターに違いがない。出版社というものはビジネスにほかならず、その本に売れる見込みがなければ出版する意味はないはずだからだ。

当然のことながら、出版社は労働者に給料を支払わなければならないし、取引先にも同様に商売があるのだから、お金を回し続けなければならない。収益を上げ、成長し続けられない株式会社には、市場において存在価値はない。身も蓋もない話であるが、これは真実だ。

その組織が非営利なのであれば、利益を追求することに存在意義は求めないので、それはそれでよい。だが、もしもそこにお金を生み出したいのであれば、市場のルールに従わなければ「成功」はできない。

我流で「成功」できるものは、ごくごく限られた「天才」のみであり、それには運も必要不可欠だ。だから、「天才」ではないその他大勢の人々は、お金儲けができるようなハウツーを渇望する。

そして、それらのハウツー自体が、ビジネスとして成り立ち、彼らはこの「ゲーム」を支配する。彼らは支配者あるいは管理者としてこの「ゲーム」において「成功」している。

繰り返すが、「何者でもない」個人が書いたエッセイや書評など、ビジネスの土俵には上がらない可能性が極めて高い。

「いやいや、これは私が全身全霊を込めて書き記したものであり、膨大な時間をかけて取り組んできた課題なのだ。私が描いた文書の数々は秀逸であり、これは人々を喜ばせるに違いがない」、人々にそのように評価される可能性はたしかにあり得る。

あり得る、が、その可能性は限りなく低いのだろう。そもそも、その作品を評価するのは他者であり、自分自身ではない。それが「良い」作品なのかどうかを判断するのは社会であり、自分自身ではない。

それがビジネスである限り、物事の価値判断の軸は世間が担うものだ。私は判断される側ではあるが、判断する側ではない。私は売り手ではあるが、買い手ではない。

だからもし「何者」でもない個人が何らかの作品を出す場合、まずやるべきことは自身の「ファン」を増やすことなのだろう。そのためには、フォロワーを増やすハウツーを学ぶ必要があり、必要であれば、そのような情報商材を購入してもよいだろう。

だが、現実問題として、その作品は私的なエッセイであり、書評にすぎないのである。自身の「売りたい!」という気持ちとは裏腹に、酷なことを申し上げるが、世の中の99%、あるいはそれ以上の人々は、そのような作品には無関心であり続けるのであろう。


2: カネを目的とするむなしさ

ところで、読書ブログを書くこと、書評を書くこと、何かしらのエッセイを書くこと、私はこれらの行為は決して「意味のない」行為ではないと言い切りたい。それらは無駄な行為なんかでは決してない、その根本目的がお金儲けではない限りにおいて。

そもそも、なぜ読書の記録を残すのか、それは本の内容を自身で咀嚼するためであり、自分自身の考えを書くことによってあぶり出し、問題意識を明確化させて、知恵を深めていくためである。あるいは、そのようなニュアンスのためである(と思う)。それから、なぜエッセイを残すのか、これも上記のニュアンスと同じようなものであろう。

また、そもそもなぜ、本を読むのか、それはただ知りたいからである。ただ、世の中の仕組みがどうなっているのか、人間とは何なのか、感情とは何なのか、私とは何なのか、とにもかくにも知りたいから知りたいのであり、とにもかくにも楽しいから楽しいのである。

ここには純粋な目的があるだけなのだが、ここの目的をビジネスにしてしまうと、私たちのほとんどは可哀想なくらいのむなしさに苛まれてしまうこと請負だ。その感覚は、あまりにもむなしい。むなしすぎるほどにむなしい。

何をしても、何をしても、報われることがない。この倦怠感はとても辛いものだ。それこそ、不幸を絵で描いたようなひどさだ。

よく、読書量は年収に比例するだとか、そのような記事をGoogle上で見かける。具体的にビジネスで即戦力的に応用するならまだわかる。それはビジネスで必要なスキルだ。だが、年収が上がるから読書をするというのでは、たぶんその動機は悲しいかな、むなしさを生み出すのだろう。

「私は年間何百冊も読んでいます」、もしもその実績が何かしらのビジネスに結びつくのであればそれは素晴らしいことだと思うのだけれど、もしもビジネスとは関係ないのであれば、そのようなことは別に他人に言わなくてもいいことなのかもしれない。

そのようなことは他者にはほとんど無関係のことだ。それをわざわざ他者に言うということは、それを言うことによって何かしらの利益を得られる見込みがあるからであるか、単なる見せびらかしにすぎないのどちらかであろう。後者は要するに、自惚れにすぎない。

「趣味の読書をマネタイズしたい」、このような意欲に対しては自身の感情をよくよくと検討すべきなのかもしれない。なぜお金が欲しいのか、読書をしているだけでは足りないのか、なぜ書評を書くのか、なぜ読書感想文を書くのか。なぜ、なぜを繰り返し問わねばならぬ。


3: しかし読書とは「意味のないもの」ではない

そうすると、どうだろう。そこには純粋な動機が立ち現れてくるのではないか。つまり、その行為が好きだから、これに尽きる。好きだから、誰に言われるまでもなく、本を読むのだし、書くのだし、考えるのである。

別に誰かに指示されているわけでもなし、やってもいいしやらなくてもいいが、やらないとなんだか気分が整わない。ただそれをすることが生きることになっている。ただそれをすることがよろこびとなっている。そんな動機である。

私たちはこの動機の深淵をじっと見つめなければならない。本を読むというこの気持ちを、書くというこの気持ちを、考えるというこの気持ちを、心が動かされるその動機こそが真実である。繰り返すが、カネのためという動機は、よろこびの代わりに必ずやむなしさを生み出すのだから、決してそのような甘い蜜には負けないようにしよう。

とはいえ、これらの行為をさらに根詰めて考えていくと、そこには他者の存在があるのではないか。もしも仮に、これらの行為が完全に自己完結的であれば、作家の方々は世に本を出す必要がないのではないか、過去の偉人賢人たちも古典を残す必要などなかったのではないか。

しかし、そうではないからこそ、書物が存在するのではないか。知恵というのものは、つねに人類のためにある。それはすべての人々のためにある。それは個人が所有する資産ではなく、みなに共有されることを欲する。

この点について、池田晶子はこのように述べている(ちょっと長い引用ですが)。

もしも、個性とは、個性的になろうとしてそうなるようなものであるなら、そこには必ず他人との比較があるはずだ。人と同じようにはするまい、人と同じようにはなるまいという、他人を気にする気持ちがあるはずだ。
(中略)
どうしてもせざるを得ないことのない偽物にとっては、自分の欲得だけが行為の動機だ。彼は自分を超えたものなんか知らない。本物の人はそういう力に衝き動かされて描いているなんてことは、知るよしもない。ここに人間の堕落が始まる。
(中略)
もしも、ある人の仕事、ある人の姿が、他の人に感動をもたらすとしたら、それは、その人の仕事、その人の姿が、その人でありながらその人でない、その人を超えた何か大きなものに触れているからだ。だからこそ、それは、その人ではない他の人にも、感動を与えることになるんだ。
(中略)
問題は、君が天才と共に天を見られる人であるかどうかということだ。天を見るとはどういうことか、もうわかるよね。ちっぽけな自分を捨てることだ。無私の人であることだ。君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。人は、個に徹するほど天に通じることになる。

池田晶子『14歳からの哲学』(トランスビュー)
19「本物と偽物」より引用

その行為の根っこには、利己的な動機は存在していない。要するに損得勘定では、測り得ない動機がそこには存在するのである。有名になりたいだとか、ちやほやされたいだとか、お金持ちになりたいだとか、そんなことは結果であって目的ではない。

結果として、ベストセラー作家はベストセラー作家になったのであって、おそらくはベストセラー作家になるためにベストセラー作家になったのではない。もしも、ベストセラー作家になるという一点のためだけに、そのようなことを目的と定めて、そうなろうとしているのであれば、私はそこにむなしさを感じてしまう。そんなの、とってもむなしいことだ。

そうではなく、彼らのうちのホンモノは、好きだからそれをしているはずである。彼らの行為はホンモノなのであり、決して「意味のない」ものなんかではない。

これを忘れてしまうと私たちはそこに無理矢理にも意味を付け加えようとする。つまり、それがカネになるか、ならないかという残酷な意味付けである。カネになれば有用なのだし、カネにならなければ無駄なことなのだと彼らは認識をする。

行為に意味を付けようとするからおかしくなる。もしそうであるのならば、ほとんどすべての人々の行為はむなしいものとなるのだ。


4: スキに身をまかせるよろこび

しかし、これは断言してもよいが、そんなことは決してない。

生きるために書くのと、書くために生きるのとでは、人生への態度は全く違うことに気が付かなければならない。書かないではいられない、読まないではいられない、考えないではいられない、描かないではいられない。生きるために行為しているのではない。行為すること自体が生きることなのだと私は思う。

池田晶子も指摘しているが、ゴッホの生涯はこれを体現しているかのようである。結局、ゴッホは絵で稼ぐことはできなかった。彼の資金を援助していたのは、弟で画商のテオである。ゴッホは自分の絵では食っていけなかった。

もし生きるために描いていたのだとすれば、ゴッホの生涯は非常にむなしいものとなったに違いがない。しかし、そうではなく、彼は描かないではいられなかったのである。ゴッホにとって描くことはすなわち生であった。

その生活が実際問題として、苦悩に満ちていたとしても、生を賭けるだけの何かがそこにはあったのである。

 現在君もときおり空虚感に襲われると言うが、まさしくそれは僕とおなじだ。
 われわれが今生きている時代を、芸術のすぐれた本当のルネサンスだと考えてもいいし、たしかに蝕まれてはいるが正式な伝統は未だに残ってはいる、だが底を割ってみればそれも無力でだらしのないものだ。新しい画家たちは孤立していて、貧乏で、気違い扱いにされる、こうした扱いの結果、少なくとも彼らの社会生活は、ほんとうの気違いになってしまう。

『ゴッホの手紙 中』(岩波文庫) 翻訳 硲 伊之助
第五一四信より引用

そのようなピュアで美しい志は、池田晶子も指摘しているように、個人を超えるものである。好きを突き詰めるということは、個人を超えることなのかもしれない。

そのような意志は他者との共有を望む。他者によろこびを与えることを欲する。純粋に好きなことを共有するもの同士の対話は、美しいものである。

これは私個人の解釈にすぎないが、ゴッホのひまわりが有名なのは、そこに彼の他者(ひいては人類への)への愛情が溢れているからである。彼のひまわりは、フランスのアルルで共同生活を志したゴーギャンと、弟のテオへの友情と、これからの未来を祝福するために準備された傑作である。

ゴッホにとって、暗闇の中の一点の光、それは他者という存在だったのである。そのような視点でひまわりと対峙してみてほしい。きっと、何か偉大で暖かいものに触れているようで、鳥肌が立つに違いないから。

好きを突き詰めて考えていこうじゃないか。

私たちの行為は他者貢献のためにあるのかもしれない。

純粋な気持ちというものは、忘れたくないものである。

そんな気持ちを誰かとシェアできたら素敵だなあ、そんな思いで、私はnoteを継続しているのかもしれない。



PS: なので(ここまで読んでくれている方はほとんどいらっしゃらないのかもしれませんが)、スキやフォロー、コメントしてくれると、とっても嬉しいです!

2024/04/06


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