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「暇」を健全に感じる方法について。

文字数:約9,120

毎度、何の前触れもなく申し訳ございませんが、ふと、虚無感について考えてみたくなったから、ここに書きなぐってみたいと思います。漠然とした将来に不安を抱える同士諸君に向けて、暇だとか虚無感、そこから派生する倦怠感や人生への無気力感に関する、僕なりの考えをここに書き下そうと思う。そして、僕たちはどうすればよいのかの、一つの指針を導き出せれば幸いである。ただ、僕にはそのような普遍的に近しい回答なるものは、導き出せないのかもしれないが、ここは一つ気張って見ようと思うわけなのだ。




1: 虚無感の根っこは、他者への承認欲求である

仕事を、気を紛らわすという側面から観察すると、その有用性はいくら強調しても足りないほどだ。僕たちは、暇な時間に耐えることができない。仮に暇な時間ができたとする、自由に使える時間ができたと言い換えてもよい。「どうしようか、何をしようか、何か楽しいことはないか」。そうやって僕たちは自問自答を始める。

すでにそのような時が来ることを予期して、空いた時間にはこれこれをしようと準備する人がいる。あるいは、その時になって、どうしようかなあと頭を悩ます人々がいる。

暇を楽しむ、というのはとても難しいことだ。僕たちは、暇そのものを楽しむのではなく、暇な時間を何かに使用することによって、その何かに対して楽しみを見出すからである。つまり、暇とは避けられるべきものとして僕らは認識をする。

何もすることがないと人々は嘆く。何をすればよいのかわかりませんと人々は嘆く。虚無感は、人を破滅に導く可能性のある健全とはほど遠い感覚の一つである。虚無感を抱くとき、人々は焦る。今のままでよいのかと僕らが僕らに問いかけては、時間を駆け抜けるように走る人々を羨ましく思う。

困ったことに、羨ましいと思う気持ちが、僕らの虚無感をさらに加速させるのだ。他者を羨ましく思う気持ちに、虚無感の根っこは潜んでいる。彼らは、僕には無いものを持っているように見える。つまり、彼らには彼ら自身というアイデンティティがあるように見えるが、僕には僕のアイデンティティが無いように見える。

僕には、なんの特徴もない、これという趣味もない、周りに秀でた技術もない。「他者と比較するからいけないのです」、というクリシェは、残念ながら僕らには響かない。「承認欲求とは悪者です」、という耳にタコができるほど聞いた説教は、頭では理解できても、心からそのように体現することは難しいことだ。

僕らはブランドで着飾る人々を嘲り、外車で街を滑走する人々に目を細める。でもそれは、隠しきれない僕ら自身の承認欲求ではないか。彼らは巧妙に僕らの思考と感情とを操作する。隠そう、隠そうとする自意識は、裏目に作用することが多い。そのような態度は、不恰好なものとなることが多い。

でも僕は、もしそうできるのであれば、もっとさっぱりとしていたい。


2: 暇とは、観念にすぎない

暇そのものは、耐えられないものである。何もしないということは、文字通り、何もしないことだ。ただ、何もせず、じーっとしていることだ。考えることもせず、寝ることもせず、スマホをいじることもせず、本を読むこともせず、瞑想することもせず、ぼーっとすることもせず、ただ何もしないことだ。

ぼーっとすることは何もしないことなのではないかと思う人もいるとは思うが、「する」は動詞で、「ぼーっと」は「する」の目的語であるとすれば、それは「ぼーっと」は「している」のであり、何もしていないとは言えないだろう。

しかし、そうすると厳密に考えて行けば、何もしないことというのは、少なくとも何もしないということはしているわけでもあり、何もしないということは、実は不可能なことなのかもしれないが、それは今回の論考からはかけ離れたテーマとなりそうなので、深追いはしないでおこう。

ところで、暇とは、すなわち何もしないことである、と僕の頭の中にはポっと浮かんできたのだが、その図式で合っているのかどうか、ということも考えてみなければならないだろう。

暇とは、何か。暇とは、時間の概念の一つである。それは時間のうちの一つだ。普通、僕たちは、暇な時間と暇ではない時間という風に「暇」という言葉を使用する。暇な時間は、暇ではない時間ではない。「暇」に相対する言葉の代表例は、「暇ではない」である。

では、「暇ではない」とは何か。人が暇ではないとき、その人は何をしているのだろうか。何かをしてさえいれば、その人は「暇ではない」と言えるのだろうか。

例えば、その人が、ご飯を食べているとする。食事中であるということは、その人は「暇ではない」と言えるのだろうか。例えば、その人が、休日の平凡な昼間に、他にこれといって「何もすることがない」から、ぼんやりとテレビを眺めているだけなのだとすれば、その人は「何か」はしているのであり、したがって「暇ではない」と言えるのだろうか。

普通、僕らは、このように「暇」という言葉を使用しない。食事中であろうが、ぼんやりとテレビを見ていようが、暇を感じることはある。「暇」を「感じる」と書いたが、暇とは感じられるものである。

暇とは感じられるものであるが故に、それは個々人のニュアンスの問題でもある。誰かにとっては暇に見える時間も、その当事者にしてみれば暇などではない場合などいくらでもあるだろう。暇であるかどうかを規定するのは、他者ではあり得ない。暇であるか暇ではないのかは、自分以外は規定し得ないのである。

つまり、暇とは、具体的な現象を表現する言葉というよりは、僕たちの観念そのものと言える言葉である。暇とは何もしないことなのか否か。暇とは何もしないという具体性を伴う行動そのものを指す概念ではなく、「僕は(私は)何もしていないから、何かをしないといけない」という観念が生み出す感覚にすぎない。「僕は(私は)何もしていない」と書いたが、この場合の「する」も、観念的な「する」を意味する。具体的に何かの行動をしている時でも、「ああ、俺は何もしていないなあ」と感じることはある。


3: 故に、暇という事実は存在しない

暇というのは時間のうちの一つである。その時間をどのように使用するか、という人々の考えが、その時間を暇であるか、あるいは暇ではないかと判別する。暇とは時間という名詞に対する形容詞だ。人々がその時間を暇だと形容するから、人々はその時間を暇であると形容するのである。

暇とは、事物ではない。もし仮に暇が揺るぎのない事物であるとするならば、空いた時間や自由な時間という場合の、「空いた」や「自由な」という形容詞は、なぜ「暇な」ではなく、代わりに「空いた」や「自由な」という表現を使用する必要があるのだろうか。

例えばこのような場合はどうだろう。平日の朝起きてから会社での始業までの時間。この時間をいかに形容するかで、その時間が僕らにとって、どのような時間であるかが規定される。

「身支度をして、通勤しなくちゃ」と思う人にとって、そのような時間は何と形容すればよいか。少なくとも、暇な時間ではないだろう。それは起きてから家を出るまでの朝食と身支度以外の「空いた」時間であり、電車の中での「自由な」時間である。

僕たちは、このような時間に対して、暇という名前をつけることは少ない。それは単なる空き時間であり、単なる自由な時間である。暇ではないが、暇ではないわけでもないような、そんな絶妙な時間感覚。では、何が僕たちをあるときには暇だと思わせ、あるときには暇だと思わせないのだろう。

次の場合はどうだろう。何一つ予定のない休日、朝起きてから、朝食を食べるまでの時間、昼食を食べるまでの時間、夜ご飯を食べるまでの時間、寝るまでの時間。僕たちはこのような時間には、「暇」という名前をつけることが多いのではないか。

この時間に対して、「暇」の代わりに「空いた」や「自由な」という言葉を当てはめられる人々は幸いである。彼らにとって、その休日は何一つ予定のないものではあるが、これからする物事が彼らの頭の中にイメージとして存在しているが故に、彼らはその時間を自由に使える貴重な時間という風に捉えるのである。

もはや彼らの休日は、何一つ予定のないものではなくなった。前の日の晩には何も予定がなかったが、何かをするという意味では、今では予定があるのだ。彼らは暇ではない。彼らの休日は、「暇」という言葉で形容するには、あまりにも創造的だからである。

「読みたかった本を読もう」、「観たかったNetflixを観よう」、「行きたかった場所に行こう」、「食べたかったご飯を食べよう」。そのほかなんでもよいが、彼らはその時間を利用して、やりたかったことに取り組もうとする。何をしてもよいし、何もしなくてもよい。「何もしない」ということを選択してもよい。

彼らにとって、それらの時間は思いのままである。


4: 未来への解像度の低さは、人々を不安にし、虚無感を抱かせる

さて、これら二つの例を考えてみると、暇という概念は、未来と密接に関わっているように思われる。何が僕らを暇と感じさせ、暇とは感じさせないのか。一つ目の平日の例では、業務がすぐ目の前の未来にあるが故に、僕たちは目覚めてから始業するまでの時間を「空いた」時間と形容することはあるが、多くの場合、その時間を「暇な」時間であるとは形容しないのである。

通勤時の電車の中で、「ああ、仕事は面倒くさいなあ、嫌だなあ」と思うことはあるが、「ああ、仕事までの時間、暇だなあ。どうしようもなく暇だなあ、僕はどうすればいいのかなあ」というようには、賭けてもいいが、僕たちは思わないものだ。

やるべき仕事に遠くない未来に取り組まねばならない場合、あるいはそのように予定が組まれている場合、僕たちはそれまでの事実として空いている時間を「暇」だとは感じにくい。それは単に「空いた」時間であり、「自由な」時間であると僕たちには認識されることが多い。

しかし休日には人々の差異は著しいものとなる。事実として空いている時間に対する未来のイメージが明確な人々と、その逆に漠然としたイメージすらない人々との差異は明確である。何の差異が明確なのかと言えば、時間の捉え方の差異が明確なのだ。

等しく与えられた自由時間でも、ある人には暇となり、ある人には暇とはならないのは、未来の解像度の違いであると僕は思う。やりたいことがはっきりしている人は幸いである。しかしながら、そうではない人々もいる。そもそも、やりたいことが何なのかがわからない、という人々である。

これは特に大学生のモラトリアムな時期に顕著な傾向ではないだろうか。高校生の時には、未来の解像度は極めて高い。なぜなら、多くの人々は大学への進学という未来が見えすぎるほどに見えるからである(もちろん大学進学以外の未来もあるが、もしそうだとしても、彼らは彼らの目標があまりにも明確であるが故に、彼らの未来の解像度は高いはずである)。

ところが大学生になれば、特に就職活動を迎えた大学生にとって、その多くは、これから先の未来の解像度の低さに愕然とする。少なくとも、何がしたいのかなんて僕にはちっともわからなかった。漠然とした未来に不安を覚えると同時に、万人に等しく分け与えられた自由な時間に、暇という烙印を押してしまうのである。


5: しかしながら、未来への不安は、避けることができない

暇とは、未来の捉え方の問題にすぎない。未来に不安を覚えれば、僕たちは暇を感じやすくなり、未来に希望を見出せば、僕たちはその時間を暇とは感じにくくなる。

この場合、気晴らしに未来の不安を払拭するだけの力があるのであれば、僕たちから暇を取り除くことができるが、そうではない場合には、僕たちの不安は増殖する一方ではないか。いや、しかし、もしかすると、いかなる気晴らしも未来への不安というものは消し去ることなどできやしないのかもしれない。不安は不安であり続ける。未来が不確実なものであるとするのであれば、また僕たちが不確実なものに対してそれが不確実であるが故に不安を覚えるのだとすれば、未来への不安というものは不可避な存在ではないか。

もし仮に未来の確実性が高いのであれば、僕たちの不安は軽減されるだろう。それが、朝9時からほぼ確実に始まる気だるい仕事だとしても、不安の軽減には小さくない効用を示すのである。しかしながら、未来はほとんどの場合、不安定で不確実であると言わざるを得ない。それは神のみぞ知る領域である。未来を予測することなど誰にもできないのだから、僕たちは未来に対する不安を否が応でも抱えているのである。

誰もがその大小は問わず、未来への不安を抱えているのであれば、今この瞬間を暇だと感じる人と、そうは感じない人との根本的な違いはなんだろうか。何か具体的にやりたいことがある人は暇だとは感じず、やりたいことがない、あるいはやりたいことが何なのかが分からない人は暇だと感じるのだろうか。

仮にやりたいことが、文章を書くことだとする。ところが、文章を書いていてこう思うとしよう。こんなことをしていて、何になるのか、と。「こんなことをして、何になるのか」というフレーズの背景には、未来の自分と現実の自分との葛藤が隠れている。今と未来、どちらに焦点を当てるかで、僕たちの態度は一変する。

もしも仮に、僕たちが何かやりたいことをしていて、「でも、こんなことをして、未来の僕にとって何になるのか」と思ってしまうのだとすれば、それは自分が今やりたいことにフォーカスをしているというよりは、未来の自分がどうなりたいのかにのみ、その視線は注がれているのである。

未来への漠然とした不安は虚無感を生み出す。「ああ、暇だなあ」という何気無い一言は、自らが自らに発する救難信号である。虚無感は、人生への無気力感へと繋がる。「どうせ僕なんて、どうせ私なんて、何をしても……」といったような言葉は、とても健康的とは言い難い。

しかしながら、未来とは不確実であるが故に、また不確実性には不安が伴うが為に、不安とは避けられないものである。この事実に、僕たちは絶望する。

とはいえ、ここで僕たちが考えなければならないのは、不安や絶望は避けられるべきものであるか否かである。つまり、不安や絶望とは悪者であるか、あるいは良い意味での不安や絶望もあるのではないか、というコペルニクス的な思考の転換である。

この時点において、僕たちは暇を凌駕することができるだろう。


6: 僕たちは絶望することで、自らの創造性を爆発させる

不安が不可避であるとすれば、それらを避けないでいることこそが健全な態度ではないだろうか。誰もが、絶望するのであれば、絶望することこそが健康な状態なのではないだろうか。なんだか、このように書けば、過激な思想を唱えているようなのだが、あくまでも僕は、もしそれが事実として避けられないのであれば、その事実を捻じ曲げてまで、無理矢理に避けるようなことは、そのどちらがより正しいかという意味では、避けるほうが正しいと思うと言っているまでのことだ。

実際、避けなければ死んでしまうのであるとすれば、避けなければならないが、事実として、もしも仮にそれが必ず避けられないものであるとすれば、僕たちはどうすればよいのだろう。避けようとするから、ねじ曲がるのだ。僕の考えでは、諦めという言葉は、なんて希望に溢れた言葉なんだろうと思う。

人が本当の意味で諦めるとき、人は何かをすべて投げ出すのではない。それらすべてを受け止めるのである。

そのとき、僕たちはやっと今に集中できる。今という最も創造的な時間に、一心不乱に取り組むことができる。

未来とは創造的ではない。なぜなら、未来とは創られるものではあれど、創るものではないからである。同じように、過去も創造的ではない。なぜなら、過去とは創られたものではあれど、創るものではないからである。逆に、現実とは、あまりにも創造的である。作っては現実が過去となり、作っては未来が現実となる。

明日のことなど、僕らは誰も知らないが、知り得ないものを知ろうとするのは、無謀な態度ではないだろうか。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイによる福音書6の31-34

かのフリードリヒ・ニーチェは、このような避けられない事実に対して、永劫回帰という生の絶対的肯定を表明したのである。繰り返し繰り返される毎日は、その不確実性、不安、絶望は避けることができないのだとすれば、僕たちにできることは、この一日を一生懸命に生きることだけなのかもしれない。

だから賢人たちは口を揃えて、今に生きよ、と僕たちを説教するのである。

「暇」という言葉は、必ずしも避けるべき言葉ではないのかもしれない。しかし、その場合、「暇」というのは、否定ではなく肯定で使用しなければならない。もしも僕たちが僕たち自身に向かって、否定的に「暇だなあ」というときには、警戒すべきである。それは、自分自身の救難信号である可能性が高いからである。

もしも仮に、肯定的に「暇だなあ」と僕たちが発することができるとき、僕たちの創造性は爆発するのである。究極的には、人類の文明の歴史はそのように発展してきたのかもしれないが、そのようなことを述べるには、僕の力に余る。


7: 「僕は暇だ」と文字に書き出すことで、その虚無感は解消される

「暇」という言葉のニュアンスには、大きく三つの種類があるように僕は思う。ネガティブな意味と、ポジティブな意味と、そのどちらでもない場合の三種類である。人々が「暇」を問題にするとき、それはネガティブな意味の「暇」を問題にすることが多い。

ネガティブな意味の「暇」は、人々に虚無感や、人生への無気力感を生み出し、ひいては精神的な病気にも繋がる可能性のある危険な事柄である。僕たちは、是が非でも、このような状態は避けなければならない。ところが、未来の自分が使用する「自由」で「空いた」時間というものは、避けることができない。さらには、未来の不確実性は避けることはできない。

しかし、「不安」や「絶望」や「暇」というものは、具象ではなく、極めて抽象的な観念にすぎないのである。故に、そのニュアンスはいかようにも変えることができるのである。客観的にではなく、あまりにも主観的な方法を用いることによって。

だが、実際に人生に「虚無感」を感じている人にとって、「いやいや、それは君の感じ方次第だよ。だから、君が意識して君の意識を変えれば、君の虚無感は消え去るよ」と処方箋を出したところで、そんな薬はおそらく効き目がないだろう。意識が変えられないから、困っているのである。そんな人に「意識を変えましょう」とアドバイスしても、なんの腹の足しにもなりやしない。

では、どうすればよいか。おそらくは具体的に行動することが人々を癒すのだろう。未来に不安を感じているのだから、その意識を今という瞬間に向けさせることができれば、人々の精神は癒される。「こんなことをして、何になる?」という意識が上がってこなければ、何をしてもよいと僕は思う。ゲームであろうが、ギャンブルであろうが、本当に何をしてもよいと僕は思う。

そう思うのだが、もしもその行為に少しでも後ろめたさがあるのであれば、それは人々の癒しとはならない。未来への否定的な不安が、心の片隅でどっしりと構えているからである。例えば、「暇」だから映画を観に行って、「ああ、つまらなかった、時間の無駄だったなあ、ああ、明日は仕事、嫌だなあ」と嘆いているのであれば、その映画鑑賞は、僕たちの癒しとはならないのである。

そもそも、否定的な意味の「暇」を感じている人にとって、何をすればよいかがわからないことが一番の問題である。何をすればいいかを考えることは苦痛でもある。それは、「自分は本当は何を好きなのか、やりたいこととは何か」という自己分析的作業に近いからである。自己分析は、過去の辛い記憶も呼び起こす。すでに苦しいのに、その苦しさに苦しさを掛けることは、あまり得策ではないだろう。

そこで、これはあくまでも僕の考えにすぎないが、「虚無感」を感じてしまったら、そのこと自体を分析してみるといい。「虚無感」とは何か、と自分のこの感情とは何か、とそのように自問自答してみるがいい。文字に書き出すことによって、僕たちが考えている思考はよりクリアになるから、できれば実際に文字にすることをお勧めする。手書きでも、パソコンでも、スマホでも何でもよい。そのロジックは曖昧でもいい。とりあえず、書けばいい。


8: 僕らはみんな、アーティストである

これは僕の感想に過ぎないが、「僕は暇を感じているのだが、この暇の正体とは何だろう」、とそのように考えていく作業自体が結構楽しい。書くことは創造的な作業であると僕は信じている。書く以外でも創造的になれるとは思うが、自身の頭の中で抱える漠然とした「不安」を解消するには、「不安」そのものを解消するというよりも、まずはその漠然性を解消すべきと僕は思う。そのためには、曖昧な思考の解像度を上げる目的で、言葉を書くということは、割と意味のあることなのではないかと僕は思うわけなのだ。

すると不思議なことに、僕たちは気がつけば、現在に集中するようになっている。今、僕は何を考えているのか、ということに焦点を当てれば、すなわち、それは今、この瞬間に焦点を当てているに等しいからである。

そして、気がつけば、今まで否定的な意味で「暇」だった時間は、肯定的な意味へと昇華される。その空き時間は、あなたにとっての貴重な「自由」時間であり、あなたがワクワクすることにその時間を自由に使用することができるのである。僕たちは、暇であるし、暇ではない。僕たちはあまりにも自由だからである。

最後に、「暇」という言葉を否定的な意味でも、肯定的な意味でも使用しない人たちについて。彼らこそ、真の意味で、創造的な存在であると僕は思う。一心不乱に没頭する彼らにとって、「暇」という意味の考察など、どうでもよいことなのである。そんなことよりも、彼らには目の前に描くべき対象があるのだから。

彼らは芸術家と呼ばれている。誰が何と言おうが、彼らはアーティストである。

多分、僕らはみんな、本当はアーティストなのである。


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2024/07/04

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