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「考え」なければ、人生に「真面目」になれるわけがない。池田晶子『無敵のソクラテス』

文字数:約7,010


池田晶子は、昭和から平成にかけての文筆家、もしもご存命でいらっしゃれば今年で64歳。

池田晶子を記念した「わたくし、つまりNobody賞」という賞があり、その公式HPにはこのように書いてあります。

 彼女は、いつも次のような考え方を示唆しています。
 考えているその時の精神は、誰のものでもなくNobody。
 言葉は誰のものでもないけれども、それが表現されるためには、誰かの肉体を借りるしかない、そうして現われてくる言葉こそが、人の心を捉え、伝わってゆく……。
 大事なのは「誰が」ではなく、誰かによって発せられた「言葉」が、次の時代の人々に引き受けられて、我々の「精神のリレー」が連綿と続いてゆくことである、と。

以下は、池田晶子『無敵のソクラテス』を読み、私の頭に浮かんできたことを乱暴にまとめたものです。書評ではございません。


なお、池田晶子の『無敵のソクラテス』には、池田晶子によるソクラテス対話篇作品たる『帰ってきたソクラテス』、『悪妻に訊け』、『さよならソクラテス』、などが収録されています。全521ページ、1ページは上下2段に分かれて分けられて構成されており、とてもボリューミーな一冊です。





1: あなたは「わからない」ことが「わからない」ことであることは「わかる」

「考えているその時の精神は、誰のものでもなくNobody。」

どういうことなのだろう?

「考える」の主語は、ほかならない「私」なのだが、その主語である「私」のことを、さらに俯瞰して「私」なのだと考える主語としての「私」とは、誰なのだろう。

この場合、主語を求める作業には際限がない。

「私」とは誰なのかを「考え」ている主語としての「私」とは誰なのかを「考え」ている主語としての「私」とは誰なのかを「考え」ている主語としての………。

要するに、それは「わからない」のだ。

すると、いじわるな彼女は、このように私に問いかけてくる。

「わからない」ことを「わかる」ためには、その「わからない」ことが「わからない」ことであると「わかっている」必要があるのだけれど、「わからない」ことを「わからない」ことなのだと「わかっている」のであれば、それはつまり、「わかっている」ということなのでは?

「わからない」ことを「わからない」ことであると知るためには、「わからない」ことと「わかる」ことを区別して知っている必要があるが、であれば、「わからない」ことを「わからない」ことであると知っているということは、あなたにとってそれはあなたの「わかる」ことではないと知っているからこそ、「わからない」と言えるのでは?

だから、あなたはもうすでに、実は「わかっている」のでは?

「わからない」ことが「わからない」ことであると「わかる」のであるならば、あなたにとって、それは実は「わかっている」ことなのでは?

はたして、「私」は「わかっている」のか、あるいは「わかっていない」のか、どちらなのだろう。

「わかる」ということは、すでにそれらは、あなたにとっての「わかる」ことなのだと知っているということだ。すでに知っているということは、それ以上、知る必要がないということだ。

すでにあなたにとって「わかっている」ことについては、あなたはあえて知ろうとはしないはずである。なぜなら、あなたはそれらのことをすでに知っているがゆえに、それらの事柄について知りたいというあなた自身の意欲はほとんどの場合には芽生えないはずだからである。

しかし、あなたがそれらを「わからない」と「わかっている」のであれば、それらはあなたにとっては「わからない」ことなのだから、あなたにはそれらについて知りたいという意欲が芽生える余地がある。「わからない」ことを「わからない」ことであるとあなたは「わかって」いたのだとしても、それらは結局はあなたにとっては「わからない」ことであり続ける。


2: しかし、「わかる」「わからない」は実はどうでもよいことなのである

結局のところ、それらが「わかる」ことであるのか「わからない」ことであるのかは、もはやどうでもよいのかもしれない。なぜなら、大事なことは、あなたの、その知りたいという精神そのものだからである。

この「考え」を「考え」ている「私」、そして、そのような「私」を「考え」ている「私」、それが誰なのかという問いに対して、それは「わからない」ことである、とするのは模範解答にはなり得るが、その回答自体にはあまり意味はない。

「わかる」あるいは「わからない」、世間は物事を二つの両極端な側面から眺めることが好きだ。彼らは「わかっていて」、彼らは「わかっていない」、そうやって二つに分割した方が、管理自体はしやすいのだろう。

はい、「わかっている」人はこちらへどうぞ。はい、「わかっていない」人はこちらへどうぞ。まるで、天国か地獄の門番の前で、順番待ちをする人たちみたいに。

「わかる」ことが「わかる」、「わからない」ことが「わかる」、「わかる」ことが「わからない」、「わからない」ことが「わからない」。

「それって、かのソクラテスの〈無知の知〉だよね」、「デカルトは〈我思う、故に我在り〉って表現したよな」、「モンテーニュは〈クセジュ=私は何を知っているか〉とも言っていたっけ」。

問題は、あなたがそれらを「わかっている」か、あるいは「わかっていないか」という単純な二択ではない。この問いかけは、二択などではない。

「私」とは誰なのかを「考え」ている主語としての「私」とは誰なのか?

この質問に対して、「わかる」あるいは「わからない」という答えそのものは重要ではない。重要なことは、なぜあなたはそれを「わかる」と導き、あるいは「わからない」と導いたのか、その論理的思考の過程だからである。


3: なぜなら、「考える」こと自体が全てなのだから

「考える」とは、感情的な個人個人の感想や意見ではない。それは、神の代理人である因果律に基づいているからである。

ある人はこの「考え」に賛成し、ある人はこの「考え」に反対する。それでよいのだ。

なぜなら、それはよりよい正しさに向かうための論理の研磨なのであるから。賛成する人々も、反対する人々も、ただ論理的な正しさを追い求めているだけである。純粋に知りたいから、その動機だけが全てであろう。

池田晶子は「考えているその時の精神は、誰のものでもなくNobody。」と言ったが、論理を追求する過程で、私たちは私たちの「私」を乗り越えていくのである。それは普遍を追い求める作業であり、より正しく、より良いものを目指す、神聖なる作業である。

ゆえにこの精神は、誰かに特有なものでもない。それは誰でも知ることができ、誰でも思考することができるものなのである。そのような意味では、「考え」ている「私」というのは、「考え」ている「あなた」でもありえるし、その主語の空間はまるで宇宙のように無際限に拡がるのである。

それが普遍を求める作業であるということは、そこには何らかの正解が確実に存在し得るということである。あるいはそこには正解などないということが正解なのだとしても、そこにはそのような形の何らかの正解が絶対にあるはずだ。普遍ということは、絶対という意味なのだから。

「考える」とは、正義を求めるための誠実な旅である。

これらの点に関して、池田晶子はこのように記している。

(ソクラテス) 哲学という思考は、人生について思考するからこそ、決して人生論にはならんのだ。「歴史理解」も「深い人間理解」も必ずしも必要じゃない。必要なのはただ思考が思考することを思考するというこのことなのだ。それを書物によらずに自分の頭ですることなのだが、これはやはりある種「独特の論理」ではあるのだ。そしてなお困ったことには、それを文章で表現するときに、該当する言葉が、この世にないのだよ。しかし、カントもヘーゲルもそれをやった。言葉のない「考え」を、何とか言葉にしてみせた。
(中略)
(ソクラテス) だから、「哲学の難解は字句の難解」、それはその通りなんだが、それだけでは決してないのだ。哲学の難解は、法律や税金の難解とはやはり違うのだ。字句の難解のその向こうに、「考え」自体の難解ともいうべきものが、じじつ、あるのだよ。いや、難解というより、むしろ奇妙というべきかな。普通の考えにとってはね。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第2章 『悪妻に訊け』「あたしの岩波物語」より引用

(ソクラテス) 考える人間が考えるのは、普遍的な真理を知るためだ。誰が何と言おうと、誰がどこでいつ考えようと、絶対に変わらない本当のことを知るために、知りたいと言う切なる欲求を押さえられないために、人は考えるのだ。考え続けて来たのだ。個人個人でもつ答やイメージなんてものを、僕は間違っても哲学の名では呼ばない。僕はそれはたんに意見か人生観と呼ぶ。そんなのは個人の勝手でいいものだ。個人の勝手でいいんだから、「ほかの人たちの考えを知る」必要だって、ほんとはないようなものなんだ。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第2章 『悪妻に訊け』「ソフィーの馬鹿」より引用


4: 「考える」ことで人は「真面目」になる

「考える」という行為はあまりにも「真面目」な態度であるように私には感じられてならない。人は真面目という性格を事前に保有しているから「真面目」になるのではない。

世間において、真面目という言葉は、「言うことを聞く」「素直で従順」というくらいの意味でしかない。そのような性質の人間を、世間では「良い子」や「おとなしい子」であるとカテゴライズしているにすぎない。

一般社会に関して、真面目という言葉が抱えるニュアンスは、とても真面目なものとは言えない。上の者が下の者を区別するための言葉ではあるが、その逆の関係性がなりたたないからである。対等ではないという一点において、不誠実なのである。

もしも真面目が誠実な言葉であるのならば、生徒から教師に対して、部下から上司に対して、子供から親に対して、「彼らは真面目である」という判断がなされてもよいはずであるが、実際にはこれらの言葉を言われた教師、上司、親は馬鹿にされたと思い憤怒するのである。

だから私がここで語る「真面目」とは、世間一般の真面目という意味ではない。そのような意味は一旦忘れて、たんに誠実なニュアンスであると理解してほしい(では、初めから真面目とは書かずに、誠実とかそのような言葉で表現しろよ、とお思いかもしれませんが、どうかそのような厳しいことはおっしゃらないでください)。

「考える」人は「真面目」である。「真面目」であるから「考える」のではなく、「考える」ことによって「真面目」な人格がにじみ出てくるのである。


5: 「真面目」に考えよう!

では「真面目さ」とは何か。

それは誠実に真実を求める心である。

「それってなんだか、うさんくさそう」
「宗教くさいなあ」
「スピリチュアルっぽくて、うわあ、って感じ」

誠実に真実を求める、なんて言った日には、一般大衆の中においては、このような揶揄が飛んでくること、ほぼ間違いなしなのだが、どうかそのような感情的反応はこらえてほしい。

イメージというものは、我々の想像以上に、強烈に危険である。世の中のほとんどの広告は、理性ではなく、感情に訴えるが、プロパガンダの秘儀を編み出したのは、かのアドルフ・ヒトラーである。

「真面目さ」とは、知性のなせる仕事ではあるが、感情がなせる仕事ではない。「考え」ていくことにより「真面目」になり、「真面目」に「考え」ていくことによって、普遍的な精神へと繋がっていく。

倫理とは何か、道徳とは何か、正義とは何か。

(ソクラテス) そう。「気づき」というのは奇妙なことだ。人は、正しい、正しくないと、自分で気がつく。自分で何に気がつくかというと、「正しさ」に気がつくのだ。「良心」とこの人は言うけど、僕はそれを「真理」と呼びたい。人は、自分の内に存在する真理によって、自分がうそをついていると、気づくことができるのだ。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第3章 『さよならソクラテス』「平気で本当を言う人たち」より引用
※「この人」とは『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』の著者M・スコット・ペック

これらは、「考える」ことでしか、立ち現れてこない。気持ちがいいからよい行いをするのと、よい行いをするから気持ちがいいのとでは、その差は歴然としている。

気持ちがいいという動機によって、よい行いをするのでれば、私たちは最大の間違いを犯す危険性がある。快楽という動機は、非常に強烈であるから、私たちはいくら用心してもし足りないことはない。


6: 美しい論理は、否定し批判されることを望む

「考える」とはパズルを組み立てるような作業である。パズルを組み立てて行った先に見つけたもの、その「考え」は真実である。

もちろん、人間なのだから、誤ってパズルを組み立ててしまうこともあるだろう。でも、その場合には、再度、論理を考え直して、パズルを組み立て直せばよいだけの話なのである。

あなたの組み立てた結果が、実際には論理的に間違ったものであったのだとしても、そのような他者からの指摘や批判に感情的になる必要はないばかりか、感情的にはなってはならないとも言えるのである。

なぜなら、それは普遍を求める作業ではあるものの、導き出した普遍の形をした何かの結果に固執することは、神聖なる精神というよりも快楽なる感情に根拠を求めることができるからである。

ある一つの「正義」に固執してしまえば、それ以外の正義は「悪者」であると認識される。もしそうなのであれば、その「正義」は「正しい」のであろうか、あるいは「正しくない」のであろうか。その回答は、論理的推論の美しさによって、導かれるべきなのである。

誤った推論は、ただ修正すればよい。何らかの意見に対して、あなたの感情が揺さぶられるとき、あなたが大事に抱え込む、それらの意見の論理は、もしかすると間違っているのかもしれない。

倫理とは、知的な推理なのであって、だからこそ、普遍的であり、美しく神聖なのである。

(ソクラテス) 僕のみるところ、人が猛然と嫉妬をするのは、男の場合は、金と出世とセックスだ。女の場合は、容姿、容貌、よい結婚だ。人はこれを絶対に認めない。しかし、これが異性同士の場合だと、すんなり認められるところをみると、やっぱり原因はそのあたりにあるのかな。なんか、情けない話だな。
 ところが、人間てのは面白いよねえ。この嫉妬という感情、恥ずべきものだということが、誰もがちゃんと、わかっている。なぜなら、それを、隠そうとする。他人に対しても、自分に対しても、それがないかの如く振舞おうとする。それを恥ずべきものだと思ってないなら、隠そうとするはずはないものね。しかし、その恥ずべき感情を自分が抱いているということは、自分にはあまりに明らかだ。おそらくそれは、苦しくなるほどそうなのだ。人はそれを隠しきれない、出してしまいたくなる。しかし、出すのは恥ずかしい。そこで人は、それを擬装して出す。その名が、「正義」だ。あるいは、「倫理」だ。正義と倫理が、嫉妬の別名なのだ。今や人は、堂々と人を責められる、「けしからん」。嫉妬の怒りは、正義の怒りとなって、世に正当な場所を得ることになるわけなのだ。
(中略)
(ソクラテス) 金と出世とセックスを羨まないことが君にできるかね。
(サラリーマン) −−−。
(ソクラテス) ほらごらん。誰も自分にできないことを、お互いに要求し合って、どこに倫理なんてものがあると思うのかね。世の中が悪いのを、いったい誰のせいにするつもりなのかね。

池田晶子『無敵のソクラテス』(新潮社)
第3章 『さよならソクラテス』「正義と嫉妬の倫理学」より引用


7: わたしもあなたも「ソクラテス」

「言葉は誰のものでもないけれども、それが表現されるためには、誰かの肉体を借りるしかない、そうして現われてくる言葉こそが、人の心を捉え、伝わってゆく……。
 大事なのは「誰が」ではなく、誰かによって発せられた「言葉」が、次の時代の人々に引き受けられて、我々の「精神のリレー」が連綿と続いてゆくことである、と。」

倫理とは何か、道徳とは何か、正義とは何か。

人類史において、約2500年前に知の爆発が起きて以来、「私たち」はこれらの普遍を導き出すべく、「考え」抜いてきた。

それは現代社会では、「哲学」や「フィロソフィー」という名前で呼ばれている。別にそう呼んでもよいし、そう呼ばなくてもよい。なぜなら、それは単なる呼称にすぎないからである。

象牙の塔にしまい込みたいこの気持ちは、どこから来るのか。じっと、自身に問いかけてみるべきなのだ。

で、そうして「考え」ている「私」とは誰なのか?

そう、それは「私」でもあるし、「Nobody」でもある。

で、「私」とは誰なのか?

「私」は「ソクラテス」である。

ああ、「私たち」はみんな、「ソクラテス」なのかもしれない、と。

あるいは、「私たち」はみんな、「池田晶子」なのかも、とも。



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2024/04/23




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