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根暗道・後編 【ネクラの夜明け】

どうも伊藤ですー
以前の根暗道の記事を読んでくださった人ありがとうございます。すごいノリで書きましたが、今回も誰かの暇つぶしになれば幸いです。前回は、誰かれかまわず恨みながら生きてやろうという感じで、「ダークサイドに堕ちシスに加担する」勢いだった小学生低学年でしたが、根暗の方向性が良い方にどんどん転換されていくお話です。結局は今に至るまで根暗なんですけどね。まあ根暗と折り合いをつけて結託した話ですね。はい。

根暗に一筋の光が見える小学 4 年生

時は小学年 4 年生。小学 3 年生で「感情は表現しない」「人は信じない」と誓いを立てたが、伊藤少年は何をしていたかというと相変わらず学校に通いながら習い事を勤しんでおり、鬱屈した根暗が心の中を埋め尽くしていたが、少しずつ活路を見出していた。
当時、通っていた学習塾があったのだが意外にこの塾、僕にあっていた。この塾は個人のお宅に作ったようなもので、先生と塾の雰囲気がすごくアットホームというか寛容性であったというか、学校終わりに行かないといけないという忙しさはあったもののどこか安心感を塾から得ていた。極め付けは共用のパソコンを用意しくれており分数の計算や漢字の入力などの学習ゲームを遊ばしてもらえた。それも僕にとってはすごい向いておりゲームが好きで、かつ、ルールを覚えるのが得意であったため、その相乗効果から勉強が進んだ。最終的には塾の先生が中学受験を進めてくれた。
これは驚きの選択肢であった。「地元の中学校に進学する」という選択肢しかないと思っていたのが「地元を離れる」という選択肢が出てきたのである。さらにそれを聞いた父も僕に選択肢を委ねてくれたので、これは僕の人生の転機だったし必要な環境に恵まれた瞬間であった。少し迷いはしたものの中学受験しようと決断した。当時受験戦争であり厳しい戦いになることはわからなかったが地元と自分の根暗が相いれないのが明らかであったので良い選択だったと思う。

個性的な人しかいなかった受験塾

ここからどんどん根暗が良い道に進み始める。中学受験用の塾に移った小学 5 年生。全ての習い事はやめ塾に専念することとなり、結果として 6 年生の後半は学校に行かずに塾でずっと勉強するぐらい忙しくなったが、また種類の違う人と話すこととなった。受験のための塾ではさまざまな個性的な人が集まっており、話し言葉が綺麗で勉強もできるようなまさに優等生な子から、チンパンジーのように叫びながら授業中に先生と算数の解き方について議論する奇才、自分の乳首をなめられると休憩時間に一芸を紹介する変態、まさに地元近辺でできるだけ才能を集めたじゃないかという才能のるつぼのような塾だった。(こいつらは全員男で、女の子はいっさいそんなことはなく真面目であった。)学校で見ない個性的な人種に圧倒されながらも学校に馴染めていなかった僕にとっては新鮮で、なぜか彼らを心から尊敬できたし馴染むにも時間はかからなかった。僕もそういう意味で当時からどこか多少変わっていたし、そこからどんどん個性的な人と話すのが好きになっていた。
その後、スパルタ教育する先生(イメージとしては「絶対合格」の鉢巻をまかせんばかりの勢いの先生)にあたり発狂したり、ストレス発散に地元の悪い奴とつるんだり、希望していた学校に受からなかったりなど、うまくいかないことはありはしたがなんとか学校に受かった。
結果的に、自分の学力は頭がいいやつのものに比べると敵わないと思い知り自信がなくなりはしたが、塾にいるときは受験という同じ目標があったと人と歪ながらも表現し合うことができ少し人は信じられるようになった。
余談として、ここで志望校に落ちた言い訳を述べておきたいが、誰かにやれって言われたことは適当なところで飽きちゃうんでだよなーということである。学習は好きだが、誰かに強いられた勉強な苦手であった。

自信をつけた中高時代

中学に入学後も根暗にとって良いことが続く。大阪の少し都会の方の学校へと進学することになった。中学受験はよかったものの、反面、自信をそこで失った。それをきっかけに「感情は表現しない」「人は信じない」というよりは、そもそも自分を信じれない状態、自信がないことが根暗を良くない方向に進ませているんじゃないかと思いはじめた。
そこで目をつけたのが「スポーツ」であった。運動できないことにすごくコンプレックスがあり、当時、テニプリが流行っていたので「おお!かっけええ!」とテニスをやってみたが僕の玉の軌道を読む能力、フォームをきっちり作る能力が壊滅的になく不向きを実感した。あまりにも楽しくないので 1 年半ぐらいでサクッとやめてしまった。
しかし、担任の先生がボート部の顧問をやっており「ボートは努力すれば勝てるスポーツ」と勧めていたので、そんなことを聞いたら「一発勝ち上がれんじゃね」「勝ち上がったら自信つくんじゃね」とその気になり伊藤少年、秒で体験入部を希望しすぐに入部することになった。確かにバランス感覚とパワー、持久力、頭の良さが重要なスポーツであったため、スポーツの才能がないという人でも根性でなんとかなりそうな感じがした。そうすると中学生、高校生の成長期も相まってどんどん肩幅も逞しくなり、時たま試合に出場するほどにうまくはなった。結果的には紆余曲折もありながらインターハイでチームとして出場し準優勝まで勝ち上がることができた。この時期は自信がない自分と正面から一番ぶつかっていた時期であり心から信頼していた仲間と血を騒がせながらトレーニングしていたことはとても貴重な体験となった。
ここで接してくれた人の各々のたくましさや優しさから、この辺からやっと血の通った人間ぐらいになり人並みの自信はおかげさまで取り戻した。もし良くない根暗を表現してしまっていた僕と同じように何か鬱屈したような気持ちを悶々と持っている人がいるとすれば、それは負け癖がついてしまっているじゃないかと思う。スッキリと鬱屈したものを捨て去ることは難しいものかもしれない。だが、それはもうそういうものなんだと一旦割り切ってしまって、なんでもいいから自信をつけてみることが大事だと思う。

より専門性の尖った人がいた大学

そこから大学であるが大学はより専門的に尖った人が多く、より楽しかった。やはり個性的な人が好きな性分が僕にはあり、いろいろな団体にお邪魔した。写真部という文科系のサークルに入って現像室に入り浸って現像したりフリーペーパーを作る団体でカメラマンをしていたりテック集団に入ってギークな人とイベントに参加していたりした。また、研究室に入って研究もしており研究室の手伝い、兼、研究テーマであった児童向けのワークショップでプログラミング学習の支援をやっていたことも楽しかった。

まとめ

根暗で鬱々としていた時期が人生の始まりであったが、気づけば飽き性ながらいろいろなことにチャレンジしていたし、結果的に個性的な知り合いに恵まれることになった。ハンターハンターという漫画が好きなのだが、ゴンの父親、ジン=フリークスが「道草を楽しめ大いにな ほしいものより大切なものがきっとそっちに転がってる」と言っていたが、まさに僕の人生ではそれが起きてきた。根暗を良い方向へと進ませようと目標を達成すると道中でかけがえないものを得られてきた人生だった。結局、根暗とは決別するのは難しいが、良い個性と今はなっている気がする。
また、ここで重要だったのは目標が一緒の人と切磋琢磨できた時間であったが、それは幸いにも、僕がお金がある家庭に生まれたことや必要な時に必要な情報にアクセスできる環境に恵まれたことによるものだと思う。おかげで、目標が一緒の人がいる環境に移りやすかったはずである。これに関してはただの運であることは重々承知しているし、自分自身がそれをしっかり掴み取ったとも認知している。今後としては「良い環境に出会える」ということは僕より前の世代が残してくれた財産のおかげであるので、その良い環境が持続し他の人が参加できるようなものになるように何か活動していきたいと思う。
ご精読ありがとうございました。

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