日本はガラパゴスっつってな。
なんてーかさ、確かに日本人は島国根性で保守的で事なかれ主義で臭い物に蓋をして出る杭を打って猿真似して忖度して長い物に巻かれて我関せず他所は他所見て見ぬふり村八分でやってきたわけですけど、だからこそのガラパゴスで、その狭い社会の中でそれなりにみんなそれぞれできるだけ軋轢なく真っ向からぶつかり合うことなく波風立たないように「独自の多様性」というものが発達したとおもう。
それを目に見える形にしたのが「ガラケー」なんだよ。そして「ガラケー」という名称にもその民族特性がよく出ている。
もともとこの特殊な進化を遂げた携帯電話を「ガラパゴス携帯」と揶揄する裏には、勿論少なからず感嘆も込められてはいるものの、基本的には嘲笑めいたニュアンスが強かった。しかし、それをそのまま受け取り自ら「ガラパゴス!」って言う(まぁここには単に語源となったガラパゴス諸島が美しい島だったことも影響してるんだろうけど)挙句に「ガラケー」とかって元の形がわからん勢いの省略名称をあっという間に広めてしまった。
いいか?まず、「携帯」って時点で「何だよ」って話ですよ。「電話」要素皆無。「携帯食料」も「携帯トイレ」もみんな「携帯」だが?しかし「携帯」と言われたら誰でも携帯電話のことだと思うわけよ。なにそれどういう仕組み?(笑)
そこに来て「ガラケー」もはや「ガラケー」の「ガラ」がガラパゴスのガラということを知らない人もいる。「ガラパゴスのこと」と知っていても「なんでガラパゴスなのかは知らない」的な。
もはやただの「スマホじゃない携帯電話」のことを示す名称という認識以上も以下もねぇ。いい加減だな…
そう「いい加減」とは「いい」加減なのだ。
島国根性で保守的で事なかれ主義で以下略な日本人はずっとそうやって「いい加減」にやってきた。いい塩梅ってやつ。腐ってもダメだけどしょっぱすぎてもダメ。
つまりさ、諸外国には無い「多様性の受け皿」がある。平等なんて無理だから、山も谷も海も川も夏も冬も雨も日照りも「そういうこともある」と受け「流して」きた。それを急に受け「止め」て、平等にしようとしたって無理だよ。
日本がやおよろずの神々の国なのもそういうこと。日本だって戦争とは無縁ではない国だけど、他の国の思う戦争とは趣きが違う。滅ぼし合う、滅ぼし尽くす、そういう思考は淘汰される。それが織田信長じゃない?
良い悪いで断ぜる話ではない。それはどこの国、どの文化でもそうでしょう。その国にその文化が根付くことには意味がある。押し付けても意味は無い。
わたしは、日本という国が未来に続くために必要なのはガラパゴスという意味での「原点回帰」なんだとおもう。
昔は良かったみたいなちょろい話ではなく。
ガラパゴスは保護されるべきものだ。世界の他の国々と肩を並べようとするから良くない。この国と他国を比較することに意味はない。楽園を楽園と知らずにただそこに住む人が、お互いに「自分のほんの身の回りだけ平和ならそれでいい」って思ってのほほんと生きるのが一番合ってるんだとおもう。
足並みを揃えようとするな。
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