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勘違いする力

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はじめに

勘違いする力 は最高だ。
勘違いする力 には人がついてくる。
勘違いする力 は行動力に繋がる。

勘違いする力 は
一種の壮大な「力」なのだ。

さぁ、勘違いをして生きていこう。


勘違いする力

こんにちは、しっしーです!
ぼくは18歳の高校を卒業した頃から4年半勤めた会社員を、今から7ヶ月前に辞めました。

会社員を辞めた翌日から、ヒッチハイクで日本を旅する バックパッカー になり、日本旅が終わると1ヶ月間エジプトに住んでいました。

……まぁいわゆる変なヤツです。

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日本旅では北は秋田県、南は鹿児島県まで、1ヶ月間で20の県を回りました。そしてその直後、エジプトへ飛びました。

日本を旅した目的は「フォロワーさん以上のサポーターさんを増やしたい!」と明確な理由がありました。
※サポーター:お金を払ってでもしっしーを応援したいと思っていただける方

ヒッチハイクで出会った方々にSNSのフォローをしてもらったり、いつかクラウドファンディングで大きな挑戦をする際の支援をしてもらいたい…
その頃はオンラインサロンを始めて、記事を書いたり毎日メルマガの配信をしたりしていたので、そちらのメンバー(サポーター)になっていただければと思っていました。

まぁ、なんとも不純な動機(?)がありました。

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しかし現実は甘くなく、、、

実際に出会った際はSNSのフォローまでしていただけますが、例えばオンラインサロンに入っていただいたり、メルマガ購読者になってもらったり、そんなお金のハードルを超えた関係になることは、100名と出会った中で3名いるかいないかでした。

会社員を辞める前は
「ヒッチハイクで日本を回れば1日15名の方と出会うこともできるだろう。そうすれば 1ヶ月で500名 近くの方と出会えるだろう!仮に6%の方がサポートしてくれれば、30名の方にサポーターになってもらえる!」
……と、そんな壮大な 勘違い を掲げており、実際に会社員を辞めて行動に移したのです。

ちなみに ヒッチハイクで日本旅 を通して、サポーターさんを増やすことはできませんでしたが、、、
人の温かさや優しさを身をもって体感することができたので、ヒッチハイクで日本旅は、結果的にやって良かったと感じています。
(その際にお会いした方々、本当にありがとうございました!)

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大きな仮説(勘違い)を掲げて日本を旅した後は、またさらに大きな仮説(勘違い)を掲げてエジプトに1ヶ月住んでみました。
なんとも懲りない、令和きっての勘違い野郎ですね。

エジプトで掲げていた仮説(勘違い)としましては…
・エジプトでの生活をYouTubeで発信すれば登録者1,000人なんてすぐだろう!
→動画を編集するまでの時間やスキルが足りず、YouTubeに動画をUPすることがほぼできませんでした。

・アフリカの地エジプトに日本人の若者が行けば、最低300人のエジプト人にSNSをフォローしてもらえるだろう!
→実際は50名ほどでした。

・日常会話が英語なら1ヶ月住むだけで英語を覚えられるっしょ!
→まさかのアラビア語の国でした…
(幸い日常会話レベルなら英語ができるようになりました)

すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、ぼくはこの 勘違いする力 を頼りに、今に至るまでずっと動き続けています。ある意味で 勘違いする力 が原動力になっています。おそらくこれからの人生でも壮大な勘違いを掲げることがあるでしょうし、勘違いする力を原動力に動き続けると思います。
そして現在のように「勘違いすることをネガティブに捉えない」というスタンスは変わり続けないでしょう。

むしろ「勘違いできるのは一種の能力だ」と思って(勘違いして)いるくらい…

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現在は愛知県名古屋市で
“名古屋で1番集中できるコワーキングスペース”を作りたい!
とクラウドファンディングで支援を募っています。

これだって一種の 勘違い がなければ、ここまで突き抜けて動くことはできないでしょう。
自分ならできる自分ならできる自分ならできる、このお店を必要としている方は絶対にいるはずだ!社会のため周りの人のために価値をもたらしたい!

心の底からそう信じて(勘違いして)、名古屋に来てから2ヶ月間毎日休まずにリサーチをしましたし、事業計画を練ってきました。たくさんの経営者の方やコワーキングスペース関係の方に会いに行き、直接お話をさせていただきました。不動産会社さんや建築業者さんとも打ち合わせを重ねたり、金融機関へ融資の相談をしに行ったり…

これらすべて 勘違いする力 を原動力に動いています。しかも当の本人はその勘違いを長所と捉えるほどです。
勘違いも甚だしすぎると、腹立たしくもなくなりますね。笑

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物心ついた頃

遡ること小学生の頃…
思い返してみるとその頃から「自分は周りとは違う!」と謎の自信を持っていた気がします。スポーツがそこそこにできて、小学生には珍しいロン毛くんだったため、周りからもチヤホヤされて生きていました。

中学生になるとちょっとヤンチャなおませさん。不良の兄がいたこともあり、ヤンキーに憧れて悪さを働いたこともありました。

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高校生にあがると悪さ(強さ)への憧れから筋トレに目覚め、将来はパーソナルトレーナーになりたいとうっすら思っていた気がします。ちょうどその時期にYouTubeが日本で流行り始めており、筋トレユーチューバーなるものも1人か2人か出始めていました。

さらに、その当時お付き合いしていた彼女に振られたこともあり、ますます筋トレや悪さにのめり込むようになりました。

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毎日駅に溜まっては何をするわけでもなく、大人数の友達とタバコを吸っていたり…
理不尽な理由で不良の先輩に目をつけられたり…

これからの人生について考える時間など1秒もなく、ただ「今」が楽しければそれで良い…そう、過ごしていました。
「このままではダメだ」と感じることもありましたが、周りの環境に流されて過ごしていました。

怯えたり、笑ったり、楽しんだり、悲しかったり…それなりに刺激的な毎日を過ごしていました。
その辺によくいる、やんちゃな10代の若者でしたが、なんとか高校を卒業することができました。そして、高校を卒業してからは大学や専門学校へ行く選択肢を取らず、すぐに社会人として働き始めました。

選んだ職業は、専門職でなんだかカッコ良さげ、毎日違う作業なので「飽き」が来ないだろう、と仮説を立てた「クレーンオペレーター」と言う職業です。

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初めての社会人生活でしたが、偶然にもこの職業がそこそこ向いていたようで、かなりのスピード出世をしながら会社員としての生活を送っていました。

ちなみに悪さや悪い友達からは、この頃に起こした 車の横転事故 をきっかけに悪さから離れることを決めました。

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横転事故をきっかけに、筋トレと仕事のふたつにますますのめり込んでいきました。

クレーンオペレーターと言う仕事は、やればやるほど給料が上がったので土日も休むことなく出勤して、大きなクレーンで現場へ向かう日々です。
作業が終わり家に帰ればすぐさま着替えて、ジムへ筋トレに向かいます。
ジムから帰ってきて食事やシャワーを終わらせ眠りにつき、また会社へ出勤する…
そんな繰り返しの生活を送っていました。


筋トレが変えた人生

毎日のジムでの筋トレや、昔から仮説検証が好きだった飽きない探究心があり、ついには21歳の頃に筋肉を披露する「フィジーク大会」へ出場し、ギリギリながらも入賞も果たしました。

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ちなみにこの頃お付き合いしていた女性とは、過酷な減量(ダイエット)に伴った「生活や考え方のズレ」から別れることになります。ぼくは昔から一つのことに熱中するとのめり込む性格で、まさにこの頃は生活の全てを筋トレに捧げていました。

そして、この時筋トレを通して大会に出た経験は後の人生にも大きく影響をもたらします。徹底した食事制限・毎日のハードな筋トレ・戦略的に練られた長期計画・仮説検証を繰り返す実行力と行動力…この時に感じた想いを、今でも鮮明に覚えています。

「自分はここまで頑張れるんだ、もう何でもできる気がする」

もともと持っていた 勘違い力 にさらなる拍車がかかった瞬間でもあります。彼女と別れひとりの時間が増えたことで、今までの生活にさらに磨きがかかり、仕事と筋トレにのめり込む日々です。
そんな生活の中で、次に興味を向けたのが「ビジネス」でした。

しかしお金を稼いだ経験があるとすれば、高校生の頃のアルバイトか、会社員としての「給料」と言う形の経験しかありません。

ですがビジネスにおいても、一度のめり込むと一点突破で集中する癖を活かし、興味を持ち始めてからは寝る間も惜しんで、YouTubeや読書をして勉強を始め、すぐにできることから手をつけていきました。

ビジネス系のユーチューバーやインフルエンサーが、まだ流行っていない頃です。毎月5冊以上の読書、フリマアプリで不用品販売、株式投資を開始したり、ここでもまたスピード感を持って動き続けました。

そんなこんなで会社とジムに通い続ける18歳からの生活も3年が経ち、21歳の頃に初めて出張をすることになりました。


人生は時間、タイムイズマネーよりライフイズタイム。

初めての出張生活は、地元石川県のお隣の福井県。
出張に伴い一人暮らしを始め、クレーンオペレーターとしての仕事と、ジムへ行き筋トレをするのと、家へ帰ってから副業をする3つをひたすらこなす生活になっていきました。

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社内最速記録のスピード出世

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毎日ブログを更新

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クレーンやフィットネス関係の商品を海外から輸入して日本で販売

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仕事のお昼休憩を狙って毎日ジムで筋トレ

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オリジナルシール(ビックレマンシール)を1枚3,000円で販売


匿名オペさん」と言う名前でSNSやブログやYouTube発信を始め、9ヶ月で1,650名ものフォロワーさんがついたり、ブログで毎月1,000円の広告収入が入ってきたりしました。片手間でやっていた輸入転売でも毎月1万円~3万円の収益がありました。

22歳で手取り30万円以上のお給料をいただいており、いただいた給料のほとんどは書籍の購入・オリジナル商品の制作・輸入販売の仕入れ・毎月10万円投資の投資資金に充てました。預貯金は一切せず、全てを事業か株式か自己投資です。毎日大量の知識を取り入れ、毎日ブログ・SNS・オンラインショップを通してアウトプットする、そのサイクルを繰り返すのがとても楽しく充実していました。

しかし!

この生活を送る中でネックになってくるのが「本業の時間」でした。
朝7時には現場へ向かわなければいけないため、毎朝4時半起きでブログ執筆や読書の時間にしていました。8時から16時前後まではクレーンオペレーターとしての本業があり、本業中にも読書をしたりブログを書いたりSNSを更新もしてはいましたが、フルコミットはできませんでした。

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メルカリさんには大変お世話になりました


「今、毎月3万円〜5万円を副業で稼げているなら、本業を辞めるとどのくらい稼げるのか?」
「そもそも自分はお金を第一に動いて生きているのか?何を大切にして生きているのか?」

自分の人生について考えてみたり…
これからどう過ごして生きていたいか選択肢を出してみたり…
自分は何を幸せと感じて生きているのか考えてみたり…

この情報過多社会において、じっくりと「内省」をする時間ってあまり取れないですよね。けれどぼくの場合はクレーンオペレーターと言う職業のおかげで、じっくりと自分について考える時間を作ることができました。

幸いにも「クレーンオペレーター」と言う職業は、仕事中は基本的にず〜っと1人っきりなのです。空いている時間は読書をしたりスマホを触っていても、誰に怒られることもありません。
1日中自己理解に時間を使ったり、価値観マップ(マインドマップ)を作って自分について深く知ることができたり、大量の書籍から人生観を学んだり…

会社員として過ごし始めてから4年、短いようで長い年月を経て出た答えを、一言で表すなら
「人生は時間だ」
でした。

そして後に、この時の一人暮らしでの生活が起業のきっかけとなったのです。


LIT 背景透過

現在立ち上げた株式会社LIT (Life Is Time)の由来です


急すぎたターニングポイント

当時は毎月30万円前後のお給料が貰えていて、生活に対し大きな不満があるわけではありませんでした。

しかし会社員を辞めた時に得られる「時間」と、会社員を続けていれば貰える「お金」を天秤にかけた場合、ぼくは前者の方が価値があると感じたのです。
(今でも心の底からそう感じます)

「会社員を辞めるとすれば、生活費はどうやって稼いでいくか…クラウドソーシングサイトでIT系の仕事を取っていくのか、まあ、最悪の場合はまた転売をすればイイか」
そんな想いを抱えて、退職を考え始めました。
 (転売は面白みが薄くあまり好きではなかったです)

匿名オペさん退職

会社員を辞める際、実際にSNSに投稿した画像

会社員を辞めよう、嫌なら辞めてイイんだ。
そう決意をしたのが2020年の10月22日でした。日頃から何かと相談をしている親友に電話をかけ会社員を辞めることを相談した夜を、今も鮮明に覚えています。

「ついに会社員を辞めるのか、これからどうなるんだろう?」その頃の感情は、不安6割楽しみ4割で…ヒヤヒヤとドキドキが入り混じっていました。

決心の翌日には上司へ電話をかけて会社を辞める旨を報告し、2020年11月末で会社から離れて12月は有給消化の期間にしてもらえることが正式に決まりました。
スピード出世をした稼ぎ頭が何の前触れもなく会社を辞めることになり、社内はガヤガヤしたのではないかと思います。
(迷惑をおかけして申し訳ございませんでした…)

決断こそ早かったものの、やはり4年半続けてきた生活をガラッと変えることになるので不安・楽しみ・懐かしみ・感謝の感情が溢れてきて…この日の夜は興奮して眠れなかったことを覚えています。

そして、ココからスピーディにさらなる大きな 勘違い へと突っ走ることになります…

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会社を辞める1ヶ月前の沖縄にて

ヒッチハイクで日本旅

冒頭でお伝えしたようにぼくがヒッチハイクに挑戦した理由は、自分にお金を支払ってでも応援してくれるフォロワー以上のサポーターさんを増やすためです。ヒッチハイクを始める前の計算では、1ヶ月間の日本旅を送る中で500名の方と出会い150名の方にSNSフォローをしてもらえて、30名の方にオンラインサロンに入ってもらうかメルマガ購読(サポーター)をしてもらえる計算でした。

しかし現実は甘くなく、、、
実際にSNSフォローをしてくれた方は50名ほどでしたし、お金を払ってでもぼくと言う人間を応援してくれる人は3,4人の方でした。(心の底から感謝です)

ヒッチハイクに関しても、コロナ禍だったのであまり良い顔はされず、また1ヶ月間と言う短い期間ではヒッチハイクをしている暇もなくなっていきました。
最後の方は時間が足りず、新幹線や飛行機で移動をする羽目になりました。
(ただの旅行じゃねぇか!)

旅の過程をSNSで共有しつつ「会いましょう」の連絡が来た方には必ず会いに行きました。すると1ヶ月間の日本旅は最終的に、50万円の費用がかかりました…

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ヒッチハイクで日本旅中に出会った方々

しかし、この程度の勘違いでめげる性格ではありません。
こちとら昔からずっと、この 勘違い力 を武器に生きてきたのです。

北は秋田県、南は鹿児島県と日本をぐるっとまわり、その勢いのまま千葉県の成田空港へ向かいました。
そして、日本から24時間離れたアフリカの地「エジプト」へ飛び立ったのです。

なぜここまでスピーディに決断と実行ができたのかと言うと、会社員を辞めたきっかけが「人生は時間だ、時間は何よりも大切なものだ」と感じたからで、また「やりたいと感じた瞬間に動き出す」をモットーに動いていたからです。

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▼日本一周中の旅記録はコチラ


エジプト放浪記

コロナ禍だったこともあり、出国前に成田空港内でPCR検査を受け、そのままの流れで出国手続きを済ませ初の国際線へ搭乗です。

そうです、ぼくは海外へ行ったことがなかったのです。
初めての海外で日本から24時間離れた、アフリカの地「エジプト」を選んだのでした。

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エジプトに入国するための必要書類

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初めての機内食

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機内から見た砂漠付近

もともと「将来は海外へ移住してみたい」と言う大きな夢があり、英語には関心がありました。会社員時代には毎日オンライン英会話のレッスンを受けていて、その時に仲良くなった講師の女性がエジプト人でした。

なんと、エジプトを選んだ理由は
「オンライン英会話で仲良くなった先生が偶然エジプト人だったから」
なのです。

英語に関心はあったものの、偏差値50の高校ではいつも学年ビリの成績でしたし、英会話のスキルは皆無でした。
「1ヶ月間エジプトに住めば日常会話くらいなら覚えられる、おれならできる!」ここでも壮大な 勘違い力 を持って、エジプトへ飛び立ったわけです。

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同じホステルで出会ったお友達に漢字の名前をプレゼント

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これで800円

初めての海外生活は本当に刺激的な毎日で、今でも思い返すとニヤニヤしちゃいます。
教科書でしか見たことのない景色、周りを見渡せばアジア人は自分1人、日本語でもない英語でもない アラビア語 が飛び交う街中…

お店で水を買うだけでも最初は勇気がいりましたし、何をするにもチャレンジの連続でした。

▼お世話になったithaka hostel

↑こちらのホステルは、エジプトで2番目に大きな都市のAlexandria(アレクサンドリア)と言う場所にあるのですが、オンライン英会話の先生とも無事にAlexandriaで会うことができました。
日本で言うと大阪みたいな場所です。イスラム教では男女の仲が厳しいですし日本人の男が会いに来るのも怪しかったと思います。
ですから、初めて先生と会う時は先生のお母さんが付いてきました。笑

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エジプト人の先生(よく聞かれますが恋心はありませんでした)

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先生の弟さんと弟さんの彼女さん

元々が「海外移住の前に海外に1ヶ月だけ住んでみたい!」という想いからだったので、最初は1ヶ月間同じ場所に住み続ける予定でした。

しかしithaka hostelに泊まりに来た旅人から
「コウキ!お前はクレイジーなのか?なぜ同じ場所に留まり続けるんだ?旅をしに来たんだろ?色々な場所へ行かないともったいないゼ!」
と言われ、その時に出会った旅人の2人と一緒に旅をすることしました。

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2週間ほど滞在したAlexandriaの街並み

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一緒に旅をしたマルコスとジェリー

この2人と出会えて本当に良かったです。2人とも、英語を話せないぼくの面倒を見てくれました。さらにこの2人と常に行動を共にすることで、無事に日常会話レベルの英語ができるようにもなりました。
この2人と最初に行った場所はSiwa、別名「砂漠の街」と呼ばれる場所です。

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Siwaのサハラ砂漠
(生まれて初めての砂漠は壮大な景色でした)

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Siwaの街並み

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Siwaで泊まった宿泊施設にある塩で作られた瞑想ルーム

Siwaのサハラ砂漠には天然の湧き水でできた温泉や、塩分濃度が濃すぎて勝手に体が浮かび上がる「塩の湖」もあり、全ての体験が非日常でした。でも非日常だと感じているのは自分だけで、ここに住んでいる現地の方からすると目の前のことだけが「日常」であり。。。
地球の広さを身をもって体感した瞬間でもあります。

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砂漠の中の温泉にて

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浮かんでみた(目や傷口にあり得ないくらいしみる)

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10歳の男の子が運転するトゥクトゥクに乗り塩の湖へ向かう
(法律を取り締まることがないので6歳の子供でも単車に乗っています)

日本に来たら東京・京都・沖縄がオススメされるように、エジプトへ行けばSiwaともう一つ、Dahab(ダハブ)と言う場所をオススメされます。Siwaの別名が 砂漠の街 なら、Dahabは 天国 と呼ばれる街です。

Dahabでもマルコスとジェリーと3人で行動を共にし、ここでも無数の非日常体験を得られました。シュノーケリングに挑戦したり、登山をしたり、何もせずただただビーチでぼーっとしてみたり。
note記事にはとても書けない体験が多いのがもったいない…(いつかお会いした際にお話ししましょう!)

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Dahabで知り合った2人を入れて5人のパーティで登山

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シナイ山の山頂にて

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人気ビーチなのでコロナ渦でも観光客が多い

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Dahabのビーチにて

Dahabは日本で言うと沖縄のような地域で、Dahabに来る人たちは皆が羽を伸ばしにやって来ます。ちなみに、エジプト放浪中に「ここが最も法律のない地域だな」と感じました。アメリカ人がマリファナを吸いながらコンビニに入ってきますし、滞在中は街中で乱闘騒ぎも目撃しました。
本音はDahabにずっと滞在をし続けたかったのですが、エジプトの滞在ビザの期限が迫って来たので、マルコスとジェリーとはDahabで泣く泣くお別れをすることになります。

ーーー

Dahabを出てからは、エジプト出国前のPCR検査を受けるためもう一度Alexandriaへ帰りました。AlexandriaでPCR検査を受けた後は、空港のあるCairo(カイロ:エジプトの首都)へ向かいました。
Alexandriaの滞在最終日はAlexandriaで出会ったみんなに会いに行き、直接お別れの言葉を告げて回りました。

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Alexandria最終日に撮影

首都Cairoに着くと偶然にも、砂漠の街Siwaで出会ったドイツ人とフランス人の友達がいたので、みんなで一緒にフットボール(フットサル)をしました。

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半分がエジプト人で、半分は旅人

↑この時に出会った右端の青いユニフォームを着た14歳の男の子が、ピラミッドで馬に乗れるとのことで、エジプト放浪生活最終日にようやくピラミッドにも行きました。

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後ろにいる馬商人にボッタクられかけて喧嘩にもなりました

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スフィンクス

ピラミッドでもまた、たくさんの学びがありました。
エジプト人は100円ほどで入場できるが観光客は数千円の入場料がかかったり…
ピラミッドは街中にドーンとそびえ立っていたり…
ピラミッドからは、また別の5つのピラミッドが見えたり…
馬商人のぼったくりの手口を知れたり…

飛行機の搭乗時間が迫っていたので、3時間ほどピラミッドに滞在をしてから、友達に別れを告げCairo空港へ向かいました。
人生で2度目の国際線に搭乗し、エジプトで過ごした1ヶ月間の想い出を噛み締めました。

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Abu Dhabi空港(アラブ首長国連邦)を経由して成田空港へ


帰国後、そして今

成田空港に着いてからはPCR検査を受けて、それから14日間の自主隔離生活を送りました。久しぶりの日本は匂い・温度・空気・水・人すべてが別世界に見え、帰国後数週間はエジプトとのギャップに苦戦しました。

14日間の隔離生活中は不動産サイトを見たり、宿泊施設の開業のために知識を集めたり、今後の生活について考えていました。
隔離生活が終わると一旦地元の石川県へ帰り、様々な手続きを済ませたり、久しぶりに友達に会ったりしました。
そしてこの時、人生で初めてのクラウドファンディングに挑戦しました。

この時のクラウドファンディングでは達成率が229%まで到達し、22名の方にご支援いただくことができました。
「自分のことを応援してくれる方がこんなにもいるんだ、なんてありがたいんだろう」
そう、強く感じることができました。
そして、感謝の気持ちと同時に「挑戦する人を応援したい人はたくさんいる」と言うことに気がつくこともできました。ここ数年クラウドファンディングはとても盛り上がっていますし、それは誰もが気軽に「挑戦を応援する」ことが可能になった証拠だと思います。

宿泊施設を作るためにはたくさんの物件を内見しに行く必要があり、その際にかかる「交通費」と「宿泊費」を集めさせていただきました。クラウドファンディングの最中も東京・京都・大阪・沖縄を回り続けていて、最終的にたどり着いたのが現在も身を置いている 名古屋 でした。

「何で名古屋なの?」と、よく聞かれます。
その際は「日本一周中に名古屋という街に惚れたからです!」がキレイな回答な気がしていて、そう答えるようにしています。

しかし、実は名古屋へ来たのにはいくつかの理由があります。
一つ目は、ビジネスを始めるのにちょうど良さそうなバランスの場所だと感じたからです。東京ほど都会すぎず、何をやるにしても競合はそれほど多くない。
なおかつ、地元の石川県よりずっと都会で、中心部は日本でもトップクラスに活発な街です。
(福岡や仙台と似ている)

二つ目の理由は、名古屋には頼れる友達も数人だけはいたからです。
また、東京や石川と距離的にも近いことも魅力の一つでした。

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名古屋で開催されていたバンクシー展

名古屋へ来る前に滞在していた東京で、宿泊施設を開業するためにたくさんの物件を回りました。しかし、宿泊施設の開業はあまりにもお金がかかりそうで、お金をかけなければ自分の理想としているスタイルのものは作れないと感じました。

そこで、まずは宿泊施設の1階部分だけでお店を開いてみようと決意したのです。


難が有るから“有り難う”

宿泊施設の1階部分はカフェ&バーのような空間にして、月額会員制のコワーキングスペースとしての利用も可能にしようと考えていました。色々考えていく中で、最も小さくスモールスタートできるのはBARとしての開業だと思い、名古屋へ来た当初は「無人運営の月額制BAR(お昼はコワーキング)を開いてみたい!」と思っていました。

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毎日1軒~5軒の居抜き物件を内見する日々

しかし!

たくさんの方に事業相談をしたり、飲食店の営業許可や風営法などの許可関係を調べていく中で、無人運営のBARは現実的に難しいと感じました。そこで次に考えたのは「お酒は持ち込み制のお酒が飲めるコワーキングスペース」としての開業でした。

状態の良い物件にも巡り会うことができ、建築士のお友達に3Dパースを描いてもらったり、、、
こちらの事業でもかなり話は進んでいましたが、こちらも結局は方向転換(ピボット)することになりました。
方向転換したきっかけは身の回りの知り合いの方や経営者の方に事業相談をする中で、お酒が飲める場所はコワーキングスペースのような作業をする場所と混合しづらいと意見をもらったからです。
お酒が飲めるコワーキングスペースはイメージ的として、渋谷スクランブルスクエアにあるTSUTAYAさんがやっている「シェアラウンジ」のような事業です。

https://1000bero.net/restaurant-1599/

しかし飲食店の営業許可を取るためにはかなり大規模の内装工事が必要で、、、
もっと小さくスモールスタートをしたかったので、お酒の要素は排除してコワーキングスペース一本で進めることを決意しました。

この時も、一度決めるとのめり込む癖で、、、
「無人運営の月額制BARを作る!」
「お酒が飲めるコワーキングスペースを作る!」
と一つ一つの事業へ本気で向き合っていたので、事業内容を変更し続けることは体力的にも精神的にも正直ツラかったです。

ですが今思い返すと、コワーキングスペース一本に絞ったことは正しい決断だったと思いますし、あの時に「有った」たくさんの「難」のおかげで今があると思います。
難が有ったからこその「今」に有り難う。


笑われるくらいデカい夢

コワーキングスペースをオープンするために、愛知県内のコワーキングスペースやシェアオフィスを40軒ほどリサーチして、実際に利用もしに行きました。中にはコワーキングスペースのオーナーさんと直接お話をさせていただくこともできたり、他の経営者の方々と繋がれる機会も得たりすることができました。

創業融資を受けるために日本政策金融公庫さんへ面談にも行きましたし、名古屋に来てからは本当にたくさんの 大人 と接してきました。

そして、、、
この生活を送る中で言われることは決まって
「まだ早いと思うよ」
「うまくいくと思う?」
「やめた方が良いんじゃない?」

でした。

時には鼻で笑われるような場面もありましたし、悔しさのあまり涙が込み上げる夜もありました。
「なんで初めて会った人にここまで言われなきゃいけないんだ」
そんな怒りが込み上げたことすらありました。

普通は、この時点で諦めると思います。
普通は、この時点で一度歩みを止めると思います。
普通は、こんなにも大きな挑戦を決意しないと思います。

でもぼくは大きな大きな 勘違い力 を持っています。
こんな状況でもまだ「自分ならできる、自分ならできる、自分ならできる」と心の底から信じているのです。

そしてその 勘違い を実現すべく、今回クラウドファンディングを通して走り始めることに決めました。


さいごに

現在はクラウドファンディングでの資金集めを始めて16日目で、441,600円ものご支援をいただいています。
しかし、今回設定した目標金額の 110万円までは、まだまだ遠い道のりです。あと66万円足りません。

さらに今回、All or nothing方式で集めていますので、クラウドファンディング公開期間内に目標金額の110万円に到達しなかった場合は、コワーキングスペースをオープンすることはできません。(もし目標金額に到達しなかった場合は、それまでいただいた支援金の全額が支援者さまへ返金されます)

今回のクラウドファンディングを公開するにあたり “やれることは全部やる” をモットーに動き続けようと決意しました。もし最終日までに集まらなかったとしても、振り返った時「あの時ああしていれば…」と後悔を残さないためです。


また今回の挑戦が成功しなかったとしても、ぼくは「挑戦をしたこと」に価値を感じます。挑戦をした後の「結果」ではなく、挑戦をしている「過程」こそが大切で、身の周りにもそんな想いに共鳴してくれる方々を増やしていきたいと感じているからです。

そして今回の挑戦が失敗したとしても成功したとしても、これからもめげずに 勘違いする力 を持って歩み続けていきます。

SNSを通して同年代の成功が間近に見える時代になり、多くの人が「何かに挑戦したい」と感じています。けれど挑戦にはたくさんのハードルが付き物で、またたくさんの資金や協力が必要な場合もあります。
この記事を見てくださった方には、もしかすると「自分なんて…」と落ち込むこともあるのではないでしょうか?

そんな方々に向けて最後に伝えたい言葉があります。

誰かの夢の中に入って、自分も“夢中“になれる

ライブ配信会社SHOWROOMの創業者である前田裕二さんの言葉です。


自分が挑戦をすることにハードルを感じるなら、
まだ動き出す段階でないと思っているのなら、
“夢中”になれる何かを探している最中なら、
誰かの夢に乗っかるところから始めてみてはいかがでしょうか。

誰かの夢に乗っかっていると、気づけば大きな波に乗っかることができるかもしれません。気づいた時には、思ってもいなかった遠い場所へ辿り着くことがあるかもしれません。

もちろん、しっしーの夢に乗っかってくれても構いません。
こんなぼくですが、ぼくの想いや夢に共鳴していただける方がいらっしゃるのなら、ぜひ今回のクラウドファンディングにご支援していただけると嬉しいです。

ぼくはこれからも他人の目は気にせず、やりたいと感じた瞬間に動き始め、やりたいことだけをやって生きていきます。

最後になりますが、少しでも共感してくれた方はぜひ応援してください。そしてぼくと一緒に、夢に溢れる面白い環境を作っていきましょう。

オンラインサロン「しっしーのゼロイチ挑戦記」でも毎日3,000文字程度熱いメルマガを届けています。ここまで読んでしっしーを応援したいなとちょっとでも思ってくださった方は、ぜひ遠慮なくメッセージをください。


最後までお読みくださりありがとうございました。長くなりましたが、ぼくの勘違いライフはこんな感じです。
人生で1番の長い文章を書きました。クラウドファンディング公開中に何やってんだと思われるかもしれませんが、どうしても自分の想いや気持ちを知っていただきたく、今回の記事を書きました。
この記事が良かったと感じた方は、ぜひ周りのお友達にシェアをしていただけると嬉しいです。また感想もSNS等で送っていただけると嬉しいです。


人生は時間だ。
たった一度しかない人生
たった一瞬しかない「今、この瞬間」を
これからも全力で生きていく。

行ってきますッッッ!


2021/06/19 名古屋のカフェにて 宍戸晃己



いつもサポートしていただきありがとうございます✨