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ありがとう、そして、また逢う日まで

6年前の元日、母は69歳で他界した

6年前の12月に父から電話があり
「お母さん、年内いっぱいもつか持たないかも」
と告げられ、コンサート帰りでウキウキしていた気分が不安に変わった

数年間、寝たり起きたりの生活が続いていた母。
6年前の11月に父が肺ガンの手術の為、入院したのをきっかけに、認知症が急激に進行し、一気に病状も悪化したようだった

母は50歳の時に、子宮体ガンの限りなくステージ4に近いステージ3になった
社会復帰不可能と言われていたが、再び仕事がしたいという一心で、大きな手術も抗がん剤治療も乗り越えて、母は大好きだった販売員の仕事に復帰した

そこまでして乗り越えた大病なのに、母は、全く生活を変えようとはしなかった
好きな物を食べ、うたた寝しながら夜遅く就寝
もちろん、運動など全くせず

元に戻ったように見えた生活も長くは続かず、寝たり起きたりの生活となった

それでも、手術から19年生きたからこそ、長男と次男に逢わせられることが出来た

6年前の年末、仕事を休み、2才だった次男を連れて関東の実家へ帰っていた

久しぶりに会った母は、家の寝室のベッドの上で、痩せて小さくなっていた

認知症が進み、私の事が判別できているのかどうか分からなかった

当時、私は通信制の美術大学で学んでいた
母に学生証を見せると
「やっと好きなことが見つかったんだね」
と母は言った
私が好きな事は、昔から変わってないよ
そう言いたかったけれど、言うことはできなかった

母と交わした最後の言葉になった

大阪より寒い日々に、次男も私も風邪をひき、咳が止まらず、12/30にやむ無く一旦、帰阪することになった

「また来るね」
私はそう母に告げて、母の手を握った
温かい母に触れたのは、これが最後だった

(余談だが、この時に往復飛行機を予約していたが、往復とも整備不良で飛行機は飛ばなかった。この航空会社の飛行機は一生乗らないと心に誓っている。)

飛行機が飛ばなくなり、羽田空港から東京駅へ移動
東京駅から新大阪へ

自宅に戻り、休日診療の病院へ行き、大晦日を過ごした

年が明け、三が日が過ぎたら、もう一度、実家に戻ろう
バタバタと用意をしたお雑煮を食べ、そろそろ、お昼ご飯は何を作ろうか…
そう考えていた時、父からスマホに着信が届いた

三が日はお寺さんも葬儀場も火葬場も休業である
日の並びで、葬儀もゆっくりになった

葬儀が終わり、大阪に戻り、お世話になった人に会い報告をおえて、自宅へ戻ろうとした時、
引越して1年経った自宅の場所が分からなくなっていることに気づいた

今いる場所から何の電車に乗り、自宅の最寄り駅がどこなのか
最寄り駅からどうやって自宅までもどるのか、全く分からなかった

メモしていた自宅の住所をみても思い出せず、GoogleMapで調べて、なんとか次男の保育園のお迎え時間に間に合った

母が大きな手術をした時に覚悟はしていたつもりだったけれど、思っていたよりショックが大きかった(と思う)

それから約1年後、
弟と話し合い、前倒しの年末に法事をする事は親戚一同大変なので、母の一周忌の後の法事は無しにすることにした

いま母は、翌年駆けつけた父(母にとって夫)と一緒にお正月を迎えているのだろうか

2021年の今日、あの日の事が少しずつ遠い昔になってきている

あの日、母に言えなかった言葉
「お母さん、いままでありがとう」

今年は、母へ届くように伝えよう



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