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ネイル、セクシュアリティ、クィア。

今日ほんとに仕事やる気なかったけど、
noteはいっちょまえに書かせてもらってます、すんません。


ネイル

とりあえずまずは、僕がこれまで塗ってきたネイルの数々をご覧ください。

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は〜〜めちゃくちゃかわいいしカッコイイ〜〜〜!!

日々の甘皮ケアが功を奏しすぎ〜〜!!爪の表面も毎日ケアしてるので綺麗すぎ〜〜〜〜サイコ〜〜〜!!ネイルしてる自分の手が大好きだ〜〜〜


でも、僕は男なので、出社日の前日はネイルを落とさなくちゃいけないし、ネイルをして外を歩くと罪なき子供たちから「男なのにネイルしてる〜」と言われたし、行ってみたい女性限定ネイルサロンに行くことができないし、「ネイル塗るのが好きです」って言うのにかなり勇気がいる。

「優しい人」たちの中にも、「ネイルかわいいね〜女子力高い〜」って言ってくれる人がいるけど、僕は別に「女子」になりたくてネイルをしているわけではなくて、ただ単にカラフルなものが好きで、特に自分のお気に入りのパーツであるところの爪をもっと素敵にするためにネイルをしているので、全てが「女子力」のもとに収束して行くのは、少しだけ、いや、かなり悲しい。てか、「女子力」って何ですか?

「ふつうじゃない」人は、往々にして他者による解釈の対象になるし、もっと言うと侮蔑の対象になるし、もっと言うと弾圧の対象になることがあります。

好きなものを好きって言うのって、難しい。
自分にとって当たり前のことを当たり前に言うのって、難しい。
なんであなたの当たり前は当たり前に言えるのに、僕の当たり前は当たり前に言えないんだろう?って、一人で思う時もある。


セクシュアリティ

そういえばなんだけど、「好き」ってなに?

好きってなに?って思ってる人、明日全員で渋谷のサイゼ集合せん?

さっき言ったネイルだけじゃなくて、僕は昔から、一般的に「普通」とされているような形で、誰かのことを恋愛的に好きになる感覚があんまりよく分からない。
女性のことは好きにならないなあ、でも別に男性のことが好きっても言い切れないしなあ、そもそも他人と付き合いたいって気持ちもわかんないし、ましてや結婚して、子育てしてって、なんでみんなそんなことできるんだろう、と生きてて思う。
(初めて車の免許を取る時、「こんなに運転って難しいんだ。大人のみんなはなんであんなにスイスイ運転できるんだろう…」って思う感覚ありませんでしたか?アレに近いです。)

生まれた時から(見たところ)異性愛者の両親に育てられて、おばあちゃんおじいちゃんも全員異性間結婚をしていて、ああいつか自分も女性と結婚して生きていくんだなと思いつつ、気づいた時には「ん?あんまり僕そもそも女性と恋愛するって感覚がわからないな」という状態で、その時から親戚の「(僕の名前)はいつ彼女ができるのか?」という声はまるで違う世界の話みたいに聞こえるようになりましたとさ。めでたしめでたし。それに対して、「ん〜、いつかね〜笑」って答える自分って誰なんだろうね。知らない人です。

それじゃあ、男性のことが好きなのか?と思って色々考え、ん〜〜〜、なんか女性よりはもしかしたら好きになれるかも?とは思うものの、でも相変わらず全然付き合いたい気持ちはわからないし、性行為したいとかもしっくりこないし、ん〜〜?僕ってどこのカテゴリーに身をおいとけば大丈夫そ?と見えない誰かに問いかけたりしてました。
いや、カテゴリーに括られるのもなんか違う気がするな。自分が「LGBT」なのか?って聞かれても、いや、なんかもしかすると部分的にはそうかもしれないけど、「自分はLGBTです」って宣言して枠にはめるのはなんかしっくりこないし…。だって異性愛者の皆さんは「S(ストレート=異性愛者)」とかってカテゴリーとか全く気にせず生きてるじゃん。いいな〜うらやまし〜

その悩みを信頼できそうな上司に相談したら「面白いね」って笑われるし、「そんな人これまで会ったことないよ〜」って物珍しそうに言われたし、いやここは異性愛者向けの博物館じゃないんですが……。って思いながら、「そうなんですね〜」って微笑んでる自分って誰なんですか?知らない人です。

あと、こういう風にいうと、「なんかいつも他人に怒ってて、疲れない?」って「心配」されることあるんですけど、死ぬほど疲れますし、死んでる人も山ほどいます。
あなたたちが怒らないで済んでるだけで、別に僕も周りの人に怒りたくて怒っていないし、できるなら、毎日「悪気はないんだよね。全然怒ってないよ」ってご機嫌でいたい。でも怒らなかったら、自分が誰かわからなくなるだけなので、怒る。 あ、でも人生トータルで見ると全然超楽しいです、あざす


クィア

話を戻すと、そんなこんなで僕は、自分を何のカテゴリーに位置付けていいかわからなくて、結局自分のことを(ジェンダーやセクシュアリティの文脈で)「普通ではない人」という否定形でしか定義づけられないという状況に至りました。ここまで付いてこれてる?

そんな時に、出会った「クィア(Queer)」ということば。

クィアっていう概念は、この世のうちで最も説明が難しい単語のうちの一つなので、詳しくは一旦以下に挙げる文献をお読みください。読めば、ぼんやりは見えてくるけど、はっきりとは見えない感じでクィアネスが掴めるはず・・・。(この有り様がまさにクィアネスだと思うのですが・・・)

・森山至貴『LGBTを読みとく ─クィア・スタディーズ入門』ちくま新書
・河口和也『クィア・スタディーズ』岩波書店
・デイヴィッド・M・ハルプリン 村山敏勝訳『聖フーコー ゲイの聖人伝に向けて』太田出版

しかし、さすがにこのまま話を進めるのはあまりにも不親切なので、抜粋します。

ゲイ・アイデンティティが成立するのは、意識的に宣言することによってだが、その根本はやはり同性を対象選択するという実証的な事実である。
いっぽうクィアー・アイデンティティはとはいえば、なにか実証的な真理とか確固とした現実とかに基づく必要は全くない。(中略)それは、規範に対して対立関係にあることによって意味を持つ。正常な、正統的な、支配的なものとぶつかるならなんでも、定義上クィアーである。クィアーは、なにか特定のものを指ししめすとは限らない。それは本質なきアイデンティティである。(中略)それが記述するのは、原理上、その正確な範囲と多様な広がりを、前もっては規定できないような可能性の地平なのである。(中略)権力と真理と欲望との関係を新たに構造化するさまざまな可能性を思い描くことが可能だとしたら、それはクィアーな主体が占めるこのエクセントリックな位置からだろう。

デイヴィッド・M・ハルプリン 村山敏勝訳『聖フーコー ゲイの聖人伝に向けて』太田出版 p.92-93

この抜粋、本当に美しくて読むたびにうっとりしてしまうのですが、一番クィアっぽさが端的に表れている文章だなと思います。(もちろん、これだけではクィアスタディーズのことは何にも言えていないに等しいし、これで「わかった」とも思っていただきたくないのですが、一旦これで。)

つまり何が言いたいかというと、どのアイデンティティカテゴリにも、どのコミュニティにもしっくりこず、「普通ではない人」という否定的な定義しかできなかった自分にとって、クィアという言葉は、どの既存のカテゴリにも馴染まない自分を掬いあげてくれて、「普通ではないこと」の価値を教えてくれて、さらにはそれが「可能性の地平」ですらあるということを伝えてくれた、最高の概念なのでした。(本来クィアスタディーズが出てきた背景はもう少し別のところにあるのですが、それに僕が救われたというのが重要です。)

規範に対して異質であることによって、すでにある構造を侵犯して、揺るがすことができる。異質である自分だからこそ、これから新しい自分になれる。そのための指針を、偉大な学者たちが学問として残してくれている。それだけで超強くなれるような気がして、これは僕に向けて投げ込まれたことばだ!と思えることが嬉しくて、「この文章に感動できる自分ってもしかしたら最高じゃね?」と胸を張れました。
(その指針たちは、上に挙げた文献を読むことでこれまたぼんやりと見えてくる気がするので、何となく自分のことが言われているかもと感じた皆さんはお手にとってみてね)


その意味で、僕のネイルはクィアなお守りでもあるのだろうなと思えてきた。普通じゃない。普通じゃないけど、普通じゃなくていいし、普通じゃないからいい、ということが手元を見ればいつでもわかる。
分かりやすい構造に回収されてたまるかときらめく闘志、その構造を瓦解させようと企むひそかな策略、そしてこのままの自分でイケているのだというかすかな自信。
最初はカラフルってだけで始めたネイルだけど、後付けで意味まで付与しちゃおうね、その方が見えない分までデコれて嬉しいため。


とか言いながら、明日は出社日なので、今からネイルを落とします。
だけどほんのちょっとだけ、目を凝らせば見えるくらいだけ、落とさず残して行こうかな。近い将来、ネイル出社デビューデーが決まったら、みんなお祝いしてください。



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