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自己紹介:ウラもオモテもないけれど

よく、どちらが本業?とか、こっちが本業でしょ?とか言われる。本業は本業、それで生計を立てている方だと考えると、どちらかは明らかなワケだけれど、どちらも真剣にやっているつもりではある。まぁ、だからこそ、いわれのないツッコミを受けるのかもしれないわけだけど。ということで、ここでは、僕の仕事。そのA面とB面について自分の口から語ろうと思う。

A面とB面、逆じゃね?とか、両A面じゃね?とかいうツッコミはなしで。自分ではA面がオモテでB面がウラというつもりは特にないので、念のため。

【A面:研究と教育】

 A-1: プロローグ

今の仕事は東京都八王子市にある東京工業高等専門学校(東京高専)の情報工学科で教授という立場にある。ここに着任したのは2001年の9月1日だから、もう20年以上経つことになる。ずいぶん長くなったよなぁ。

学校ではいろんな仕事があるけれど、メインは研究と教育。この仕事に就いてからは早くも25年近くになる。最初の職場は東京都調布市にある電気通信大学。出身地でもある札幌市の北海道大学で博士の学位を取って、1997年の4月から電通大に当時あった情報システム学研究科というところで助手を4年5ヶ月の間、努めていた。

 A-2: 北大時代

学生時代の研究テーマは神経回路網モデルの学習理論に関するもので、学位論文のタイトルは「確率的ニューラルネットワークを用いた連想記憶に関する研究」だった今でいう「ディープラーニング」の走りみたいなことを当時はやっていたわけだ。もちろん、当時は計算機の能力も貧弱だったし、今みたいに社会実装的な応用が明確にあるわけではなかったので、ちょっと隔世の感があるんだけど。ちなみに、当時の代表的な論文を次のような感じ。

小嶋徹也, 長岡浩司, "ボルツマンマシンの学習と連想記憶", 電子情報通信学会論文誌 D-II, vol.J76-D-II, no.9, pp.2102-2108, 1993. (本文の閲覧は有料です)

長岡浩司, 小嶋徹也, "統計的モデルとしてのボルツマンマシン", 計算機統計学, vol.8, no.1, pp.61-81, 1995. (全文が無料で閲覧可能です)

北大の博士後期課程3年のとき、11月くらいまで仕事も決まらなかったのだが、11月くらいに学術振興会のポスドクへの採用通知と、電気通信大学の助手に来ないかとお誘いを2日くらいのインターバルでもらい、いろいろ考えた結果、北大でのポスドクを蹴って、電通大の任期付き助手のポストを選ぶことにした。このときの選択が違っていたら人生は大きく変わっていただろうけど、今は、この選択でよかったんだろうなぁ、と思っている。

 A-3: 電通大時代

電気通信大学で助手として勤め始めた研究室は日本の情報理論の総本山のようなところで、ゼミには大学の外からも、錚々たる研究者のみなさんがたびたび訪れて、言ってみたら虎の穴みたいなところだった。この虎の穴で、僕は情報理論をイチから勉強し直すことになった。もちろん、助手として研究室の運営はしなければならなかったけれど、自分にとってはあくまで勉強の場だったなぁと思う。当時学んだことや出会った方々は今でも大切な財産だと断言できる。

まさか、当時は自分が情報理論の教科書を書くなんて思いもしなかったけど。

特に当時教授だった韓太舜先生と、准教授だった長岡浩司先生には本当にお世話になった。いくらお礼を言っても言い過ぎることはないだろう。

で、電通大の助手の仕事は任期付きのポストで、いわゆる契約書のようなものはなかったが、約束で5年までということになっていた。2002年の3月で任期切れになるので、2001年から次の仕事を探し始めることになった。いくつか公募に応募したんだが、ちょうど夏休み期間中に面接を受けた東京高専で採用が決まり、任期切れを待たず、休み明けの9月1日から異動することになった。電通大のゼミの学生たちからすると、夏休み明けたら、「小嶋センセイ、いなくなったの?」ってなことになってたんだろうな。

 A-4: 東京高専での日々

ということで、2001年9月1日から東京高専情報工学科に着任した。前の職場は独立大学院で学生は少なくとも22歳以上だったんだが、高専は15歳から20歳まで。当時はまだ専攻科もなかったので、それより上の年代の学生と触れ合う機会はほとんどなかった。ちょっとしたカルチャーショックだったもんだ。

ちなみに、僕の東京高専着任は上で書いたとおり、2001年9月1日。この年の9月11日に何が起こったかは記憶している方も多いだろう。そう、僕が異動して10日後の9月11日、僕は学科の先生方に歓迎会をしてもらっていて、それから帰宅してテレビを見ると、WTCに飛行機が突っ込んでいた。そんな頃の出来事だ。

移ってからしばらくの間は、仕事をさばくのにアップアップだったし、自分自身が手掛ける研究と、学生にテーマとして与える研究の間にギャップがあってなかなか難しい面も多かった。今は、それなりにうまいことできるようになったが。この頃は、電通大時代に始めた通信のための系列生成の分野で仕事をするようになっていて、それは今現在の研究テーマの基礎にもなっている。当時学生と一緒に書いた論文と、最近自分が単著で書いた論文も、言ってみたら同じような鞘の中に入っていると言うことができるし。

T. Kojima, A. Fujiwara, K. Yano, M. Aono and N. Suehiro, "Comparison of the Two Signal Design Methods in the CDMA Systems Using Complete Complementary Codes", IEICE Trans on Fundamentals, vol.E89-A, no.9, pp.2299-2306, 2006. (本文の閲覧は有料です)

T. Kojima, "Hadamard-type Matrices on Finite Fields and Complete Complementary Codes", IEICE Trans on Fundamentals, vol.E102-A, no.12, pp.1651-1658, 2019. (本文の閲覧は有料です)

現在、学生たちと取り組んでいる研究テーマは、情報ハイディングという分野である。これは画像や、音楽、ビデオといったデジタルコンテンツに、人間の視聴覚ではわからないような形で秘密のメッセージを埋め込むという技術。実用的には、コンテンツの知的財産権を守るために電子透かしとか、コンテンツの不正コピーや不正配布を防止する電子指紋という技術に応用されていいる。

僕のところでは、情報ハイディングを通信手段として考え、ビデオや音楽を通してメッセージのやりとりができる技術を開発している。例えば、サイレン音に災害情報を埋め込んで放送するシステムとか、音楽や動画にメッセージを埋め込んでそれをスマホで録画・録音してメッセージを受信するような方式などを提案している。

この学校では、本当にいろんなことを体験させてもらっている。中でも珠玉の経験は1992年に行なわれたプログラミングの世界大会 Microsoft Imagine Cup で引率した学生チームが世界第2位になったこと。

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詳しいことは当時の僕のブログにも記録がある。僕はそもそも引率しただけみたいなもんだったけれど、それでも便乗して文部科学大臣特別表彰なんてもらってしまったんだから、世の中わからないもんだ。もちろん、世界一がいいに決まってるんだけど、別に2位でもいいんだよ。

 A-5: メルボルン時代

東京高専に来てからの経験でもう一つ忘れてはいけないのが、2010年から1年間のオーストラリアはメルボルン大学での在外研究。

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大学や高専が独立行政法人になる前は文部科学省の制度として在外研究員制度というのがあったんだけど、独法になったら、それぞれの大学等で運営しなければならなくなったため、この制度を手放すところも少なくなかった。

国立の高等専門学校は法人化されたときに全国に55あった国立高専が一つの法人になったんだけれど、この在外研究員制度も独自に運営されていたというわけ。実際には、全国の高専から1名ずつ推薦して、全体である程度の人数を採択するという制度だったと思うんだけど、2010年に僕が行ったときは、ウチの学校からは希望者が僕一人で、よくわからんがすんなり行けることになったっぽい。というわけで、2010年の4月から2011年の3月まで、メルボルンで暮らすことになった。

ヨメも常勤で働いているので、家族3人を残して単身赴任だったが、いや、だったからこそ、現地の暮らしにどっぷりと浸かることができたし、それまではできなかったことにいろいろと手をだすことができて、貴重な1年を過ごすことができたと思っている。

ちょうど、オーストラリアでもクラフトビールが右肩上がりであった時期でもあったので、ビールも存分に楽しむことができたが、家族が一緒じゃないので、ほとんど日本語を話す機会がないことから、ほぼ英語漬けの生活をすることができた。40を過ぎてから英語漬けの生活をしても、たかが知れていると思うんだが、パブで隣のおっさん達と会話する中で身に染み付いた英語は、なかなか抜けず、今でもちょっとオージー訛りだと自分でも思ったりするところがある。

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さて、このメルボルンでの在外研究から帰ってくるのが2011年3月末だったんだが、この3月11日、アレが起こる。東日本大震災。このとき、僕は家族と連絡が取れなかったり、これが原因で帰国が遅れたりしたんだが、この辺の顛末は当時の僕のブログを参照してほしい。

 A-6: 著書

さて、メルボルンの在外から帰ってきた2011年も暮れを迎えた11月、僕は一冊の教科書を出版する。実際には在外前から原稿を書いていて、この年に晴れて出版とあいなったわけだ。それが「はじめての情報理論」(近代科学社)。

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この本、ちょうどこの11月で10周年を迎えることとなった。おかげさまで、いくつかの高専や大学で教科書として採用していただいていることもあり、毎年コンスタントに売上を伸ばしているらしい。

内容はスタンダードな情報源符号化がベースなんだけど、高専の学生が自学自習できることを念頭に書かれているので、おそらくこれ以上簡単な日本語で書かれた教科書は金輪際出てこないだろうというくらい、いろいろなことを削ぎ落としている。それが高専の学生や学部レベルの学生にはひょっとすると丁度いいのかも知れない。さらに学びたい人は一般的な教科書で勉強すればいいんだから。

【B面:ビール】

 B-1: 衝撃の出会い

僕とビールとの出会いは学生時代、記憶はあんまり定かではないが、1994年くらいのことだ。まだ日本に地ビールなんてものが誕生する前の話。とある飲み会で驚きのビールと出会った。今、思えば、それはベルギーのグーズランビックだった。一緒に呑んでいた外国人のガールフレンドがベルギーの方で、彼女が持参したランビックを少し分けていただいた。

もちろん、当時の日本でビールと言えば大手が作るラガーがほとんど。僕がそれまで呑んでいたのも、ほぼそんな感じ。ランビックは自然発酵で醸し出された乳酸による酸味が特徴のビール。強い酸味と、例えようのない臭い。そう、香りというよりもあの独特のニオイ。これがビールなのかと当時は本当に驚いたものだ。

でもこれとほぼ同じ1994年に日本では酒税法が改正され、小規模のビール醸造が可能となり、翌1995年には日本の地ビール第1号が誕生する。

ちょうど僕も大学院の博士後期課程に進んだ頃だったので、学会発表なんかで出張をするたびに地元で作られる地ビールを探しては飲み歩くようなことを自然とするようになっていったというわけである。

 B-2: 日本地ビール協会

最初がいつだったかはよく覚えていないのだが、僕は日本地ビール協会が主催するビアフェスには多分2000年前後からお客さんとして参加していた。2001年のグラスが残っているので、2001年に参加していたことは確か。ただ、その頃はまさか自分が後にボランティアをやるとか、実行委員をやるとかいうことは思ってもみなかった。そのビアフェスの会場で、ビアジャッジという資格があることを知り、あぁ、いつかこの資格をとってみたいなぁ、と思ったことだけは確かに覚えている。

というわけで、その後、ビアテイスタービアジャッジの資格を取得し、日本地ビール協会が主催する Asia Beer CupInternational Beer Competition(現在の International Beer Cup)で審査をさせていただけるようになった。

さらには、海外の審査会にも参加させていただけるようになり、アメリカの World Beer Cup、オーストラリアのAustralian International Beer Awards、ドイツの European Beer Star をはじめ、シンガポールやメキシコ、ポーランドなんかでも審査をする体験をすることができた。

さらには、当時の小田良司会長に声をかけていただき、日本地ビール協会が主催するビアテイスターセミナーで講師をさせていただけるようにもなった。今では低スターセミナーだけではなく、ビアジャッジを認定するビアジャッジセミナーでも講師を務めさせていただいている。

さらには、現在では日本地ビール協会主催の審査会、Japan Beer AwardsInternational Beer Cup では審査委員長まで務めさせていただいている。最初はイベントのお客さんでしかなかったはずなんだが、この20年の間に本当にいろいろなことがあり、人生って面白いもんだなぁ、と思わずにはいられない。

 B-3: コンプリート・ビア・コース

さて、ひょんなことはさらにあ続く。2019年の暮れには、アメリカで10万部を超える売上を記録したビール本 "Complete Beer Couse" の日本語版を出版することになった。この本、原著は Joshua Berstein というジャーナリストが 2013年に出版したもので、その日本語版を出版したいという話を2015年の暮れくらいに楽工社の方からいただいた。

それから約4年弱、筆が遅いのにもほどがあるのだが、2019年の暮れに何とか出版にこぎつけることができた。300ページ超の大著なので、時間がかかるのはしかたがない、というのは言い訳だが、何とか仕上げることができてよかったと安堵したのを覚えている。

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さて、この本「コンプリート・ビア・コース:真のビア・ギークになるための12講」、内容は非常に盛りだくさん。80を超えるビアスタイルについて、その特徴や歴史、代表的な銘柄などが紹介されているだけではなく、アメリカの代表的なブルワリーの紹介やちょっとしたトリビアまで、軽妙なタッチで書き綴られている。

僕が翻訳する上で苦悩したのも、この「軽快なタッチ」というやつで、英語ならではのダジャレだったり、テレビネタだったり、なかなか日本人には伝わりにくい部分をどうやって日本語にしよう、というところだった。時間はかかったが、内容は極めて充実した一冊だと思っているので、興味のある人はぜひ手にとってほしいと思う。

本はアマゾンでも購入できる他、出版社の直販ページから申し込むこともできる。是非、一家に一冊、備えてみてはどうだろうか。1回か2回飲みに行くくらいの価格で、一生モノの知識が手に入る。コスパは悪くないと思っている。

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