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日航機墜落事故の日
37年が過ぎたのですね。
4月から社会人一年生として住友銀行で働き始めた私は、あの日もまだお盆休みではなく仕事をしていました。当時の手帳を開くと前日は日曜でアルフォンス・デーケン先生の渡航の見送りのため横浜へ行ったことがわかります。学生時代から先生の生と死のセミナーに深い影響を受けていた私は当時、生きることすなわち死ぬことをいつも考えていました。自死という意味ではありません。恋人を失い写真の夢も諦めて就職し一度自我が崩壊した状態でいた私にとっては、生きるうえで死を考えることほど真に生きているという実感を抱くことができる時間はなかったのです。一行しか表示されない安価なワードプロセッサーで遺書も何度か書いたものですが、遺書をしたためることはよりよく生きるための指針を確かめる作業でもありました。死は来てしまうものではなくそこへ向かうものであって生きることは死の準備にほかなりませんでした。
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あの日仕事の面では特別何も変わったことはなかったのだと思います。12日の手帳は空白で何も書かれていませんから。そして翌13日は休みを取っています。そのままお盆休みに入ったのでしょう。12日はポツンとその日だけ出勤していつものように仕事をした日であったはずです。ただし夜遅くハイヤーで帰宅した記憶は鮮明にあります。その記憶は、日航機墜落事故とセットで記憶されているからです。
大きな事故でしたから仕事中にはすでに話題になっていたはずです。なので家に帰ると真っ先にテレビをつけたのでしょう。暗闇に炎が見える映像が映し出されていた記憶があります。帰宅したのはかなり遅い時間だったと思うのでたぶんリアルタイムの映像ではなく、すでにその日何度もリピートされていたものではないかと思われます。そして青地の背景に次々と搭乗者の名前がスクロールしてアナウンサーがその名前を淡々と読み上げていた光景が忘れられません。なんとも言えない気持ちになったのを覚えています。
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それからしばらくして私はやっぱり写真の仕事をすることに決めて、銀行の仕事をやめました。もともと目指していたものだから諦めきれなかったのです。いつ生きることができなくなるかわからないと考えたとき、喪失した自我を掬うことを選んだのです。
その後の私はといえばあっちへ行き壁にぶつかってはこっちへ行きと、けっして筋の通った人生を過ごしたわけではありません。でも結局何をやっても写真を撮ったり文章を書いたりという仕事に戻ってきてしまうのですから、それが私にとって生きるということなのでしょう。
一本道を迷いなくストイックに突き進む人は素晴らしいと思います。でも一本道が二本道でも三本道でも何本道でも生きるということにおいてはなんの違いがあるのでしょう。
大事にしなければいけないことは一つだけです。
私はまだ生きているのです。
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