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コーヒーとバゲットと7月に

森川が数時間に及ぶ孤独な格闘の挙げ句、最終のpdfをメール送信したのは早朝4時すぎだった。とりあえず彼のパートは終わった。後は電話とビデオ会議でしか面識のない営業さんの頑張りに期待するだけだ。ウィルスのまん延を契機に、リアルでの打ち合わせは激減していた。

もっともその御蔭で、どこにいても仕事はできるわけだが。以前は、ITに疎いことを個性としてひけらかしていたクライアントの口からさえ、ZOOMやchatGPT、生成AIなどの単語が繰り出されるようになっていた。

金曜からの3日間、昼夜無関係都合20数度に及ぶやり取りの余韻は、高揚感となって眠りを受け入れることを拒んだ。タバコを吸おうとベランダにでた森川だが、以前はそこにあったはずの灰皿がなくなっていることに気づいた。少し湿り気を帯びた3月の風が、彼の中に2年前の記憶を呼び起こした。日の出にはまだ1時間近くあるというのに、寒さを感じることはなかった。

森川の事務所は明治通りと駒沢通りの交差点に面したビルの5階にある。足元まで素通しのガラスウォールから渋谷橋に架かる歩道橋を見下ろすと宙空に浮かんでいるような錯覚を起こすことがある。特に、徹夜で高揚した気分が一気に沈静化する早朝は得てしてそんな錯覚に陥りやすい。

まだ薄暗い歩道橋の手すりの上に何か動くものが見えた。最初はぼんやりとしたイメージだったが、やがてそれが人間らしいことに気づいた。幅10cmほどしかない手すりの上に立ったそのシルエットはとても優美にさえ見えた。子ども?いや女か。酔っ払ってる?それともパルクールもどき。どっちにしても危険には違いない。いつもなら傍観者を決め込むところだが、高揚の余韻が森川にいつもとは異なる行動を取らせた。

彼が息を切らして歩道橋に駆け上がったとき、人影は文字通り手すりの上を飛び跳ねていた。踊るようにリズミカルなその動きは朝の薄明かりを受けていっそ美しくさえ映った。

「やぁ、いい朝だな。なにか面白そうなことしてるけど、なぁにそれって?」とりあえず、あまり相手を刺激しない程度に話しかけた。

手すりの上の人影は森川を見つめ静かに笑った。女の子だ。高校生?そう中学生ってことはないだろう。どちらにしてもまだ子どもだ。始発が通るにはまだ時間がある。この街にいるということは近くに家があるのだろうか。

それとも夜あそび、若者言葉でいうオール、古いのか?それにしては一人きりというのは不自然だ。とにかく、相手を構えさせてはいけない。なにしろ手すりの下はアスファルト。高さだって5m以上はあるだろう。少ないとはいえ交通量もそこそこはある。森川も相手に合わせるように微笑んでみせた。

「なんかエロいこと期待してる。それとも心配してくれてる」

「エロいことか。それもいいかもな、でも今のとこはどっちでもないかな。オレは徹夜明けですげぇ眠いんだ。それどころか眠らなきゃいけない状態なんだ。だけど、キミを見ちまった」

それで?とでもいうような表情で人影は森川の目を見つめた。一切のてらいのない一直線の目力。

「ところで君は男の子なのか、女の子。どっちかのかな」

「気になる?」

笑った。うれしそうだ。

「そうかぁ気になるのか」

「あぁ、気にはなる。キミに興味を持ってるって意味だけどね」

「興味を持ってる?それは性的な意味とか、そういうこと」

「あのな、それ以前だ。なぁ腹減らないか。オレは減ってる。そこでだ」

「どっかで飯でも食わないかって」

やっぱりなコイツはオレとおんなしで、考えがすぐ口に出ちまう。聞き上手とは無縁の性格で損するタイプ。性格の良い人間同士のコミュニケーションはむずかしい。森川はいつのまにか笑顔になっている自分に気づいて少し照れた。

「キモいなぁ。またエロいこと想像してるんだろ」

どうやら超能力者というわけではないようだ。それにしてもコイツはオレをどんな人間に設定しているんだろう。森川はあきらかに面白がっていた。

「安心しろお前はオレのタイプじゃないよ。それより名前を教えてくれないかな。オレはひろゆき、もりかわひろゆき」

「エロユキね。キールだ」

エロじゃないって。にしてもキールね。まだ本名を教えてくれるレベルの付き合いは無理ってことらしい。

「まぁいいよ。でキールどうするつきあうのか」

「エッ?なに?」

「だから、朝飯さ。いくぞ」

返事を待たず背を向けた。背後で手すりから着地した音がした。ドスでもスタッでもタンッでもなく、促音抜きのトン。予想はしていたが、ハイレベルなボディコントロールだ。いっそ忍者かと。階段を降りようとしたところにコトバが追いかけてきた。

「できればマック以外がいいんだけどね」

といってこの時間に定食は無理だろう。まぁいい、イートインできるパン屋があったはずだ。パンとコーヒー。とにかくシアトル系のコーヒー屋みたいな焙煎と砂糖とミルクや香料で誤魔化したようなコーヒーじゃ無けりゃ何だっていい。

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