見出し画像

生成AIに対する忌避感の正体/キメラに近い化学

前回こちらの記事を書きましたが

今回はこの生成AIについて、特に絵、イラストの部分にフォーカスしたより個人的な感想になります。

最初に書いておくと僕はAI生成については
・反対ではないが、賛成する気にはなれない
・とは言えもう止められないと思っている
・今後どういう扱いをしていくのが良いかはまだよくわからない
という感じです。

■どうしてAI絵師やAI推進派とクリエイターは対立するのか?

これまでもこの構図での意見対立は主にTWITTER上でちょこちょこ見かけていたのですが、記事を書こうかなと思ったのはこちらのツイートと、それへのリプや引用を見てからになります。

あくまでこの方の考えでのツイートですが、主語が大きな表現だった為、思ったよりも反応が出た感じで、その影響で僕のタイムラインにも流れてきたという印象です。

僕自身はプログラマーでもなく、クリエイターでもないのでどっちの言い分も分かる部分はあります。ですが今の状況で言えばクリエイターの人が感じている危機感や虚無感は相当なものであるというのは想像に難くありません。生業としてのクリエイターだけでなく、趣味あるいは生きがいとして創作活動をしていたとすればこの生成AIがどうなるかというのは死活問題です。文字通り生きるか死ぬかの様なポジションに突然置かれた訳ですから反抗や抵抗はあって当然でしょう。

とは言えクリエイター以外の視点で言えば既に広まった生成AIは世界中至る所で活用され、更なる活用方法が検討されているのですから時代に取り残されない為に自分達がこの生成AIをどう活かしていくのかというのもある意味置いていかれない為の死活問題でもあります。

こうした問題は歴史の中でも数多くありましたので、この対立構造というのはそれと同じ構造と見る事が出来ると思います。

例えば上記リンクの中で印象深いのは電話交換手やエレベーターガールなどがありました。

それではこうした消えていった職業、敢えて言えば不要になった職業ではこうした対立というのは起きなかったのでしょうか。全く無いという印象はありませんが、今の様な明らかな反発というのは見られなかった様に思います。

というのも、ある程度時間をかけて、それこそ何年も前からそういう雰囲気や兆候があったという言ってみれば準備期間的なものがあった様に思います。今回の生成AIとクリエイターというのは、そうした準備期間無しに「来年には(早ければ数か月後)もう絵描きは不要になるよ」という現実を突きつけられた様な状況なのかもしれません。

個人的にはこの状況というのは、受け入れがたい未来を提示された側と、提示されなかった側に生じるコミュニケーションに近いものだと考えます。

自分を含む100人の集団の中から、50人は死ななければいけない。その為に血液型がA型の人間が丁度50人だったのでA型の人をその対象とする事にした。

ピタッと来る例えではないのですが、このA型の人というのがクリエイター側で、それ以外の人が対立構造にある人というイメージです。A型の人は当然猛抗議しますが、それ以外の人はいやいやこれは仕方ない事だ諦めてくれ、みたいなやりとりに近く感じます。

もしくは、奪われる側と与えられる側の違いでしょうか。

■自分の絵が盗用された訳ではないのに何故怒るの?

これも少し前にTWITTERのこういった話題の中のリプ欄で見たのですが、この問題は個人の問題を大きく飛び越えた文化や倫理の問題です。後述しますが、人のクローンを認めるのかどうか問題と同じです。自分のクローンが作られる訳ではないのに人は人のクローンに対して反発します。

それと同じです。

■AIにはアートにあるその人の存在や歴史が感じられない

個人的な感想にはなりますが、AI生成の絵やイラストには味わい深さというものが感じられません。

僕はこれまでに2度、画集というものを買った事があります。
一つは学生時代にエヴァンゲリオンが流行り、そこでキャラクターデザインをしていた貞本義行さんの絵に惹かれて古本屋で見かけた画集を買いました。

二つ目はファイナルファンタジーのキャラクターデザインをしている天野喜孝さんの画集です。これは僕がファイナルファンタジーをプレイしてそのパッケージイラストに惹かれて、当時古本屋で売られていた画集を購入しました。

貞本義行さんの画集はALPHAというもので、エヴァよりも前に描かれた画集でした。

貞本義行「ALPHA」
貞本義行「ALPHA」
貞本義行「ALPHA」

幾つかウェブにあった画像をリンクしましたが、そこにはエヴァのキャラクターは居ないものの、後のエヴァンゲリオンに連なる可能性や雰囲気を感じさせます。ここからふしぎの海のナディアという作品や、王立宇宙軍オネアミスの翼といった作品も知りました。


天野喜孝さんの画集はファイナルファンタジー モンスターマニュアルという画集扱いではないですが天野喜孝さんがデザインしたモンスターが丁寧に説明と共に掲載されている今であれば立派な画集扱いされているものでした。これもこの白黒の激しい水墨画の様な絵が例えばファイナルファンタジー6のパッケージ絵の様なものとリンクするなといった事を当時感じていました。

AIが生成する絵や写真には現状ではそういった歴史や背景を感じ取る事は出来ません。要するに生成されたものは瞬間的で、どこにも繋がりが無いのです。点と点で結ばれて繋がるという事がありません。
この違いは僕の中ではとても大きく、人が描いたものは1枚の絵でも1枚ではない感覚を感じ取れます。この前の作品はどういうものだったのか、この次に作るものはどういうものなのか、等の広がりや、想像の余地があります。

対してAIで生成されたものは目の前にあるそれが全てで、それ以上でも以下でもなく、点がそのまま点で終わる感覚です。


うまく伝わると良いのですが。

■AIが生成する絵はキメラの様なもの

前述したクローンの話を再度掘り返します。

AIが生成したイメージというものは膨大なデータやサンプルの中から、プロンプト、指定された指示内容に沿う形に近いものを集めてそれを一つのイメージになるように調整して生成されます。

この手法は、都合の良い部分を搔き集めて、ごちゃ混ぜにして、つぎはぎで組み合わせている_仮に人で例えるならデザインヒューマンの様なもので、科学技術で過去の偉人の遺伝子を組み合わせて生まれた人みたいなイメージです。

概念だけ同じもので探すとすると「キメラ」が最も近いというのが僕の現時点での生成AIに対する印象です。

これは絵だけでなく写真でも同じです。

「待て待て、それならCGだって同じようなものだろう」というツッコミはあると思います。

大きな違いは完成までのプロセスにあると思います。
CGは完成までに人の手が無数に入りますが、生成AIは命令→完成です。もちろんプロンプトの工夫や繰り返しなどは入りますが、それは完成までの作業を改善して繰り返しているので異なります。
一言で言うと、制作されていないのです。

この「生成」という言葉も言い得て妙で、AIが作るイメージや絵について本質的な捉え方をしていると思います。

1 ものができること。また、ものを新たにつくり出すこと。「薬品を―する」
2 哲学で、事物がある状態から他の状態になること。また、その過程。転化。

どちらかと言うと化学的なシーンでより多く使われる言葉です。
例えばある薬品とある薬品を混ぜて、異なった別の薬品を作る際などです。

実験的な要素を含んでいる印象もあります。

生成AIが生んだ絵や写真などの中に
・人だけど片手に指が6本、7本ある
・体と別の体がくっついている
・関節がおかしな曲がり方をしている
・よくわからない何かが生えている
などのイメージを見た事がある人も多いと思います。

これは生成を繰り返す中で生まれた失敗作です。或いは完成に近付けなかったなれの果ての一つです。

発想が飛躍、または表現がオーバーしている感はありますが、
生成は
ーーー違う人間の写真と違う人間の写真を混ぜたり
ーーー異なるキャラクターを何人も何人も混ぜたりして、命令文の求める結果の為に”元々あった何かの一部を切り取って”つなぎ合わせた結果です。


錬金術が実現した、そんな感じでしょうか。
鋼の錬金術師を読んでいた方であればこの忌避感の根源というものも何となく伝わりやすいかもしれません。

■終わりに

今回の記事は、冒頭にも書きましたが、現時点で僕が生成AIに抱いている印象です。それをクリエイターの人達がどういう視点で見ているのだろうかという憶測を交えて書いたものです。
今後どういう形に落ち着いていくのか本当に予測がつきません。

もしかするとAIが受け入れられる手段としては「いかにそれがAIの生成ではないと認識させるか」という感じなのかもしれません。



2023年4月27日追記

■得体のしれないなにか


まずは上記ツイートの動画を見て頂ければと思います。

本記事で書いてきた忌避感の現状での集大成の様なものかと思います。

この動画の中で出てくる人物、食物など、どれも本物はありません。

本物ではないという点では、アニメと同じでは?と思われるかもしれませんが決定的に違うのが下記になります。

・人間の様に見えれば良いだけで、人間ではない何か
・ピザの様に見えれば良いだけで、ピザではない何か

この動画では、人の様に見える人ではない得体の知れない何かが、ピザの様に見える得体の知れないモノを食べています。


ツイートでも書かれていますがパッと見では「ピザのCM」の様に見えますが、よく見ると言いようのない不気味さ、異質さを感じます。


人の感覚検知は中々優れていると個人的には思います。
数秒見ればそれが人なのか、人ではない別のものなのか、というのは感じ取ります。

アニメがそう思わせないのは、人として描かれているから人として認識されます。例えば1コマごとの表情の移り変わりも、人間ならこういう動きの推移をしていくという前提で作られているので人として認識されます。

上記AIの動画をコマ送りの様に止めながら見るとわかりますが、この動画に出てくる人は1コマごとの表情の移り変わりや、繋がりが破綻していたりします。

例えばコマを止めずに見ていれば気付きにくいですが、
1コマ目:両目、鼻、口がある笑っている顔
2コマ目:片目が描かれておらず、鼻筋が通常曲がらない曲がり方をしている
3コマ目:1コマ目に近い顔
4コマ目:顔の輪郭が変に歪んでいる一部がある
5コマ目:唐突にそれまでハイライトが入っていなかった箇所にハイライトが発生している
という様な感じで連続する映像を流して見れば一見すれば人に見えるものが、コマごとで見ると明らかに不自然な繋がりや破綻が生じていたりします。

こういうものも人の目や脳は無意識に感じ取るのでこの動画に対して言いようのない不気味さや、人の様だけども人ではないという感覚に襲われるのかと思いました。


翻って見れば、こうした違和感を上手く隠す事ができれば、AIの生成というのは人の認知能力ではAIである事を認知できなくなる可能性があるので、次のステージに上るのかと思います。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?