「クロスオーバー(ジャンルの垣根を越えること)」を考える。
昨日、ヤーノシュカ・アンサンブルという素晴らしいグループと所属オケで共演してきました。この方々、ブラチスラバ出身の音楽家兄弟なのですが、クラシックの名曲をアレンジして即興もして・・・と正に「クロスオーバー」。そういえば僕も2014年に考えをブログにまとめていたことを思い出し、noteに持ってくることにしました。今もあんまり考えは変わってません。
2014年に書いた記事↓
雨の日曜日です、トリエステ。この週末はかなり久しぶりに急ぎの用事が全く無く、のんびり勉強したりしています。昨日から考え続けている、自分の音楽の「ジャンル」に対する考えを、整理します。
木曜日に、市の若者課みたいなところが企画しているバンド・コンテストの第2段階をこなしてきました。最初の「オーディション」で17グループから12グループに絞られ、そこは通過しました。今回は「ワークショップ」と銘打って、審査員とのマスタークラスのようなものでした。
このコンテストの今年のテーマ自体が「クロスオーバー」というもので、ジャンルの垣根を越えたようなグループを募集している、と僕は理解したので、僕のカルテットと参加を決意したのでした。
そもそも僕のカルテットは、「ジャンルを気にせず美しいメロディーを探してきて弾くこと」を目的の一つに掲げています。そこで最近、クロスオーバーと言われているグループやバンドなんかを意識して聞いてる訳ですが、考えれば考えるほど「クロスオーバー」という言葉の矛盾が気になってきます。
つまり、「ジャンルの垣根を越えよう!」と思うという事は、自分でもって「そこには垣根がある」と認めている事になるのです。そうではなくて、全体的な音楽としてのアプローチをしたい、というのがとりあえずの僕の理想です。
まずはクラシック音楽について。そもそも、歴史を紐解けば、クラシック音楽がこんなにも「カタイ」音楽になったのは、ついここ80年ほどだ、というのが僕の主張です。別にバロック時代やルネッサンス時代の即興演奏までさかのぼるつもりはありません。現代のクラシック音楽の「固さ」「正しさの追求主義」がどのように生まれたのか?を考えてみました。
音楽教育のシステムの充実とそれに伴う「演奏の評価基準」の確立の必要が、まず一つの大きな原因だと思います。つまり、演奏を採点する必要が生まれ、個人個人の「感動」を点数にする事はできないから、仕方なく「音程が悪い」「様式に合っていない」「テンポやタイミングが悪い」などの表層的な評価基準を作る必要があって、現代ではそっちが重要になってしまったんだ、と僕は考えています。
もちろん、「録音」の発達も関係しました。極論を言えば、録音が生まれる前は「演奏のミス」というのは、演奏後には「存在していなかった!」んです!こう考えるだけで、音楽演奏に対する演奏者の心構えが大きく異なっていたのは容易に想像できます。
うーん、だいぶ話が逸れてきました。つまり僕が言いたいのは、クラシック音楽をジャズっぽい(流れに任せる、即興を否定しない)心持ちで演奏するのは、クロスオーバーでもなんでもなく、クラシック音楽の「本質」を追求した結果である、という事なのです。僕のカルテットでは、どんなジャンルで演奏されようと対応できる「シンプルで美しいメロディー」を取り上げるようにしていて、それを好きにアレンジして弾いている訳です。
難しい話はこの辺にして、ワークショップの様子について。審査員の食いつき、評価はかなり良く、まったく「欠点」を指摘されませんでした(少し拍子抜け・・・)。彼らにしても僕らのようなグループの参加は予期してなかったようで、色んな質問やグループ名の説明で、議論セッションは和やかに終了しました。
これで選考段階は全て終了、12グループから3グループだけが選ばれ、コンサートをさせてもらえます。グループ名も決定し、レパートリーのリハーサルも進んでいます。コンサートの日程などが決まったら、本格的に宣伝活動も始めたいと思ってます!
※2021年11月追記。このバンドは結局特別賞を受賞し、小さいコンサートをさせてもらえました。しかしやはり仕事までは繋がらず、メンバーが住むところが変わったことで事実上の解散。今思うと寂しいなぁ・・・。