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告別式で演奏した時のこと

友人のVから、久しぶりに連絡が来た。Vは国外で仕事をしており、彼女がここトリエステに帰郷するタイミングでコーヒーを飲みながら近況報告をする、といった程度の付き合いなので、今回も「お、また帰って来てるのかな?」くらいの軽い気持ちでメッセージを開くと・・・。

彼女らしからぬ長文。内容は「久しぶり、邪魔してごめんね。あなたにこんなことをお願いしても良いものか分からないんだけど、昨夜ママが亡くなったの。それで、土曜日に告別式を企画してるんだけど・・・」というもの。一気に周りの空気が重くなり、「これは重大なことなのだ」と自分に言い聞かせ、読み進める。

要は告別式で何か弾いてくれないか、という依頼。彼女や家族の知り合いの中で、音楽家というカテゴリーで、僕を一番に考えてくれたのだ。スケジュールは都合がつきそうだったので、まずは引き受けた。もちろんどのくらいの規模なのか、どんな会場なのか、演者として気になることはたくさんあるが、まさか母親を亡くしたばかりの彼女に質問しまくる訳にもいかない。最大限のお悔やみの言葉と、「数日後、落ち着いたら詳細を詰めよう」とだけ返信しておいた。

さて、何を弾くか。その後の数回のメッセージのやり取りで、無宗教(非カトリック)の告別式であること、場所は僕も何度か行ったことのある郊外の墓地にある施設の小部屋であること、施設側はあまり生演奏に積極的ではないので一曲だけ、というところまで判明。

このシチュエーションならバッハやフリーバなどの凝った無伴奏曲より、メロディに力のあるシンプルな曲の方が良いだろうと、穏やかで寂しい感じの曲を色々と脳内再生してみる。実は若いころはコントラバスで弾けるこういったメロディを収集していた時期もあり、候補はたくさんあったのだが、最終的にはヘンデルの「Lascia ch'io pianga」というタイトルのアリアに決めた。

これは僕の先生がアレンジして録音したのだが、「私が泣くことを許してください」というタイトルや歌詞の内容も丁度良く、長調の曲調も悲しみに沈み過ぎることなく適しているように思えたのだ。知名度もそこそこあるので、参列者も聴きやすいはず。宗教色も無い。

そして迎えた当日。悲しそうなV。それ以上に悲しそうな、彼女の父。告別式といっても棺桶が安置された小部屋があり、思い思いに参列者が花を供えて最後の挨拶をしたり家族と思い出を語り合ったりと、式次第がある訳でもない。いつ弾いたら良いのか見極められずタイミングをうかがっていると、父親が震える声と手で故人への手紙を読むという唯一のイベントが。この機を逃さず、そのすぐ後に自己紹介をして演奏する経緯を参列者に話し、注目してもらう。

目を瞑って弾き始めると、参列者の間ですすり泣きが聞こえてきて、こちらも感無量になる。それでも、短調の中間部を経て長調の主題の部分に帰ってきたころにはそれも収まり、そこにいる皆の意識がメロディに集中しているのが感じ取れた。僕が音楽を弾いたからといって死者が喜ぶわけでも、残された人々の悲しみが軽くなるわけでもない。でもこうして、皆が一つのメロディに集中すれば、それは強力な祈りだとは思うのだ。

弾き終わると拍手はあったが、この場所で拍手を貰うのも違うと思い、参列者と故人に軽く一礼をして、すぐに小部屋を出た。僕はVの母親と会ったことくらいはあるが、それ以上の関係ではないし、長く居座るべきではない。Vと家族だけに挨拶をして、引き上げた。僕がささやかながらに出来ることは、もうやったのだ。

不慣れな機会で、演奏の手応え自体はあったものの、果たして自分がしたことはあの場に相応しいものだったのか?という小さい疑問はあった。僕は幸運なことに、今までの人生で近しい人を亡くした経験があまり無いので、こういった機会の機微が「肌感覚」として分からなかったのだ。僕ももういい歳なので、これから少しずつ覚えていくのだろう。

数日後、Vから「演奏をありがとう。あなたの音楽が家族みんなの心を慰めてくれて、みんな心の底から感謝しています。こんど父親のうちで、昼食か夕食に招待させてね。」というメッセージが届き、僕自身も救われた気がした。

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