流行とは虚構

ずいぶん前に、ある一人の女性から相談を受けたことがある。
ここでは相談してきた女性を山田花子さんとでも仮名として呼ぶことにしよう。

山田さんの相談の内容は
「自分の感性が世間とズレているんじゃないか?それが不安で仕方がない」
とのこと。
ちなみに冒頭で「ずいぶん前に」と書いてみたものの、どれくらい前だったかな?と当時を振り返ってみると、まさしくKYと言う言葉が流行っていた頃だ。
なんだか懐かしい。
知らない人はいないと思うが、忘れてる人もいると思うので一応説明しておくと、KYとは「空気読めよ」とか「空気読めない奴」を略した言葉。
なるほど。
KYという言葉が流行るくらいだから、当時、山田さんだけでなく本当に多くの人が自分と周囲の空気が違うことに不安を感じてしまう脳になってしまっていたのだろう。
ある意味、流行というのはたくさんの人を洗脳している状態なのかもしれない。

山田さんも自分が周囲の空気を読めない存在であることがいけないことだと思ったから相談してきたのだ。
逆に言えばみんなと同じでいることが山田さんに安心感を与えるとも言える。

女性からの相談というのは解決策を求めているわけではなく、ただただ聴いてあげるだけでいい。
そして共感してあげるだけでいい。
一応僕も大人だったし、そんなことは百も承知だった。
だが、しかし(笑)・・・・
思わず男性としての理論的な脳にスイッチが入り、ついブッタ斬ってしまった。
女性の相談を受ける事例としては悪い事例として恥を忍んで公開すると・・・

「そっかー。みんなと同じがいいのかぁ。じゃぁこれからは山田さんのことを誰かに紹介する時に、
『この人は山田花子さんと言って、その辺のどこにでもいる人と同じです』って紹介してもいい?」

そう言うと山田さんは全力で顔を左右に振り、拒否した。
僕の性格の悪さはさておき、人間とは不思議な生き物だなと。
みんなと同じであることに安心し、みんなと同じであることを否定したい。
KYという流行を追えばみんなと同じがいい、でも人間の深い部分ではそうじゃないと切望している。
そんな相反する現象を観察すると流行というのは脳の中にできあがった虚構に過ぎないのではないかと思う。
みんなと同じじゃないと不安という悩みは脳の中にできた虚構に振り回されているに過ぎないのだ。

時代というものは常に流れとは反対に動こうとする力が働いているらしい。
KYが流行してからほどなくして、それとは反対の「個性を大切にする」風潮が広がり始めた。
「世界に一つだけの花」という歌が流行り、競争で勝つことよりもユニークさがウケる時代になった。
それは一方で今までの学校教育がボロクソに言われることにもなる。

・詰め込み型の教育
・受験に合格するための教育
・一つしかない絶対的な正解を求めさせる教育
・良い大学に入って、良い会社に就職して、良い給料をもらって、
 良い人と結婚するのが人生の幸せ
・人に迷惑をかけてはいけない
・努力と根性
・ねばならない価値観

などなど。

それは高度経済成長で必要な
「画一的な工場労働者を大量生産するための教育」
と皮肉を込めて揶揄され、昭和の古い教育と位置付けられるようになった。
そして多くの人が心理学やコーチング、ヒーリングの技術を学び、一人一人に寄り添って個性を尊重する声を高らかにあげるようになった。

・あなたはあなたのままでいい、
・人に迷惑をかけたっていいじゃないか、
・人生一回しかないんだからやりたいことをやろうよ!
・もっと自分の心の声に耳を傾けよう!
・好きなことをして自由に生きよう!
・社畜になるな!
・べき論を押し付けてくる人から離れよう
・正論をかざしてくる上司は相手にしなくていい

そして
・ツイてる
・きっとよくなる
・ポジティブ思考
といったフレーズが並んだ書籍が軒並みベストセラーとなった。

さらに昔からある
思考は現実化する
引き寄せの法則
なども再び脚光を浴びることになる。

とにかく多くの人たちが
これらの生き方に酔いしれたし、
それを生業にする人たちが増えた。
社会現象と言っても過言ではない。

本当に多くの人が声高らかに
嫌われたっていいじゃないか!
人に迷惑をかけたからなんだって言うんだ!
自分が生きたいように生きるのが本当の幸せ!
人は幸せになるために生まれてきた!
と叫びはじめた。
そんな時代に突入した。

どうだろう?
多少大袈裟かもしれないが、概ねそんな感じではないだろうか?
そんなに否定することもなく
「まぁ確かに・・・」
くらいは同意してくれると思う。

人によっては大いに共感して
まったくその通り!そして今もこれからもそれを大いに望んでる!
と膝をたたいて同意する人も多いと思う。

ちなみに僕もその考え方自体は否定はしない。
僕は昭和生まれのガチガチの詰め込み型の教育を受けて育ってきた古い男だ。
だから今でもやや「それってどうなの?甘くね?」という気持ちが完全に拭いきれないのも事実だ。
「でも、時代は変わるよなぁ。。。新しい時代とはそういう可能性に満ちた変化を受け入れることなんだよ。」
と自分に言い聞かせては多様性を受け入れているつもりだ。

ただ言いたいことがある。
今、果たしてどうなの?と。

世間ではコロナコロナと。
全てがコロナ中心に最優先事項として善悪が決められている。

口を開けば自粛自粛と。
警察でない人が警察の役目をしてまで「ねばならない」価値観を強要する。
テレビでは眉間にシワを寄せてコメンテーターたちが自粛していない人たちに圧力をかける。
自分たちがスタジオで収録することで感染のリスクを高めることは言及せずに。

そして多くの人たちが自分の心の叫びとは裏腹に我慢を強いられ、
得体の知れない根性論で乗り切ることを強要させられている。
地方の観光業はもう悲鳴すら出ないほど追い詰められて弱っているというのに。
一人一人の個性なんかどうでもよく、
とにかく他人に迷惑をかけてはならないから
家から出るんじゃないと。
仕事もするな、休業しろと。
一つの絶対的な正解を求められる。

昭和の学校教育そのもの。

他人に迷惑をかけたっていいじゃないか、
一回しかない人生、無駄にするな!
自由に生きよう!
と、ついこのあいだまで声高らかに言っていた
あんなにたくさんいた人たち、
彼ら、彼女らはどこ行っちゃったんだ?
社会現象にまでなったあの人たちはどこに消えた?
それを先導していたカリスマ起業家たちはどこへ消えた?
まさか自ら恐怖を煽って自分の会員制サロンに誘導してたりしないだろうな?
勧誘された人たちが自粛警察、マスク警察になってないだろうな?

テレビでは来る日も来る日も恐怖を煽る情報を流し
まさにコロナは怖いという流行が脳の中に虚構を作り上げ
不安な世界を作り上げている。
KYと同じ原理だ。

多くの人が同じでないと不安で仕方がない。
他人と違うことをしてはいけないんじゃないかと。
それは絶対的な正義感によって固められた虚構が引き起こす洗脳。

命のことを引き合いに出されたら
ついそれが絶対的な正義だと思わされてしまう。
死んじゃったら元も子もないじゃないか
というのが彼らの理論上の大前提だ。

そう、死んじゃったら元も子もない。
それは確かにその通りだ。
でもその理論を押し通すなら
飛行機にも乗らなきゃいいし
車にも乗らなきゃいいし
自転車だって危ないし、
自分が乗らなくても外にいるだけで
巻き込まれる可能性は大いにあるし
事実、被害者は多い。
タバコも一切吸わずに
自宅は滅菌ルームにして
防護服を1年中着て
ジャンクフードは一切食べないことだ。
海や川には近寄らず、
地震が多い日本からは引っ越した方がいい。

それらを全てやるなら、話の筋は通る。
しかしそれは今まで築き上げてきた文化そのものを
いきなり全否定することと同じだ。
だから誰もそんなことは言わないし
現実的じゃないと一蹴する。
僕も一蹴に値すると思うがそれはコロナも同じだ。

そもそも今まで命を最優先に考えなかった時代があっただろうか?
いつでも命が最優先だったはず。
それでも危険なことはとなり合わせだった。
最優先ではあったが、いつも犠牲はそこにあったのも事実だし
その危険を受け入れて文化や慣習を先人から受け継いできた。

テレビなどで怖い怖いと恐怖を煽れば煽るほど
視聴者の思考は凝り固まり、やがて本当にそうなる。
世の中は今、感染の恐怖で身動きがとれない世の中になったじゃないか。
まさに思考は現実化することが証明されたのだ。

でも、どうせ現実化させるなら
人類にとってより良い思考を現実化させたくはないだろうか?
今のこの世の中は人類が望んだ世界なのだろうか?

田舎の両親に孫を会わせられない
楽しい外食は御法度
演劇もライブもスポーツも旅行もNG
人を見れば泥棒とまでは思わないが、ひょっとしてコロナ?と疑う
最近、東京の人と仕事した?という質問
県外ナンバーの車に傷をつけ
感染者の心に傷をつけ
その家族を迫害する。
マスクが送られてくるのが遅いと文句を言い
送られてきたマスクがダサいと文句を言い
そもそも送ることに意味があるのかと文句を言い
給付が遅いと文句を言い
やることなすことが遅いと文句を言い
すぐにキャンペーンをすると今はまだ早いと文句を言う。

こんなことが人類が望む思考なのか?

ポジティブ思考はどこへ行った?
僕たちはついてるついてるんじゃなかったのか?
きっと良くなるんじゃなかったのか?
何があっても大丈夫じゃなかったのか?

あんなにたくさんいたあの人たちはなぜ今声をあげない?
なぜ恐怖や文句ばかりが出てくるのだ?

昭和か?
僕たちは昭和に向かうのか?
それならそれでいい。
僕は昭和生まれのガチガチの昭和教育で育った
生粋の「ねばならない」根性論を持ち合わせている。

リスク排除を徹底して
どんな例外も許さず
一律に平等に皆自粛だ。
我慢と根性で乗り切ろう。

やろうじゃないか。
やったろうじゃないか。
どうだろう?
みんなで徹底してやってやろうじゃないか。
いや、やらねばならないのだ。
気持ちや同意など得る必要などない。
みんなで協力して一丸となってやるしかない。
どんな例外も許さず、とにかく一刻も早くコロナ騒動を収束させるのだ。
それが今の風潮だ。

いや、そこまでは言ってない・・・
というのであれば、そのさじ加減はどこなんだ?

もし徹底してやらないのであればさっさとやめないか?
この昭和な感じ。
子供達にこの閉塞した人生をいつまでさせるのか?
多少リスクがあっても可能性に満ちた世界を見せた方が良くないか?
可能性とはリスクがつきものだ。
リスクがない未来など日常の寝言の延長だ。
そのリスクをどこまで自分が背負うのかは人それぞれだ。
人は皆違っていい。

恐怖の流行が虚構であり、
あの時はみんな洗脳させられていたなぁと
早く笑い話になることを願いつつ。

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