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生命を賭けている:がんばれ!ホッカイドウ競馬のコラム(第154回)より

中山競馬場のウィナーズ・サークルの端、ちょうどコースの外ラチのすぐ脇の場所。馬場入りする馬たちがよく見える位置ということもあり、カメラマンなど報道陣のほか、調教師や助手など、多くの関係者が馬たちを確認する場所となっています。
ある日のこと、パドックからコースへと入る馬たちを見送るため、僕もその場所に立ち、ポケットから取材メモを取り出そうとしていました。そんなとき、不意にすぐ近くから大きな声が飛び込んできたんです。

「ああ、アイツ! また馬鹿なことして! あんなんじゃダメだよ、おい!」

大きな声とはいっても、遠くまで響くような音量ではなかったのですが、これがまた、なかなかの声量で。びっくりした僕が、声の主を探そうとすると、なんと至近距離、自分のすぐ横にコワモテの顔が……美浦所属の某調教師の方が、すぐそばに立っていたのです。
「ああ、もう見ちゃいられないよ。手綱を引いてって何度も言ってんのに、まったく! この間もアイツはああだったんだよ。馬にナメられちゃってるんだよ!」
そんな声を発する調教師が見つめる先へと目を向けると、馬場入りする数頭の馬のなかに1頭、不穏な動きをしている馬が。そばにいる厩務員の手綱は長く張っていて、鞍上の騎手が必死になだめようとしていました。
それを見て、調教師の声のトーンはますますヒートアップ、握られた拳はその怒りを表していました。
「もう! ほらほら、やられるぞ、やられちゃうぞ!」
まさにそんな言葉が出た瞬間のことでした。ダートコースから芝コースへと向かう途中のその馬が大きく尻っぱねして、横にいた馬を蹴り飛ばしにいったのです。
“あっ!”
馬が他の馬を蹴りにいくといのは、そう稀な光景ではありません。ただこのとき、馬同士の位置がそう遠くなく、あまり良くないタイミングだったこともあり、僕はつい小さく声を出してしまっていました。
しかしその声は、すぐ横の大きな声にかき消されていました。
「ほら、やられた! まったくあいつは! 手綱を回して持てってのがわかんないのかよ!」

そんな声が外ラチの近くで響いていたわけですが、実際のトラブルの現場では、上手に騎手たちが状況を処理していました。
まず蹴りかけられそうになった馬の方ですが、その直前に鞍上の騎手がすっと手綱を動かしていて、難なくその攻撃をかわすと、我関せずといった様子でさっさと芝コースへと入っていきました。
一方の蹴りにいった方の馬はというと、ケンカ相手に逃げられた腹いせか、さらに首を沈み込んだり、立ち上がる仕草を続けました。
その鞍上の騎手は、ギリギリで馬を御しつつ、厩務員に引き手の手綱を外すよう指示しました。慌てて厩務員が手綱を外すと、馬は不自由がとれたことに気づいて一瞬動きを止めました。その瞬間を見逃さず、騎手が合図を送ると素直に指示にしたがって、まるで気持ちを沈めるかのようにキャンターへと入っていきました。

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すべての馬がその場をあとにしたところで、調教師が大きな声を出しました。
「おーい! ○○ちゃん!ちょっと!」
声が向けられたのは、先ほどの馬の厩務員でした。待機所に向かおうとしていたその厩務員が、ちょっと小走りに芝コースを横切って、こちらの方に向かってくると、調教師は諭すように、でも強い口調で言いました。
「なぁ、この間も言ったけどさ、手綱をこう回して持てって言ったろう」
その言葉に、駆け寄って来た厩務員はうつむきながらこう答えました。
「あ、いやわかってはいたんですが……」
「わかってたらやらなくちゃさあ!」
調教師の言葉にさらに下を向く厩務員、それほど若い方ではないように見えました。頭をかきながらうな垂れるその姿を見て、調教師はさっき馬と一緒にいたときに投げかけたのと同じ言葉を、でも口調を和らげてこう言ったんです。
「いやだってさぁ、危ないよあれじゃあ……。怪我するよ……。ねぇ。ダメだよ、あれじゃあ。怪我してからじゃ遅いんだからね……」
そう話す調教師の言葉は“怒り”のものではないように思えました。

競馬の世界でやっぱり怖いのが怪我でしょう。
それは馬の怪我だけでなく、人の怪我も含めての話です。体重が500キロ近い馬たちと、そのわずか10分の1程度の体重しかない人間たち。馬同士でも、馬と人間でも人間同士でも、ふとしたことが事故に、そして怪我に、いや場合によっては大怪我に、ひどくすれば命を失うことに繋がるのです。それを踏まえての言葉のように思えました。自分の関わる馬に、自分の関わる馬のスタッフに怪我をさせてはならない。ましてや他の馬や人に怪我をさせてはならない。そんな気持ちが伝わってきました。

競馬に関わる人、そしてもちろん馬たちは生命を賭しています。生まれて、育ち、競い、そして消え行く日まで。だからこそ気をつけなければいけないことがあるということを、そして守らなければいけないルールがあるということを改めて実感した瞬間でした。

【現代でのあとがき】
えっと…調教師さんの実名は書きませんよ(苦笑)。ただコワモテな方とだけ。
記録によると15年以上前のことです。あの頃にあっても、厩務員さんへの指示・指導は本当に適切なものだったと思います。
命がかかっている、それは馬にかかわる人に共通したことだと思います。だからこそ、凡事徹底はもちろん、緊急時の対応は大事になってきます。そしてそういう人たちのなかで、馬たちは全力を出している、そんなことも覚えておきたいところです。
そうそう、冒頭の場所で出会った方のなかで、印象に残っているのがフジテレビの伊藤利尋アナウンサー。後ろから「横、いいですか?」と声をかけられて、「ええ、もちろん」と言いながら振り返ったら、伊藤アナでした。本当に真面目で、丁寧で、物腰柔らかい方でしたね。逆に某アナウンサーは……おっとこのへんにしておきましょうかね(苦笑)。

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