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東京で正気を保つために過ごす日々として僕にはパーフェクトに思えた

 ショッピングモールがとにかく苦手であることに改めて気がつく。miiさんには大変申し訳ない気持ちになるのだが毎度行くと機嫌が悪くなる。だけど映画を観るためなのだ。映画を観てる間はなんとか世界に浸れるだろうと思い映画館に入ったらなんとほぼ満席である。辛い。そしてイライラしてくる。人が多すぎる。若干パニックになる。口にはしなかったが外に出て待ってようかなぁと真剣に考える。だけど映画も観たい。ひとまず呼吸をしながら空間と身体を合わせてみる。これで落ち着かなかったら外に出ようと真剣に考える。口には出さないけれど。

 PERFECT DAYS本当にパーフェクトだった。いや冗談とかではないのだけど、東京で正気を保つために過ごす日々として僕にはパーフェクトに思えた。これ以上に東京でできることはないと思えるくらいに。生まれ育った街の環境(あの東京の下町の感じ。江戸川区なもので)と重なってなんだか原風景を観ている気持ちになった。これが僕が30年近く育った街なんだと思った。僕には原風景がないというのがいつだったかの悩みだった。確か宮崎駿が原風景について語っていたのかな。とても重要なものだと。石牟礼道子も語ってたかもしれない。僕には彼ら彼女らのような豊かな、情操を育むような風景がない。全くもって自然というものが存在していないのだ。家の目の前には高架線があって都営の電車が走っている。(地下鉄なのに船堀と東大島は地上に出るのだ)遊ぶのは近くの公園と言っても土ではなくコンクリートで固めた地面だ。そこで野球をしたりする。団地の敷地内にある裏山と呼ばれる場所が僕の中で浮かぶ身近な自然だったりする。あとは土手とか。何がともあれ僕にはその少ない自然で我慢できなかったし、内側で起きている波を抑えることはできなかった。僕が耐えきれなかった街で平山が充足感を得ているように見えるその姿が羨ましかったのだけど、途中仕事の関係で怒りを露わにするシーンがあってなんだかすごく安心した。ああ、なんか分かり合えそうだと思った。羨ましいだけじゃなく親近感があった。

 東京って奇抜なものがどこかしこに生まれて行く不思議みたいなものがあったなとなんだか思った。小さな頃にあったものが消えて無くなり、そこに新しいものができる。それが現代ではデザインがやたらと凝っているトイレになったりする。(それはやに浮いて見えるのだが)なんだかどんどん発展していく街は、昔の面影なんてものがなにも残っていないように見えるが平山の持つカセットテープや古本屋で買った文庫本だったりが面影を失わずに存在していて、こちらの世界で迷子にならずに見失わずに生きている人を見ている気がしたし、部屋の中で少しずつ森を育てて行く姿がなんだかグッときた。とにかく終始グッときていたのだ。
 僕の中で流星の絆で止まっていた三浦友和が出てきた。その中で映し出された姿とか役柄としての状況と相待ってなのか妙に響いてきた。影踏みのシーンももちろんなのだが顔が映し出されている時に見えたシワやたるみなんかが、老いること、これから死んで行くことがそこに存在として物語っているように思えて息を飲んでみていた。そしてなんだか僕には平山という人がどこか深くで怒りを抱えながらも豊かに生きている人に見えたのでした。(ああ、そうだ。あのハグとか涙腺崩壊したなぁ。なにかを許したように思えた。なんかなにも語らない人たちの存在感たるや。もちろん語る人たちの良さもあり、みなさんすんばらしかった)

 何がともあれ僕は映画を楽しむことができた。人が多くてぐったりしていたけど。興味深かったのは僕の隣にいたおばさんは終始笑っていた。(小さくではあるけど聞こえる程度に)miiさんを挟んで座っていた女性は涙を流していた。映画が終わってからいくらか鼻をすすっている音がする。確かに笑えるし泣けるのだが、なんだかとなりのおばさんの笑いは嘲笑に似た笑いのように思えてなんとも言えない気持ちになった。僕には平山という人がコメディをしているようには見えなかった。映画館はたまにしか行かないのだけどリアルタイムで自分以外の人の反応を肌で感じることも面白みであるのかなぁとなんだか思いつつ、今度映画行くならもうちょっと快適な映画館LIFEを送りたい今日この頃なのだ。家に帰って即刻コタツになだれ込みおやつ食べて眠り込んだのでした。頭の中でヴィムヴェンダース最高やんと念仏にみたいに唱えながら。特に夢は見なかったけどとなりからいびきが聞こえてきた。

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