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誕生日を迎えて

「おじさんは43.24歳から」いう記事を何かしらの雑誌で読みました。遠来の虚像だったおじさんが僕の人生にいよいよ迫りつつあり、今日の誕生日から逆算すると、ちょうど六月の中旬にはおじさんへの扉がじめじめと開かれるようです。とはいえ、来たるべきおじさんへの入構を前にして、ひと旗揚げてやろうと腹の奥にたぎりが生じるわけでもなく、これが自若としていられようかと奮起する気概もなく、今日を迎えた43歳の実像は、はっきりと白黒もつかず滲んだグレーの世界。ぼんやりとした中年の主張の行き着く先は、輝けるシルバーの花道か、枯れ木に舞う灰の余生かと、若気の残骸を背景にしてどこか他人事のような心持ちです。

しかしながら、老いの風情をどこか愉しむ心とはうらはらに、身体の方は古い納戸の開け閉めのような小さな悲鳴を重ねていたようで、今日からさかのぼること一か月ほど前、突如体調を崩して数週間の休養を余儀なくされました。ひとえに日ごろの不摂生と過労がたたってのことですが、時期を同じくして背骨を痛めたことが社会復帰への時間を過分に要した原因のひとつと考えられます。押し入れに眠るジョギングシューズのことは棚に上げて、はつらつたる大学生に混じって意気揚々とトランポリンに挑んだ中年予備軍は、地球の重力と年齢の壁にみごとに跳ね返されました。みじんの迷いもなく跳びこんだ瞬間に鈍く響いた背中の真ん中あたりの小さな違和感はひと跳びごとに存在感を増し、額に心なしかの汗もにじまぬうちに、僕の足取りはほうきで掃かれた枯れ木のように変わり果てました。今でこそ以前と変わらぬまでに快癒しましたが、老後の杞憂に明瞭な輪郭を与えるには十分すぎる出来事でした。

誕生日の話題となると決め台詞のように「おめでとう」「ありがとう」と繰り返す最中にも、たびたび突きつけられる「有り難さ」の切っ先のようなあれこれ。となりの芝生の青さや、青空を軽やかに舞う浮き雲を羨望の目で追うことにもいささか飽きが生じ、朽ち果てた落ち葉が凪の湖面を漂うごとき日常に心地よい均衡を覚えることもしばしばです。20代の飲食接客業、30代のデザイナー業・コピーライター業と慌ただしく駆けてきた人生ですが、それなりに熟成ーー老いともいうーーのすすんだひとつの人生の主として、社会というその他大勢がカテゴライズのために定めた「職業」という概念のぬかるみにはまるでもなく、真っ向からあらがうでもなく、世の中の流れの澱みをぬってゆるゆると進む小魚のような生き方も悪くないと居直っております。自分がない、と言われればおっしゃる通り。あなたらしい、と言われればおっしゃる通り。無私、滅私に彩られた無色透明の風景に向けて、おはじきの煌めきのような無邪気の欠片を後生大事に抱えて生きてゆければ本望です。後悔は少なく、反省はほどほどに、好奇の心はあるだけかきあつめて過ごす日々。ただでさえ度が過ぎる自分勝手に拍車がかかり、皆さまにはご無礼ばかりで恐縮ですが、偶然に出会えた際にはたまゆらの時間をご一緒いただけると幸いです。

ちなみに読みやすい文章は「漢字3割、平仮名7割」と言われ、漢字の比率が多い文章は「黒い文章」と揶揄されますが知らんがな。僕はチャコールグレーが好き。

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