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フリーターを続けていたら、いつの間にかフリーランスになっていた話。

はじめまして
こんにちは。熊本在住フリーランサーのコジマコージです。

「MUDAI」という名前で、デザインとコピーライティングを使って経営者をサポートするクリエイティブ型の企業顧問(パートナー)として活動しています。高校中退+就職未経験の逆エリート街道まっしぐらで今年2019年に40歳を迎えます。

若いころ、自転車通勤で鍛え上げた体脂肪3%の無駄なメリハリボディはもう見る影もなく、ダブルクリックと3歳の娘の抱っこくらいしか運動をしないこの体たらく。たった一歩すらも走らずに2018年を終えた僕の基礎体力は、本田圭佑の無回転シュート並みに絶賛急降下中です。

「MUDAI」になるまで

昨年までは「ロンディネデザイン」という屋号でしたが、「デザイン以外のお仕事が増えてきた」「読みづらい(本人ですら舌をかむ)」「そもそも思い入れがない」といろいろと思うところあり、思い切って変えることにしました。

働くということ
高校の頃のアルバイトで、はじめて働くことを経験しました。いま思うと、それが僕のフリーターとしての輝かしい出発点でしたが、なぜか高校生なのに夜中のバイト。よく結婚式に出てくる尾頭付きの鯛ってあるじゃないですか。あれを夜中に何千匹も延々と焼くという謎のバイトでした。高さ2×幅5mの巨大なハロゲンヒーターみたいなグリル2機がこちらを向いていて、それに挟まれた調理台で鯛に飾り塩を付けながら焼きます。

焼き場の気温はなんと48度。インフルエンザの高熱もはるかに上回る灼熱の空間で、切れ味抜群のタイの背びれで指は傷だらけ。その生傷に塩をすり込むという地獄のような環境でした。しかも、-18℃の冷凍庫と行ったり来たりで温度差は64℃。ナニコレ。うっかりミスで冷蔵庫に閉じ込められて「眠っちゃダメだ…」という話はまたいつか書くとして、働くことの大変さを知り、きびしい大人の世界を垣間見た社会へのデビュー戦でした。

そんなハードなバイトとバンド活動に明け暮れて、高校を3年生で中退(よくある話)。しかも、世は就職氷河期の真っ最中(白目)。マンモスも凍る世間の風にさらされながら、どうやって生きていこうかと18歳のコジマ青年は考えました。高校では電子工学を専攻していたこともあり、人工知能やロボットが人間の仕事を奪うという未来に対して何ができるだろうと数日悩んだ結果、テクノロジーがどれほど進化しても「人と人のコミュニケーション」はなくならないはず。そう思った僕は接客サービス業の門を叩きました。

もちろん飲食経験はゼロ。僕にあったのは寒暖の差に異様に強い身体だけでしたが、毎日とにかくお客さんとの会話をかさねて充実した日々を送りました。僕にとって幸運だったのが、たまたま働いたのが『純喫茶シグナル』(2017年閉店)という知る人ぞ知る熊本の老舗喫茶店だったこと。シグナルに勤務した約10年間で一癖も二癖もある延べ50万人と会話することができて、この経験が僕の自己形成に大きな影響を与えました。加えて幸運だったのが近くに大型の書店があったこと。ぜんぜんお金は無かったけれど時間だけは山ほどあったので、空いた時間をすべて勉強と情報収集に充てることができました。(当時は立ち読みばかりですみませんでした。今はちゃんと買ってます)

その後、ひょんなことからデザインと出会い、独学で学んでグラフィックデザイナーとしての一歩を踏み出しました。そして、数年前からは本格的にコピーライティングを学びはじめ、たくさんの試行錯誤をかさねながら今に至ります。

四十才は二度目のハタチ
社会人としての20年のあいだには、ほぼ無職の時代もあり、なぜかその時期に結婚しました(夫婦そろって無謀)。やがて娘が生まれ、熊本地震を体験して人生が大きく変化するなかで、ようやくフリーランスとして生きる覚悟ができた、とも言えます。

コピーライティングを学び始めるきっかけになった大好きなコピーライター、故・眞木準さんが書いた伊勢丹のコピー 「四十才は二度目のハタチ。」
フリーターを続けていたら、いつの間にかフリーランスになっていた。そんな自他ともに認める運が良い人生ですが、40歳を迎える2019年を二度目の成人と位置付けて、もう一段階ギアを上げてリスタートしたいと思います。

終身雇用が当たり前だった時代も今はむかし。流行と同じように時代の常識も移ろいます。小さく、強く、美しく。自身に起こるさまざまな変化の波を楽しみながら、これから始まるフリーランスとしての第二の人生を綴っていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。

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