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死の話

2回続けて死の話は、少し気が引けますが、残しておきたいので書きます。

叔母が無くなりました。一昨年にはそのご主人である叔父もなくなっています。叔父は父のお兄さんにあたる方です。その叔父の家で過ごしていた事が、僕の記憶の断片に映像しか出てこないレベルの薄い記憶があります。

今になって聞いても遅いかも知れませんが、父が僕の生みの母親と別れてからしばらくの間、その叔父叔母に月~金は預けられ、土日のみ父と過ごしていたようです。

叔父と叔母の間には、障害を持つ長男ともう一人小学生の娘が居て、決して裕福で余裕のある家庭ではありませんでした。僕が今51才だから45年以上前の事です。まだ、今みたいに様々な福祉サービスは無かった時代です。

その頃、叔母も昼の間は働いており、障害にある長男と日中は二人で過ごしていました。障害はその頃小児麻痺と言われていたと聞きました。歩行が不安定な部分は有りましたが、彼は僕の事を本当の弟の様に可愛がってくれていました。まだトイレも和式の頃です。僕は和式のトイレを跨ぐのが怖くてトイレに行けなくて良くお漏らししていました。でも、お兄ちゃんは何度も何度も一緒にトイレについてきてくれて、そのおかげでトイレに行けるようになったとのことです。お姉ちゃんも一杯遊んでくれていました。今、デザインを起こすと女性的な優しいものになっていると、周りのデザイン仲間から言われます。自分は意識していませんが、この小さい時の影響かも知れません。

そして、父が再婚し新しい家庭が出来ました。僕の拒否や抵抗は大きかったようですが、普通の一般的な家庭の枠に入りました。

僕が小学性の頃、お兄さんは死んでしまいました。腸閉塞が原因と聞きました。お葬式も父だけしか行ってなかったようです。

僕と死んだ妻の結婚式の仲人も叔父と叔母ご夫婦にしていただきました。お姉ちゃんは来ませんでした。お姉ちゃんは結構、やんちゃな仲間と過ごすようになっていたとのこと。

お姉ちゃんは、障害を持つ長男と急に割り込んできた僕に、母親の愛を奪われて寂しかったのだと思います。

そして一昨年、叔父が無くなりました。長い間入院されていたのですが、僕は知らされていませんでした。そしていよいよ死期が近いと言われてしばらくしてから父が一緒に行こうと誘ってくれてお見舞いに行きました。その時はしっかり目を開けて僕を認識してくれたかどうかは分かりませんが。

翌日、叔父は亡くなりました。僕が行くのを待っていてくれたようです。

通夜とお葬式、叔母が喪主を務めて、そしてお姉ちゃんも来ていました。お姉ちゃんには2人の息子があり一人は結婚もされていました。本当にご無沙汰でしたがお姉ちゃんは昔の様に僕の事を「けんちゃん」と呼び気が付いてくれました。お姉ちゃんは、叔父と対立したことが多く、最近やっと落ち着いたとのことでした。叔父は何もかも安心して逝ってしまったのだと思いました。

そして今回、叔母が亡くなりました。あんなに元気だったのに、癌だったそうです。入院していることもお姉ちゃんは誰にも言わず、頑張っていたようです。唯一交流のあった、新潟の従弟を通じて親族は知らされたそうです。

お姉さんは、僕に何度も「来てくれてありがとう」と言ってくれました。僕は、叔母の棺に何度も何度も「僕を生かせてくれてありがとう。」としか言えませんでした。

上から順番に亡くなっていく、正しい順番でしたが、自分の身内になると心が引き裂かれるように痛みます。

そして、お姉ちゃんの苗字がまた、「小島」に戻っていました。そしてその息子たちも「小島」の苗字に。

父は、戦争や病気で亡くなった兄妹も多く正確な数は分からないようですが、六男です。叔父が一つ上の五男。二人で新潟から出てきて、立派に働き家庭を築きました。

父や叔父が繋いだ命。一つも無駄にせず、生のある限り精一杯に後悔しないように生きていきます。

昨日も書きましたが、若い方、あなたの命は多くの奇跡の上でそこにあります。絶対に自分に合った幸せがこの世の中にあります。幸せ探しでも、美味しいもの探しでもいいので、小さな幸せを探しながらその時が来るまで一緒に生きましょう。



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