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今夜だけ好きな人

仕事関係の飲み会に誘われて行くと、顔も雰囲気もタイプな人がいた。何気なく薬指を見るとシルバーの指輪がきちんとはまっている。心の中で軽くため息をつく。目が合うと笑顔で名刺を差し出してきた。協力会社の人だったが、この人とは初対面だった。色黒で少し太めなフレームの黒縁眼鏡が似合っている。ニカッと笑うと白い歯がちらりと見えてセクシー。背も高くて声も低くていい感じ。好き。立ち飲み屋ということで、狭いスペースに小さなテーブルがいくつかあり、ごちゃごちゃと小皿やお酒が並ぶ。各自、居心地のいい場所を探して立ったまま飲む。偶然、わたしの隣にその人がきた。ラッキー!と小さくガッツポーズ。何を期待してるんだか。その人とは最初は仕事の話をしていたけど、徐々にプライベートな話になり、その人の家庭の話になった。奥さんとはもう二年くらいレスらしい。子どもが二人いて、とても可愛いんだとか。奥さんのことは、もう女としては見れないし向こうもそう思っているだろう、と言う。その人の表情から嘘をついている感じではなかった。まぁ嘘でも本当でも、どっちでもよかったんだけど。一瞬、横顔が寂しそうだったので可哀想に思った。こういう弱い部分を突然目にすると、どうにかしてあげたくなってしまう。そろそろお開きの時間、ということで協力会社の盛り上げ役の男性が一本締めの合図をして終わる。荷物置き用の一角のスペースから、それぞれ自分の荷物を探し出し、バラバラと店を出る。隣にいたその人が、わたしの耳元で囁いた。「もう一杯二人で飲みましょう」と言っている。その台詞を待っていた。面倒なことはなにも起こらないでほしいとは思いつつ、なにかが起きてほしいと密かに期待する。一緒に飲んでいた他の人たちが店の前でまだ喋っているのを横目に、わたしたちはタクシーに乗って銀座のバーに移動した。その人がたまに行くお店らしい。よくこういうことするのかな?と一瞬思ったけど、どうでもよくなった。別に騙されてもいいや、今夜だけは。そう思えてしまった。薄暗いバーに到着すると、気さくで品のあるマスターが出迎えてくれた。「あら、しばらくですね」とその人に向かって言った。前回は仕事仲間の男性何人かで来たという話をしていたので、女ではないということが聞けて少しホッとした。今夜だけのわたしの好きな人、が隣にいる。バーカウンターの下で手を繋いだ。あったかくて大きな手。好き。会話がなくても平気。その人が結婚していて子どもも二人いるということは事実だ。でも、今夜だけは好き同士でいてもいいでしょ?と心の中で誰かに聞いてみる。カクテルを二杯くらい飲んだところで、「そろそろ帰らないとだね」とその人が優しく言う。さみしい、もっと一緒にいたいとは言わずに、「そうだね」と繋いでいた手を離した。充分満足した。はず。気さくで品のあるマスターに別れを告げて、タクシーをつかまえる。金曜の夜はそんなに簡単じゃないのを知っている。このままずっとつかまらなければいいのに、逃げてタクシー。と思った。そんな馬鹿なことを考えながら隣にいたその人をチラッと見上げると、目が合った。わたしはゆっくり目を閉じて、キスを待った。すぐにその人の唇がわたしの唇と重なった。心臓がドキドキ言っている。今度はさっきより長めのキスをした。好きな人とキスをするとき、まわりの音が全く聞こえなくなる不思議。今、この空間には二人しかいない、みたいな錯覚。唇が離れ、目を開けると現実世界のガヤガヤとした音が再び聞こえてきた。空車と電子版に書かれたタクシーがつかまった。二人で乗り込む。乗ってる間も手を繋ぐ。好き。すると、突然その人のスマホが鳴った。奥さんからだ。電話の向こうで奥さんが心配している。声が漏れてきて、ちょっと不機嫌そう。電話中もわたしを触ってくる。戯れ合うわたしたち。電話が終わると、その人は疲れた感じで微笑んできた。奥さんとの会話には一切触れないで、黙って手を繋ぐ。それでいい。もうすぐわたしの家の最寄駅に着く。ここでいいです、と運転手さんに伝える。繋いだ手を離す。「じゃぁ、ありがとうね」とその人にむかって笑顔で手を振る。その人はとても眠たそうに、でも幸せそうに「気をつけてね」ととろんとした目でわたしを見ながら、手を振る。今夜だけ、好きになった人だからもう会うつもりもない。その人の手の温もりと、うっとりするキスの余韻を楽しみながら家にむかって歩き出した。